兵助の思い出(前)
やっとこさ主人公メインの物語。
「兄貴ぃ、本当に明日は休みでいいんですかぃ?」
「おぅ。近頃働きづめだったしなぁ。ゆっくり休め」
この二人、岡っ引きとして日々活躍している町の人気者である。兄貴と呼ばれた男が兵助、そしてその兵助に明日の予定を尋ねたのが、弟分の左助である。
「お小夜ちゃんと逢い引きかぃ?」
「へへ。石里橋で待ち合わせなんす」
左助は、はにかみながら鼻の下に指を置いた。
「ま、お小夜ちゃんに愛想つかされんように精々頑張んな」
「兄貴ぃ~。そりゃないっすよ~」
兄貴は一言余計なんす。
情けない顔で口を尖らせる左助に兵助は声を上げて笑った。
「ははは、そいつぁすまねぇな。明日は市がたつから連れてってやったらきっと喜ぶんじゃねぇか?」
「へい!」
嬉しそうにお小夜のことを話す左助を、兵助は自分のことのように嬉しそうに微笑んで見つめた。
俺にもこんな時分があったよなぁ………
「於凛姉さん!」
「いらっしゃい、兵助。今日はあたしが草餅作ったのよ。食べる?」
「やった!」
兵助十四歳、於凛十六歳の頃だっただろうか。兵助はいつものように隣に住む於凛の家に遊びに来た。於凛の両親は茶屋を営んでいる。娘の於凛は茶屋娘として両親を助け、団子や餅を作る手伝いまでもをこなした。そして、今日の草餅は於凛の手製だった。
「姉さんの草餅は絶品だね!!私、於凛姉さんの作る草餅が一等好きだなぁ」
「ありがとう」
幼なじみである二人はとても仲が良く、まるで本当の姉弟のように育った。ほとんど毎日来ては於凛とこうして茶を飲む。この時間が兵助にとって一番幸せなときだった。
「兵助、ふふ、あんこがついてる」
兵助の口の横についたあんを於凛が拭った。
「へへ」
於凛が自分だけを見てくれるこの時間が大好きだった。そして、於凛が大好きだった。ただ、その『好き』は『姉』として、だが。本当の姉ではないが、自分のことを弟のように可愛がってくれる於凛。親よりも誰よりも、兵助のことを分かってくれる。於凛に対しては素直になれる自分がいた。
「姉さん、今日も言い寄られてたね」
於凛はその器量から多くの男性から想いを告げられることが常だった。
「あぁ・・・、まぁ、ね」
「大丈夫だったの?」
於凛にきっぱりと振られるとすぐに諦める男が大半だったが、たまにしつこい男も出てくる。
「うん。丁度、弥七さんが通ってね」
弥七はこの町一番の岡っ引きである。兵助をよく可愛がり、於凛に想いをよせる男たちから於凛を助けることも多々あった。そんな弥七を兵助は誰よりも尊敬し、いつか自分も於凛を守ることのできる弥七のような立派な岡っ引きになりたいと思った。
「誰が来たってあたしは誰とも付き合わないわ。今は兵助のお守りで手一杯なんですー」
「姉さんひどいやぁ」
「あははは」
ぷぅーっと頬を膨らませる兵助に於凛は口を大きく開けて笑った。そんな於凛を見て兵助もへへ、と照れくさそうに笑った。
どんなに想いを告げられても決してなびかない。自分には優しい於凛が他の男にはツンと済ました態度を崩さない。自分だけが特別。それが兵助を得意にさせた。自慢だった。
そんな於凛がある日をきっかけに変わった。
「姉さん、今日も藤治郎さんと待ち合わせ?」
「うん!今日は市がたつでしょう?藤治郎さんが一緒に行きませんか、って」
於凛は嫌々したお見合いで出会った藤治郎とどういういきさつか、度々出掛けるようになった。
あんなに嫌がってたのに……藤治郎さんってどんな人なんだろう…。
一度好きなのかと尋ねたことがあったが、於凛はそんなんじゃない、と笑っていた。だけど、於凛はきっ
と藤治郎のことが好きなのだろう。兵助にははっきりと分かった。物心ついた頃からいつも一緒にいた兵助だからこそだった。
兵助は少し寂しくなった。大切な姉を捕られた、そんな思いが兵助を支配した。会ったことのない藤治郎を憎く思ったこともあった。
「姉さん、藤治郎さんによろしくね」
「うん。兵助にも何かお土産買ってきてあげる」
於凛の頭で、しゃらんと簪が鳴った。いつか藤治郎と出かけた時に買ってもらった藤の簪だ。於凛の艶やかな黒髪に良く栄えて、とても良く似合っている。
「うん、期待しないで待ってるよ」
「生意気ねぇ」
於凛は兵助のでこを人差し指でトン、とつついた。
「ほら、行かなくていいの?藤治郎さん待ちぼうけくらってんじゃない?」
「いけない!!じゃぁ行ってくるね!兵助はゆっくりして行きなさいねー」
「言われなくてもね」
於凛はバタバタと藤治郎との待ち合わせ場所の石里橋へと向かった。
あ~あ。石里橋は於凛姉さんと私の場所だったのになぁ。藤治郎さんにとられちゃった。
思い出の場所も於凛との時間も、
於凛自身も……。
兵助は一度だけ藤治郎に会ったことがあった。色白で背が高く、全身から優しさのにじみ出る柔らかな雰囲気の持ち主だった。年下の自分にも丁寧な口調を崩さず、決して兵助を子供扱いしない。一人の男として接してくれた。於凛が惹かれたのも分かる気がした。この人なら……於凛姉さんを幸せにしてくれるかもしれない、と兵助は寂しさと喜びを交差させた。
あの場所は藤治郎さんに譲ってあげるよ。私ってばもう大人だからねぇー。
兵助は静かに、そして寂しそうに笑った。