奉公人、龍之進
田丸屋は反物を扱う老舗の商家であり、与吉はそこの一人息子である。
与吉は両親が長年望んでやっとこさできた待望の長男だったためたいそう甘やかされて育った。
欲しいものがあれば買い与え(私は何もいらないのだけど)、どこか行くときは手代を必ずつけ(もう、十八なのだから一人で行かせておくれよ。)、一度飯が喉を通らなくなったときなど、顔面蒼白で大慌てしたものだ(あぁ…っ、あの時のことは忘れておくれよ…)。
とまぁ、誰もが認める親ばかなのだ。そしてこの田丸屋には四人の奉公人がおり、そのうちの一人を龍之進と言う。
八つの頃から田丸屋に仕え、与吉とは兄弟のように育ってきた。与吉の両親も龍之進を本当の子のように可愛がり、忙しい自分たちに代わって与吉の世話の一切を任せるほどの信頼を寄せている。与吉も龍之進を本当の兄のように慕い、相談事は両親よりもまず龍之進に持ちかけるほどだ。
ただ、おはなに惚れたやはれたやの話は自覚がなかったため龍之進に言うことはなかったが。
自ら気づいていたなら真っ先にこの龍之進に相談してただろう。そして、今日はそんな龍之進のお話。
反物屋、田丸屋第二十五代主人玉五郎に仕える奉公人龍之進十九歳。与吉の世話役兼この若さで田丸屋の帳簿を任される有望な青年である。
龍之進は筆を進めていた手を止め顔を上げた。
「若旦那、大和屋に行ってきますね」
「ああ!新作ができたんだってね」
与吉は顔を綻ばせて龍之進を見、手を打った。
「ええ。これから受け取りに行ってきます」
大和屋は染め物屋である。反物を取り扱う田丸屋とは往年の付き合いであり、田丸屋は大和屋に絶大の信頼を寄せている。
「ついでに弥生ちゃんとゆっくりしてきたらいいよ」
弥生とは大和屋の娘であり、与吉と龍乃進の幼馴染だ。そして、龍之進の想い人でもある。
「いいんですか?」
「うん。そう急ぎの仕事もないしね」
龍之進は照れたようにすみません、と呟いた。
「では、行ってきます。」
与吉は龍之進の後ろ姿を見てにっこりと微笑んだ。
いっつも働いてばっかりだから、龍だってたまにはゆっくりしなきゃね。
龍之進の出ていった部屋で与吉は優しく笑った。
大和屋に着くと主人の十兵衛が出てきた。
「おや、龍。いらっしゃい。弥生は奥にいるよ。おい、弥生を呼んできてやっておくれ」
奉公人に弥生を呼びにやらせた十兵衛に龍は苦笑する。
「今日は新作を取りに来たんですよ」
「どうせ会っていくんだろう?」
十兵衛の言葉に龍之進はほんのりと頬を赤く染め照れ笑いをする。
本来ならば奉公人と商家の娘が想いを寄せ合うなどとあり得ないことであり、その想いが叶うことなど万に一もないだろう。だが、この十兵衛、自らがこの大和屋の婿養子でもあることに加え、龍之進は田丸屋が大きな信頼を寄せる好青年ということもあり、娘が奉公人と恋人同士ということに何の異論も持っていない。そして何より、弥生の方がこの龍之進に惚れ込んでいるのだ。娘の幸せを願う十兵衛としてはこの青年を突っぱねるわけにはいかない。それに…十兵衛の方が誰よりも龍之進を気に入っている。ゆくゆくはこの青年に大和屋を継いでもらいたいと思っているが、龍之進は田丸屋で与吉を支えていきたいと思っている。ならば田丸屋と合併するのも良いかもしれない。反物屋と染め物屋、一緒の方が何かとやりやすいのではないだろうか、とまぁ、考えてはいるのだが。
大和屋も田丸屋に負けず劣らずの親ばかぶりである。
「龍之進さん!!」
若い声が聞こえた。
「お嬢様」
葱色の着物に身を包んだ弥生が出てきた。
「もぅ!お嬢様は止めてって言ってるじゃない」
「今は仕事中ですから」
龍之進はやんわりと笑ってぷりぷりと怒る弥生をたしなめる。
「龍、いいじゃないか。新作は後で見せるさ。今は弥生に構ってやってくれ」
「そーよ、そーよ。弥生に構ってやっておくれ」
弥生は十兵衛の口真似をして、龍之進の袖を引っ張った。そんな弥生に十兵衛はワッハッハ、と豪快に笑い、龍之進もまた笑いながら肩をすくめた。
「さ、奥で話でもしてきなさい」
「龍之進さん、行きましょ!」
龍之進の袖をぐいぐいと引っ張り早く早くと急かす。
「では、旦那様失礼します。お嬢様あまり引っ張らないで下さいよ。私は逃げませんから」
「だ・か・らぁ!!お嬢様じゃないでしょー!!」
「はいはい、弥生様」
それでよろしい、と得意顔の弥生に十兵衛はまた豪快に笑った。
部屋へと行くと、弥生と龍之進は豆大福を挟んで向かい合って座った。
「こうやって弥生とゆっくりするのも久しぶりだなぁ」
「本当に。龍之進さんったらとっても忙しくてらっしゃるのだもの」
弥生はわざと怒ったような口振りをするが顔は笑っている。龍之進と一緒にいることに喜びを隠せないのだ。龍之進はそんな弥生を可愛いな、と思う。龍之進の一つ下で与吉と同い年のこの少女は普段はお姉さん吹かしているが自分と二人きりのときは甘えてみせる。そんな弥生をとても愛しいと感じるのだ。
「ははは、すまない。最近は特に忙しかったんだ。なんたって若旦那がめっきり役に立たなかったからさ」
ニヤリと笑いながら自らの主人のことを話す龍之進に弥生も口の端を上げた。
「あぁ、あれでしょ?『おはなちゃん』」
「そうそう、おはなちゃん」
二人は顔を見合わせてクスクスと笑う。
「まさかあの若旦那が恋煩いとは思わなかったよ」
「あの、なんて失礼よ……!」
「とか言って弥生も笑ってるじゃないか」
「だぁってぇ~」
二人は堪えきれず腹を抱えて笑った。
あの、若旦那が。甘やかされて育った若旦那が。恋のこの字も知らない若旦那が。椿茶屋のおはなに一目惚れをした。そして、惚れたと気づかず何日もぼけっと呆けていたのだ。与吉のことを良く知る二人にとってこれほど笑える話はないのだ。自分の主人のことをここまで笑うことができ、許されるのはここにいる龍之進くらいだろう。
それから二人はたわいもない話に花を咲かせた。
「ほら、粉がついてる」
「どこぉー?」
ここ、と弥生の口の端についた大福の粉を龍之進が親指で拭い、弥生が嬉しそうに笑う。
「それでね、とっても上手く染められたのよ」
「へぇ。そいつは楽しみだ」
うまく着物を染められたと喜ぶ弥生の話を龍之進が嬉しそうに聞く。
誰が見ても微笑ましい二人だった。
そして、時が経つのは早いもので、龍之進が来てからもう一刻半がたった。そろそろ帰らなければ。店を若旦那に任せきりである。龍之進は腰を上げた。
「さ、今日はもう帰るよ」
「えぇ~、まだいいでしょ?」
渋る弥生に龍之進は眉を下げて笑った。
「また来るさ」
「そう言っていっつも忙しいんだから」
ぷぅっと頬を膨らませる弥生に、龍之進は一度上げた腰を下げ、弥生の目の高さにしゃがんだ。そして、ポンポンと弥生の頭の上に軽く手を乗せる。
「次は外へ出掛けようか。そうだなぁ…少し遠くまでぶらりとしよう」
「本当!!?約束ね!!」
ぱぁっと顔を明るくさせ弥生は龍之進に抱きついた。その勢いで龍之進と弥生は後ろに倒れ、龍之進の上に弥生が乗る形となった。
「痛たた……。」
体を起こそうと手をついた時、襖の向こうから人影が現れた。
「おや、お邪魔だったかな」
弥生の父、十兵衛だ。龍之進は顔を真っ赤にすると、いや、これは、あの、その、ともごもご口を動かした。
「いやいや、仲良きことはよきことかな、はっは!」
「もぉ~、お父ちゃん。良いとこだったのにぃ~」
「あっはっは。すまんすまん」
笑う十兵衛と未だに自分の上に乗って冗談を飛ばす弥生に対し、龍之進は茹であがりそうなくらい全身を真っ赤に染めた。
「し、失礼しますっ!!!」
龍之進はたまらず、急いで立ち上がり、凄い勢いで帰って行った。十兵衛の笑う声が後ろから聞こえる。
「龍之進さーん!!約束忘れないでねー!!」
弥生の声が先程の出来事を鮮明に頭に映し出し、更に全身を赤く染めた。
「おや、龍お帰り」
「た、ただいま帰りまし、た!」
ハッ、ハッと肩で息をし汗を流す龍之進に与吉は目を丸くした。
「ど、どうしたんだい、」
「い、いえ…ちょっと…!」
龍之進は与吉が出した水を一気に飲み干した。
「大丈夫かい?」
「ええ。すみません」
「いや、大丈夫なら良いのだけど……ところで、新作の染め物はどうだった?」
「え………?」
早く知りたいとワクワクさせる与吉に、龍之進はあーっ!!と声を張り上げた。
「ど、どうしたんだい!!?」
忘れていたのだ。何のために大和屋に行ったのだ。新作を見に行くためだったのに、肝心のそれを忘れていたなんて……。龍之進は自分の失態に頭をうなだれさせた。
与吉に忘れたことを話すと笑って許してくれたが龍之進は仕事を忘れ何もせずに帰ってきた自分にがっくりと肩を落とした。
「いいって、いいって。久しぶりだったんだし。たまには、ね」
笑って自分を許してくれる与吉に龍之進はますます落ち込む。
「それに、また弥生ちゃんに会いに行けるじゃない」
冗談なのか本気なのか。きっと両方だろう。意味ありげに片目をつぶり自分の方を見て笑う与吉に龍之進は苦笑した。いつもこの優しい主人に龍之進は救われるのだ。
新作は明日取りに行こう。
あぁ!!でもまたあの旦那様にからかわれる。
そう思うとまた気が重くなった。
顔を綻ばせたり、肩を落としたり。一人、百面相をする龍之進に与吉はひっそりと笑うのであった。
〈~奉公人、龍之進~ 完〉
与吉に負けず劣らず初なのです。