於凛の恋(後)
いよいよ、藤治郎が甲斐へと行く日が近づいてきた。
「ねぇ、どれくらい甲斐にいるの?」
「分かりません。すぐに帰るかもしれませんし、帰ってこないかもしれません」
「帰ってこないなんて言わないで!必ず帰ってきてね。必ずよ!!」
於凛の言葉に藤治郎はただ微笑むばかりだった。
「文を書きますよ」
藤治郎の言葉に、於凛はぱっと顔を上げた。
「いらない。文なんて書かないで」
於凛は藤治郎の言葉に感情なく答えた。
「だって、だって……!ずっと文が届いてたのに、急に来なくなったら……?そしたら、そしたら、っ、藤治郎さんは……っっ!!!」
於凛はそれ以上言葉が出なかった。大きな目に涙を溜めて唇を噛み締めた。於凛が初めて見せた涙だった。しゃくりあげて言葉にならない於凛を藤治郎はそっと抱きしめた。
「私のために泣いてくれるんですね。ありがとうございます。」
「藤治郎さんの馬鹿。馬鹿バカ・・・、ばかぁ・・・・!!帰ってこないなんて言わないで……っ!!」
普段は決して見せることのない於凛の弱気な姿を見て、藤治郎は於凛を離したくないと思った。このまま甲斐に連れて行こうかとも。しかしそんなことできはしない。
「待っていて欲しいとは言いません。あなたはいずれ誰かと結婚するんでしょうね。待たなくてもいいから、私がいたことを覚えていてくれますか?」
自分を抱きしめた腕を掴んで於凛は顔を上げた。
「どうして、どうしてそんなこと言うの…!!?あたしは……あたしは藤治郎さんのことが……っ!!」
ボロボロと流れる於凛の涙を拭った。
「泣かないで下さい」
「どうして本音を出さないの!!言えばいいじゃない!待ってろって!!言ってよ!!ねぇ!そしたらあたしはいつまでだって待ってるのに……っ!」
「私は……。私には言えません」
藤治郎は自分を鋭く見つめる於凛から顔を背けた。
「何よ!!逃げてるだけじゃない!!藤治郎さんは怖がってるだけだわ……!」
藤治郎は於凛の肩を強く握りしめた。
「……えぇ…!!怖いですよ!!死ぬかもしれない、もうあなたに会えないかと思うと、このまま甲斐に行かない方がいいのではないかと、何度も思いましたよ」
藤治郎は肩を震わせた。噛み締めた唇は赤く染まり、於凛の肩を握りしめる指は白い。
「本当は、あなたに会うまでは死んでもいいと思ってた。だけど、・・・・あなたに会って私は欲がでてしまった…。もっと生きたい、と……」
死にたくない……
小さく呟き泣き崩れた藤治郎を於凛はぎゅっと抱きしめた。震える肩は小さく、於凛を掴む手も弱々しい。
「ねぇ、言って。待ってろって言って」
藤治郎は弱々しく於凛を見上げた。
「待っていてくれますか…?こんな私を待っていてくれますか?」
「えぇ、えぇ…!!!待ってる。ずっと待ってる……!あたしが待たなきゃ誰が藤治郎さんを待つのよ…!!」
泣きながらお互いを抱きしめ、於凛の言葉に笑った。
そして五日後、藤治郎は甲斐へと旅立った。
「藤治郎さんは今はどうなさってるの?」
「さぁねぇ。どうしてるだろう?」
於凛は笑って答えた。
「一度も文をくださらなかったの?」
「病が治るまで互いに文は出さないって決めたからねぇ」
「えぇ~!!」
姉様も藤治郎様も馬鹿だわ
口を尖らせ不満げなおはなに於凛は笑った。
あぁ、でも……
「一度だけ。一度だけそれを破って文をくれたことがあったよ」
それは、於凛の両親が亡くなった時だった。どうして知ったのか、藤治郎が文をよこした。
「たった一言。『すぐに帰ります。』だってさ。すぐっていつの話さ、って笑っちまったよ」
きっと兵助が報せたんだろうねぇ。
藤治郎が甲斐へ行ってから於凛は口調をがらりと変えた。藤治郎を待つ間、弱気にならないように。藤治郎を待つ決心が鈍らないように。
「あたしがこの口調になってからさ、兵助もあたしと同じ喋り方をするようになったんだよ」
その時のことを思い出したように於凛はクスクスと笑った。
「『於凛姐さんが寂しくないように。』だってさ」
優しいやつだよ、あいつは
於凛が正直な気持ちを伝えるために藤治郎のもとへと背中を押してくれたのも兵助だった。
於凛は優しい目で遠くを見つめた。
「さっ、休憩は終わりだ。そろそろ店を開けるよ!」
於凛は立ち上がり、のれんを上げた。
「そっか、もう十年も経つのね……藤治郎さんは何をしてるのかしら……」
小さく呟いた於凛の声は寂しく、口調もおはなの知っている於凛のものとは丸きり違うものだった。
「於凛姉さん………」
ねぇ、藤治郎さんは今どうなさっているの?
姉さまは今でもあなたを待っているわ。
早く、
姉さまに会いに来て……。
〈~於凛の恋~ 完〉
生きてるのか死んでいるのか分からない。けれど確かに藤治郎は於凛の心で生きている。バッドエンドじゃなくてハッピーエンド。