花見2
左助を慰めるお小夜に、おはなの機嫌をとる与吉、それを見て笑い転げる龍之進と兵助に、楽しそうにみんなを見る藤治郎。これではいつまでたっても本来の目的である花見ができない。ため息を吐きつつも可笑しくてついつい於凛もクツクツと声をもらいした。
「於凛さん、見て下さい」
楽しそうにみんなを眺める於凛に藤治郎がお重を見るように促した。言われたとおりにお重を見ると、於凛は思わず頬を緩るませた。蓋を開けたままにしていたからか料理の上に桜の花びらが落ちていた。黄色や緑、茶色の料理に桃色の花びら。於凛は眼を細めて小さく微笑んだ。
「何か足りないと思ってたんだ。これでやっとあたしの料理が完成されたね」
数々の料理の最後の仕上げは小さな桜の花びら。最高の装飾。藤治郎と於凛は視界いっぱいに広がる桜を見上げた。
「春が巡る度にあなたと桜を見ることができたら、どんなに幸せだろうか、と何度も夢にみたんです。青い空、夕焼け、満天の星空、銀杏並木、雪景色。たくさんの移り変わりを見ては、あなたも同じものを見てるのかもしれない、と考えました。いつか一緒に見れたら良い、と。それが今こうしてあなたと並んで同じ桜を見上げている」
言葉を切り、藤治郎は優しい笑みで於凛を見た。
「私は、今死んでも良いくらい幸せ、です」
ふわり、と暖かい風が二人の間を吹き抜けた。その瞬間、藤治郎が本当に、消えてしまいそうで、そこにいるのに、なぜか遠くに行ってしまいそうで……。すぐそこにいるのに。手を伸ばせば簡単に触れられるのに…。
於凛は自然と力の入った右手を左手でそっと包み込んだ。藤治郎は於凛に向けた顔のまま再び桜を見ている。桜を見る藤治郎の横顔は、色が白く、少し蒼くて、儚くて、美しい。そう、今にも消えてしまいそうなほどに。
なんだか泣きそうになった。やっと会えたのに。やっと、やっとずっと一緒にいられるのに。病だって…治ったのに。もう心配ないって言ってたのに。藤治郎は、死んでも良いだなんて、縁起もないことを笑顔で言う。そんなこと、死んでも良いだなんて、そんなこと冗談でも言って欲しくはなかった。
『死ぬ、だなんて簡単に言わないで……』
於凛の小さなつぶやきが一枚の桜の花とともに散った。
「……?何か言いましたか?」
「ううん、なんにも言ってないよ」
「そうですか」
藤治郎はふわり、と笑って於凛の髪に乗った桜を摘んだ。
「ふふ、桜が」
花びらを人差し指と親指に挟んで愉しそうに笑う藤治郎に於凛は何故か安心を覚えホッとした。
死なないよ、この人は絶対に死なない。あたしを置いて死んだりしないって、そう約束したから。死なせはしない。死なせてたまるものか。
藤治郎を決して失いはしない。生きることを一度は手放そうとした藤治郎がこうして生きる道を選び、於凛の前に再び戻ってきた。もう二度と、命を諦める道を歩ませなどさせない。そう考えると、先程までの不安に揺れていた心が、どっしりと落ち着いた。
なによりも藤治郎が死ぬことを恐れていたのは、藤治郎ではなく於凛だった。こうして無事に帰ってきた今でも、死ぬかもしれないと不安に心を揺らしていた。なんて愚かなんだろう。信じていなかったのは自分ではないか。藤治郎が死ぬことを考えていたなんて、なんと浅はかだったのだろう。あたしは、なんて……
『莫迦なんだろう。本当に莫迦だ』
笑いを噛み締める於凛を、藤治郎は桜の花びらが頭に付いたことが相当可笑しかったのだろうか、と不思議に思った。しかし、涙目になりながら笑う於凛の様子が普段の於凛とは想像もつかないくらい子供みたいに可愛らしく、自然と藤治郎にも笑みが浮かんだ。
「藤治郎さん」
於凛は指で涙を拭いながら藤治郎を見た。
「藤治郎さん。来年も二人で同じ桜を隣に並んで見よう。桜だけじゃなくて、空も花も山もお日様も星も鳥も虫も、田んぼや、ただの道だって、季節が巡る度に、何度だって厭きるくらい一緒に見よう」
於凛の言葉に少し驚いて、少し照れて、少し嬉しくて、少し申し訳なかった。冗談でも死んでも良い、と口にした自分を恥じた。同じ景色を見れることが本当に死んでも良いくらい嬉しかったのだ。だけど口に出すべき言葉ではなかった。不安にさせてしまったのだろうか。心配させてしまったのだろうか。だけれども、だけれども不謹慎にも、この人を、於凛を、たまらなく、愛おしい、とそう思えた。しっかりしてて、何でも一人でできてしまって、頼もしいと言われているこの人が、本当はこんなにも愛らしく、怖がりだなんて誰が知っていようか。ああ、兵助だけは知っているかもしれない。
藤治郎は於凛を本当の姉のように慕い、自分もまた大切な友人だと認めてくれた兵助の存在をただ純粋に嬉しく思った。
「そう、ですね。来年も、その次も、その次の次も、この先何十年と、同じものを見て笑ったり、ささいなことで感動したり、そんなことを私の隣にいて一緒にして下さいますか?」
於凛はクスリと笑うと藤治郎の手を両手で包み込んだ。於凛の手は女性から見れば決して小さくはないのに、藤治郎の手と比べると随分と小さく見える。病弱だったその背中も、手も、なにもかも於凛を包み込めるくらい本当は大きい。男性から見ればか弱く見える藤治郎だけど於凛にとってはとても大きくて、頼もしくて、温かい。少しだけ角張った手も、筆まめが出来た白くて長い指も、垂れた目も、少し低めの優しい声も全てが愛おしい。
病に侵されていた時は冷たかった手は今では生きていることを強調するかのように温かく、生命力に溢れている。それがたまらなく嬉しい。
「ねぇ、藤治郎さん。して下さいますか、じゃなくて、しましょう、でしょ?それに…、もう、死んでも良いだなんて、馬鹿なこと、言っちゃだめよ?」
己の手を見ながら優しく諭す目の前の女性がまるで母のように、温かく、大きく見えた。
「今度そんな事言ったら裂けるくらい口引っ張ってやる。それでもって、もう二度と同じ景色見てやんない」
にぃ、っと口の端を上げて笑う於凛はさっきと違って出逢った頃のような少女の顔をしていた。
「それは困りました。気をつけます」
「よろしい」
すました声で言った後、二人は目を合わせ、ぷっとふき出した。そして、桃色の、鮮やかな主役を見て穏やかに笑った。
「綺麗だね、藤治郎さん。今までで一番きれい」
「こうして誰かと一緒に幸せを分かち合うことが、なによりも美しくさせてくれるのでしょうね」
「幸せ、だね」
「ええ。幸せ、です」
大切な人と見るともっと美しく、大切な人が隣にいるともっと幸せで、大切な人が笑顔だともっと嬉しい。いつか死ぬ日が来るけれど、いつか別れが来るけれど、いつか隣に立てなくなるけれど、それは今でなくていい。いつか、はいつくるか分からない。今は、いまここにある幸せ、を感じるだけでいい。いつかくることは、運命に任せればいい。何が起こるか、なんてその時にならないと分からないのだから。
そう、今はこの瞬間を、楽しむだけでいいのだ。