花見3
「姐ーさんっ。はい、コレ。藤治郎さんもな」
桜を見ていると兵助が横から手を出した。於凛と藤治郎にお猪口を手渡し、素早くなみなみと酒を注いだ。
「あー!兄貴ィ!!俺もーー!!」
「へいへい。分かってるよ。ほれ与吉も」
ずるいー、と口を出す左助にも酒をつぎ、与吉にもお猪口を握らせた。私はいいです、と顔をひきつらせる与吉に兵助はいーから、いーから、と無理やり握らせ酒を注いだ。
「兵さん!私は……」
「お前、あの天下の鬼神だぞ?呑まねえなんて野暮なこと言うなよ」
「兵さん、若旦那は酒が呑めないんですよ」
小さなお猪口を両手で握り、じっと酒を見つめる与吉に龍之進が横槍をいれた。
「呑めねぇんだったら呑めるようになればいいんでィ。ほら、呑みなせぇ」
兵助はお猪口を持った与吉の手を掴み口にぐいっと押しやった。与吉は反射的に唇を潤す酒をゴクリと飲み込んだ。
「ほら、旨いだろィ?」
兵助はニコニコと笑う与吉の顔を見て満足げに笑った。しかしその瞬間、与吉の顔色がみるみる真っ赤になり、瞬く間に後ろに反り返った。
「よ、与吉!!?」
笑いながら倒れる与吉はなんとも気味が悪い。兵助は顔をひきつらせながら与吉の肩を揺すった。
「お、おい。龍!!」
自分の主人が倒れたに関わらず特に何の行動を起こすわけでもなく隣でのんびり酒を口にする龍之進に兵助は目をやった。
「あ~、大丈夫ですよ。寝てるだけです」
「………は?寝てる?」
目を回す与吉をちらりと一瞥して龍之進は声をあげて笑った。
「あはは、若旦那は甘酒舐めただけで目回しちゃうんですよ。鬼神なんて呑ませたら………ねぇ?」
龍之進は目と口で弧を描いた。手にはしっかり鬼神の入った猪口を握っている。
「おま、恐ろしいやつだな…」
「うわぁ、心外だな。私は言いましたよ?『若旦那は呑めないんですよ』ってね。呑ませたのは兵さんじゃないですか。」
龍之進はコロコロと喉を鳴らし、グイッと猪口を傾けた。
「っはぁー、さっすが鬼神。旨いなぁ」
なんともマイペースに酒を呑む龍之進に兵助はため息をはいた。
「若旦那もこれくらいで倒れるようじゃ田丸屋なんて継げませんよ。早いとこ酒に慣れて欲しかったんですがねぇ。やっぱり鬼神なんていきなり格が高すぎたか……」
なにも与吉に恨みがあって呑めない酒を無理に呑ませたわけではない。考えあってこその行動なのだ。甘酒を舐めただけでも倒れてしまうような与吉に鬼神なんて呑ませたらどうなるかなど目に見えていたはず。なのに敢えて呑ませたのは親心、兄心あってこそだ。といっても、与吉にとっては小さな親切、大きなお世話、だが。兵助はそんな龍之進の少しズレた愛情を苦笑しつつ、既に半分消えた鬼神に慌てて手を伸ばした。
「ちょ、お前ぇら、呑みすぎでィ!!もう半分じゃねぇか……!!俺まだ一杯しか呑んでねぇ!!」
「ぐずぐずしてるからだよ」
「あーもう!!姐さんそんなに呑まねえでおくれよ!!俺の分がなくなっちまうだろィ!!」
「まだ半分も呑んじゃいないよ」
「ったく。姐さんいくらでも呑んじゃうんだから…」
急いで酒を抱え、口を尖らせぶつぶつと呟く兵助に於凛はカラカラと笑い声をたてた。
「呑み比べでもするかい?」
ニヤリと目をやる於凛に兵助も負けじと片側だけ口端を上げた。
「姐さんにゃぁ負けねぇさァ」
腕をまくり上げ、顔をつき合わせた。藤治郎はにこやかにその様子を見つめ、龍之進は面白いことが始まる、と楽しそうに手をたたいた。横では目を回した与吉を介抱するおはながワクワクと身を乗り出し、お小夜はどちらが強いのかしら、と思考を巡らせる。みんなが盛り上がり、やんや、やんやと騒ぐ中、唯一顔を青くさせた左助が手を伸ばしながら立ち上がった。
「あ、兄貴!!」
「ん?なんでィ。左助もやりてぇのかィ?」
さぁ、始めるかと猪口を突き出した途端に左助から横だしをされ兵助はぞんざいに口を開いた。
「まさか!!兄貴たちとやりあったら俺なんて負けるに決まってるじゃないっすか!!勝負になんねぇっすよ!二人ともウワバミなんっすから!!」
左助はうんざりした顔で肩を下げた。左助が酒に弱いわけではない。むしろ強い方だと自負している。それは間違いではないし、左助だけでなく龍之進だって酒には強い。多少口にしただけでは酔わない。それに、我を忘れて千鳥足になるほど酔っ払うこともない。左助も龍之進も加減を調整しながら酒を楽しむ。まぁ、滅多なことでは酔わない。
ではその左助が勝負にならないと言うのは何故か。
兵助と於凛が規格外に強すぎるのだ。この二人に勝てる者などそうはいない。我こそ酒豪だと豪語する者が呑み勝負など持ちかけた日には……たちまち自信という名の長く伸びた鼻柱をぽっきり真っ二つに折られてしまうだろう。
いや、折られてしまった。すでに町一番の酒豪の旦那を負かしてしまったのだ、この二人は。
ではそんな兵助と於凛が呑み比べなどしたら……?
酒屋の酒をかき集めても足りないと言っても過言ではないかもしれない。呑んでも呑んでもまさに文字通りザルのように、腹に納め、まるで水でも呑んでいるかのように喉に流し込む。なによりこの二人が本当に恐ろしいのは顔色がほんの一瞬の変化も見せないことだ。酒を呑んで顔を赤くする?そんなことありえない。ほんの少しも酔った様子を見せない。
ある時、どちらの方が強いのかと左助が問いかけたことがあった。そんなちょっとした疑問から、左助にとって一生忘れることのできない、あの呑み比べが始まった。左助が判定を務める中、お互い一歩も譲らずハイスピードで喉を潤した。時は刻一刻と過ぎ去り、ついに勝負が終わりを迎えた。
どちらが勝ったのか。言うまでもない。兵助?於凛?どちらでもない。そう、……決まらなかった。
終わりの見えない勝負に真っ先に根をあげたのは一口も舐めてすらいない判定務める左助だった。一口、また一口と猪口を運ぶ度にペースは上がり、猪口では足りないと升で呑み始める。呑んでも呑んでも顔色一つ変えず、むしろますます勢いのつく二人に左助はまっさきに顔色を変えたのだった。はじめて正気の人間を恐い、と思った瞬間だった。同時に自分のとんでもない発言に後悔し、二度とこの二人に呑み勝負などさせてはいけない、いや自分がさせないとお上に誓ったのだった。
「二人が呑み比べなんて始めたら鬼神なんていくらあっても足りねぇっすよ!!せっかく上物が目の前にあるのに勿体ねぇ呑み方なんてしねぇで、みんなで楽しく呑みやしょーよ!!ねっ!!?」
それもそうだな、と猪口を持ち上げた手を下ろした兵助に左助は心底ホッとした。
この二人の呑み比べなどもう二度と見たくない。どんな悪党を追うよりも恐ろしく、肝が冷える。あの時の二人は笑ってたし、正気も失ってなかった。いつもの二人と何一つ違ってなかった。だが、それがむしろ左助の恐怖心を煽った。浴びるように次々と酒樽を空にする二人は何よりも恐ろしかった。その昔、子供の時分に真っ暗な寺の本堂に友人と忍び込んだ時に垣間見た、ぎょろりと赤い眼の光る恐ろしい形相のあの鬼の絵ほど恐ろしいと感じたものはなかったが、あの瞬間その考えを改めさせられた。
あの二人ほど恐ろしいものはない。
そう心の奥に刻み込んだ瞬間だった。
「(本当に恐ろしい鬼はこの二人だ……)」
二人の呑み勝負を止めた時、左助は大きな仕事をやり終えたようなそんな疲労感を味わい、背中にびっしりかいた脂汗で身も心も冷やし、ぶるりと大きく体を揺らしたのだった。