「おまえは地味だから、夜会は妹に行かせる」と父が言うので、妹のドレスの直しを全部引き受けたら、仕立てを見た公爵閣下に工房ごと引き抜かれました
「おまえは地味だから、夜会は妹に行かせる」
父は書斎の机の上に、金の縁取りのある招待状を放り出した。
アシュベリー公爵家の紋章。白百合と、交差した二本の針。この国で、王家の次に古い家の紋章だった。
「宛名は、ヴィンター子爵家ご令嬢、とだけある。どちらの娘とも書いていない。だったら、リリアーヌを行かせるのが当然だろう」
「……はい」
わたしは書斎の入り口に立ったまま、うなずいた。
十九歳。ヴィンター子爵家の長女、ロザリー。妹のリリアーヌは十七歳で、金色の巻き毛と、春の空の色の目をしている。わたしは栗色のまっすぐな髪と、灰色の目。
父の言うことは間違っていない。リリアーヌのほうが、ずっと華やかだ。
間違っていないのに、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「それから、ドレスのことだが」
父は机の上の書類をめくりながら言った。
「新しく仕立てる金はない。おまえの古いドレスをリリアーヌに合うように直してやれ。おまえは針仕事だけは得意だろう」
だけは。
その言葉が喉に引っかかって取れなかった。
「お父様。わたしのドレスは、どれも三年以上前のものです。リリアーヌとは背丈も違いますし……」
「だから直せと言っている。できないのか」
父の目が書類から上がった。
できない、とは言えなかった。言えば、また「何の役にも立たない娘だ」と言われる。
「……できます」
「なら、そうしろ。夜会はひと月後だ」
書斎の扉を閉めてから、わたしは廊下の壁にそっと手をついた。
壁紙の模様が少しだけにじんで見えた。
泣かない。泣いても、ドレスは縫い上がらない。
わたしはゆっくりと息を吸って吐いた。それから、屋根裏へ続く細い階段を上っていった。
屋根裏部屋はわたしの工房だった。
工房、と呼んでいるのは、わたしと、侍女のドーラと、下働きのベッツィの三人だけだ。父も母も妹も、ここを「ロザリーの物置」と呼んでいる。
傾いた天井の下に、大きな作業台が一つ。壁ぎわには、色ごとに分けた糸の箱と、端切れの山。窓辺には、母の実家から譲られた古い足踏みの縫製台が置いてある。
「お嬢さま。お顔の色がたいそう冴えませんね」
ドーラが眼鏡を鼻の上にずらしてわたしを見た。
ドーラはわたしが生まれる前からこの家にいる、白髪まじりの侍女だ。若いころは王都でも名の知れた仕立て屋で針子をしていたという。わたしに針の持ち方を教えてくれたのもドーラだった。
「旦那さまに、また何か言われましたか」
「……夜会にはリリアーヌが行くの。わたしの古いドレスをあの子に合わせて直すようにって」
ベッツィが縫いかけのシャツから顔を上げて目をまんまるにした。
「えっ、ひどい! だって、お嬢さまのドレス、ぜんぶお嬢さまが自分で縫ったんでしょう? それをリリアーヌさまに?」
「ベッツィ、声が大きいですよ」
「だってドーラさん!」
ベッツィは十四歳。この春、町の孤児院から下働きに来たばかりの子だ。手先が器用で、わたしとドーラで少しずつ針を教えている。
わたしは作業台の前の丸椅子に腰を下ろした。
衣装箱の中に、自分のドレスが四着ある。どれも、ドーラに教わりながら、自分で縫ったものだ。生地は安物だけれど、縫い目は誰にも負けない。そう思って縫ってきた。
でも、そのドレスを着て夜会に出たことは一度もない。
父はいつも「おまえは地味だから」と言ってわたしを家に置いていった。
「……ドーラ」
「はい、お嬢さま」
「わたし、直すわ。全部」
ドーラの眉がぴくりと動いた。
「全部、でございますか」
「ええ。リリアーヌのドレスだけじゃない。あの子、きっと、お友達のドレスのことも頼んでくるわ。夜会の前になると、いつもそうだもの。それも全部、引き受ける」
わたしは作業台の上の、針刺しを手に取った。赤い天鵞絨の、小さな薔薇の形の針刺し。十歳の誕生日にドーラが縫ってくれたものだ。
「そのかわり、一着ずつ、裏地の内側に、これを縫いこむの」
針刺しの薔薇を二人に見せた。
ドーラがゆっくりと眼鏡をかけ直した。
「……仕立て屋の印、でございますね」
「ええ。王都の仕立て屋は、みんな、自分の店の印を裏地にこっそり縫いこむでしょう? ドーラが教えてくれた」
ドレスの持ち主もほとんど気づかない。でも、見る人が見れば、どの店で、誰が縫ったのか、すぐにわかる。
「わたし、地味だから夜会には行けない。でも、わたしの縫ったものは行ける。せめて、あの広間の中に、わたしの印だけでも、連れていってもらうの」
言ってから、少しだけ、喉の奥が熱くなった。
ベッツィがぐすっと鼻を鳴らした。
「お嬢さま……かっこいいです」
「かっこよくなんかないわ。ただの、意地よ」
ドーラは何も言わなかった。
そのかわりに、戸棚の奥から、古びた木箱を一つ出してきて作業台の上に置いた。
蓋を開けると、中には、銀色に光る細い針が、何十本も並んでいた。
「わたくしが針子をしていたころの道具でございます。お嬢さまに差し上げようと、ずっと取っておりました」
「ドーラ……」
「意地で結構。意地のない針子に、いい仕事はできませんよ」
思ったとおり、リリアーヌは、三日もしないうちに屋根裏へ上がってきた。
「お姉さまぁ。お願いがあるの」
階段の途中から、甘ったるい声が聞こえた。リリアーヌは屋根裏の埃が嫌いで、いつも裾をつまんで、顔をしかめながら上がってくる。
「あのね、オデットとアンジェルとソフィーも、公爵さまの夜会に行くの。でも、みんな、ドレスが去年のと同じなんですって。かわいそうでしょう? だから、お姉さまに直してもらえるって言っちゃった」
「三人とも?」
「うん。だめ? だって、お姉さま、どうせ夜会には行かないんだから、時間はあるでしょう?」
どうせ。
わたしは針を持つ手を止めずに、小さく息を吐いた。
「いいわ。全部、引き受ける」
「やったぁ! お姉さま、大好き!」
リリアーヌはわたしの首に抱きついて、すぐに離れた。それから、作業台の上に広げてある、自分のドレスの生地を見下ろして唇をとがらせた。
「ねえ、この色、ちょっと地味じゃない? もっと、こう、きらきらしたのがいいんだけど」
「これは裏地よ。表はこっち」
わたしは衣装箱の中から、一着のドレスを出して広げた。
わたしが十六歳のときに縫った、薄い水色の絹のドレス。生地は母の古い衣装をほどいたものだった。そこに、三年かけて少しずつ、白い糸で小さな花の刺繍を足してきた。
屋根裏の窓から差しこむ光の中で、白い花が、ちかちかと光った。
リリアーヌが目を見開いた。
「……これ、お姉さまの? こんなの、持ってたの?」
「着る機会がなかったから」
「ずるい! なんで今まで黙ってたの?」
黙っていたわけではない。誰も訊かなかっただけだ。
でも、わたしは、それを口には出さなかった。
「裾を詰めて、胸元を広げて袖を短くするわ。あなたの髪の色に合わせて、刺繍に、少しだけ金の糸を足しましょう」
「うん! うんうん!」
リリアーヌはドレスを胸に当ててくるくると回った。屋根裏の埃が光の中できらきらと舞った。
わたしはその姿を見ている。
わたしが着るはずだったドレスを着て、わたしが行くはずだった夜会へ、妹が行く。
悔しかった。でも、それと同じくらい、うれしかった。わたしの縫ったドレスが、こんなに誰かを笑顔にする。
胸の中で、二つの気持ちが、ぐるぐると渦を巻いた。
わたしはドーラの銀の針を一本取って糸を通した。
それから、ひと月。
屋根裏の明かりは、毎晩、遅くまで消えなかった。
リリアーヌのドレス。オデット嬢のドレス。アンジェル嬢のドレス。ソフィー嬢のドレス。それに、母の夜会用の肩掛けと、父の礼服の袖口のほつれ。
全部で六着。
ドーラが型紙を引いて、生地を裁った。ベッツィがしつけ糸を打ってボタンをつけた。わたしはいちばん難しい胸元と袖の仕立てと、刺繍を受け持った。
指先に、針の痕がいくつもできた。夜中に、蝋燭の火が短くなって、ベッツィが作業台につっぷして眠ってしまったこともあった。
「お嬢さま、少しお休みください。目が真っ赤でございますよ」
「あと少しだけ。この袖だけ、仕上げたいの」
一着縫い上げるたびに、わたしは、裏地の内側、左の脇の下のあたりに、小さな薔薇を一輪、縫いこんだ。
赤い糸で五枚の花びら。真ん中に、金の糸でほんの小さな点を一つ。
ドーラが教えてくれた、昔の王都の仕立て屋のやり方だった。表からは見えない。でも、裏地をめくれば、そこにいる。
最後の一着、リリアーヌのドレスに薔薇を縫い終えたのは夜会の前の晩だった。
わたしは針を置いて、ドレスを作業台の上に広げた。
水色の絹の上に、白と金の花が、一面に咲いている。
ドーラが眼鏡を外して目元をぬぐった。
「……お嬢さま。わたくしが針子をしていた店でも、これほどのものは、なかなか見られませんでした」
「本当?」
「嘘を申しあげる歳ではございません」
ベッツィが目をこすりながら起き上がって、ドレスを見てぽかんと口を開けた。
「きれい……」
わたしは両手で顔を覆った。
泣くつもりはなかった。でも、ひと月ぶんの疲れと、悔しさと、うれしさが、いっぺんにあふれてきた。
ドーラが黙って、わたしの背中をさすってくれた。
「お嬢さま。ひとつだけ、お訊きしてもよろしいですか」
しばらくしてドーラが言った。
「このドレスを本当に、リリアーヌさまにお渡しになるのですか。今なら、まだ、裾を元の丈に戻せますよ」
わたしは顔を上げた。蝋燭の火がドーラの眼鏡に二つ、小さく映っている。
戻せば、わたしが着られる。でも着ていく夜会はない。招待状は父の机の上で、リリアーヌの名前に書きかえられている。
「……渡すわ。約束したもの」
「左様でございますか」
「でもね、ドーラ。いつか、自分のためのドレスを縫う。そのときは最初から最後までわたしの寸法で」
ドーラは目を細めて深くうなずいた。
「そのときは、わたくしが型紙を引かせていただきます」
夜会の当日、わたしは、父に言いつけられて、リリアーヌの付き添いとして公爵邸へ行った。
付き添いといっても、客ではない。夜会の広間には入れない。ご令嬢方の控えの間で、ドレスの裾がほつれたり、髪飾りが外れたりしたときに直すための係だ。
「おまえは裁縫だけは得意だからな。何かあったら、すぐに直せ」
父は馬車の中でそう言った。わたしは膝の上の裁縫箱をぎゅっと抱えた。
アシュベリー公爵邸の控えの間は、わたしの家の客間よりも広かった。
壁一面に鏡が張られ、天鵞絨の長椅子がいくつも並んでいる。広間から、楽団の音と、笑い声が、寄せては返して聞こえてきた。
わたしは部屋の隅の小さな椅子に座って針と糸をそろえた。
夜会が始まって一時間ほどたったころ、控えの間の扉が、勢いよく開いた。
「誰か! 誰か、針を持っている人はいない?」
飛びこんできたのは、十二、三歳くらいの女の子だった。淡い桃色のドレスの裾が、膝のあたりから、大きく裂けている。
後ろから、侍女らしい女の人が、青い顔で追いかけてきた。
「お嬢さま、走ってはいけません!」
「だって、もうすぐ叔父さまと踊る番なのよ! こんなの、叔父さまに見られたら……」
女の子の目に、涙がにじんでいた。
わたしは裁縫箱を持って立ち上がった。
「わたしでよろしければ、直します」
女の子がわたしを見た。それから、裂けた裾を見下ろして唇をかんだ。
「……どのくらいかかる?」
わたしは膝をついて、裂け目を確かめた。椅子の金具に引っかけたらしい。生地は上等の絹で、裂け目は、縫い目に沿ってまっすぐだった。
「十分ください。表からはわからないようにします」
針に糸を通した。ドーラの銀の針だった。
裂け目の裏側から、生地の織り目を一本ずつ拾っていく。表に糸が出ないように、ほんの少しずつ、すくって、引いて、またすくう。
まわりの音が遠くなった。
楽団の音も、笑い声も聞こえなくなって、目の前にあるのは、桃色の絹の織り目と、銀の針の先だけになった。
最後の一針を引いて、糸を結んで歯で切った。
「できました」
女の子は恐る恐る裾を持ち上げて鏡に映した。それから、くるりと一回転した。
「……うそ。どこが破れてたのか、わからない」
「表からは、わからないはずです」
「すごい! あなた、すごいわ!」
女の子がわたしの両手を握ってぶんぶんと振った。
そのとき、扉のところから、低くて穏やかな声がした。
「ずいぶんと騒がしいと思ったら。……セリーヌ、またですか」
顔を上げると、背の高い男の人が、扉にもたれて立っていた。
銀に近い淡い金髪を後ろでひとつに結んでいる。深い緑の礼服。胸には、白百合と二本の針の紋章。
アシュベリー公爵、ガブリエル閣下だった。
「叔父さま! 見てドレスが裂けちゃったの。でも、この人が直してくれたのよ!」
閣下は扉から離れて、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。わたしは慌てて立ち上がり、膝を折った。
閣下は姪御さんの裾の前に片膝をついた。そして、さっきわたしが縫った場所を指先でそっとなぞった。
しばらく、何も言わなかった。
それから、裾を少しだけめくって、裏側の縫い目をのぞきこんだ。
「……織り目拾いですね。この縫い方ができる人間は、今の王都に、三人いるかどうかだと思っていました」
閣下が顔を上げてわたしを見た。
淡い緑の目。宝石の目利きをする人の目だ、と思った。
「あなたは、どちらの方ですか」
「ヴィンター子爵家の……付き添いでございます」
娘です、とは言えなかった。父に、そう言いつけられている。
閣下は少しだけ目を細めた。何か言おうとしたとき、広間から、閣下を呼ぶ声が聞こえた。
「閣下! 次の曲が始まります!」
「……今、行きます」
閣下は立ち上がってわたしにかるく頭を下げた。
「姪を助けてくださってありがとうございました」
それだけ言って、セリーヌ嬢の手を引いて、控えの間を出ていった。
扉が閉まってから、わたしは、自分の両手を見下ろした。
指先がまだ少し、ふるえている。
帰りの馬車の中で父はずっと機嫌がよかった。
「リリアーヌ、おまえは今夜、いちばん目立っていたぞ。公爵閣下とも二曲踊ったそうじゃないか」
「でしょう? みんな、わたしのドレスばっかり見てたの」
リリアーヌは窓の外を流れる街灯を眺めながら、うっとりとため息をついた。水色の裾が座席の上いっぱいに広がっている。わたしはその裾を踏まないように、隅のほうで膝を縮めていた。
「ロザリー。控えの間では何か役に立ったのか」
父がついでのように訊いた。
「……小さなお嬢さんの、裾を一つ直しました」
「そうか」
それで、話は終わりだった。父はまたリリアーヌのほうを向いて、明日はどの家に礼状を出すか、楽しそうに数えはじめた。
わたしは膝の上の裁縫箱のふたを指でなぞった。
織り目拾いですね。あの声がまだ耳の奥に残っていた。誰かに、わたしの縫い目の名前を言い当てられたのは、ドーラ以外では初めてだった。
窓の外で、街灯が一つ、また一つと後ろへ流れていく。わたしはその光が見えなくなるまでずっと数えていた。
夜会が終わりに近づいたころ、控えの間に、リリアーヌが飛びこんできた。
頬が真っ赤で目がきらきらしている。
「お姉さま! 聞いて、聞いて! 公爵さまがね、わたしのドレスを褒めてくださったの!」
どきん、と心臓が鳴った。
「……そう。よかったわね」
「それでね、どこの仕立て屋で作ったのかって訊かれたの。だから、わたしが自分で直したんですって言ったの!」
わたしは裁縫箱のふたを閉じかけた手を止めた。
「……リリアーヌ」
「だって、お姉さまって言ったら、なんか、格好悪いじゃない? 付き添いの人に縫わせたなんて。公爵さま、びっくりしてたわ。そしたらね、明日、うちに来てくださるって!」
リリアーヌはくるくると回った。水色の絹の上で、白と金の花が、燭台の光を浴びて揺れた。
その裏地の、左の脇の下に、わたしの薔薇がいる。
わたしは何も言えなかった。胸の中がすうっと冷えていった。
ひと月かけて、指を針で刺しながら縫ったドレス。わたしの、いちばん大事なドレス。
それを妹は、自分で直したと言った。
次の日の昼過ぎ、ヴィンター子爵家の玄関に、アシュベリー公爵家の馬車が止まった。
父は朝から上機嫌だった。母はリリアーヌの髪を三回も結い直させた。わたしは屋根裏にいるように言われた。
「おまえが出てくると、話がややこしくなる。いいな、絶対に降りてくるな」
わたしは屋根裏の作業台の前に座って針を持った。何かしていないと、落ち着かなかった。
階下から、父の大きな笑い声が聞こえてきた。リリアーヌの、甘い声も。
ドーラが黙ってわたしの隣に座った。ベッツィは階段の上のところで、膝を抱えて下の様子をうかがっている。
しばらくして、ベッツィが、はっと顔を上げた。
「お嬢さま……誰か、上がってきます」
階段がぎし、ぎし、と鳴った。
父の慌てた声がその後ろから追いかけてきた。
「閣下! そちらは物置で、ご覧いただくようなものは何も……」
「いいえ。ここにあるはずです」
穏やかな声だった。でも、有無を言わせない声だった。
屋根裏の入り口に、ガブリエル閣下が立った。
閣下は傾いた天井に頭をぶつけないように、少しかがんで部屋の中を見まわした。作業台。糸の箱。端切れの山。窓辺の古い縫製台。
それから、わたしを見た。
「……やはり、あなたでしたか」
わたしは立ち上がることもできずに、針を握ったまま、閣下を見上げた。
閣下の後ろから、父とリリアーヌが、息を切らして上がってきた。
「閣下、それは、上の娘のロザリーでございます。地味で、気のきかない娘でして、お目にかけるようなものでは……」
「ヴィンター子爵」
閣下は振り返らずに言った。
「昨夜、私の夜会に来た令嬢のうち、四人のドレスの裏地に、同じ印が縫いこまれていました。赤い薔薇に、金の点が一つ。それから、子爵、あなたの礼服の袖口にも」
父がぎょっとして自分の袖口を見下ろした。
「お嬢さんのリリアーヌ嬢は、ご自分で直したとおっしゃった。では四着とも、リリアーヌ嬢が?」
リリアーヌの顔から、さあっと血の気が引いた。
「そ、それは……」
「織り目拾いの縫い方を説明していただけますか。針をどちらから入れるのか」
リリアーヌは口をぱくぱくと動かした。それから、わっと泣き出して階段を駆け下りていった。
父は真っ青な顔でその場に立ちつくしている。
閣下はようやく、ゆっくりと父のほうに振り向いた。
「子爵。私の家が王家の衣装局を預かっていることはご存じですね」
「は、はい、もちろん……」
「来年の春、王女殿下のご婚礼があります。その花嫁衣装を任せられる針子を私は二年間、探していました」
閣下はもう一度、わたしのほうを向いた。
「ロザリー・ヴィンター嬢。あなたと、あなたの工房をそっくり私の家に迎えたい。そちらのご婦人と、お嬢さんも一緒に」
ドーラが隣で小さく息をのんだ。ベッツィがえっ、と声を上げた。
「わ、わたしもですか?」
「あなたのしつけ糸は、まっすぐで丁寧でした。ボタンの付け方も。四着とも、あなたでしょう?」
ベッツィは顔を真っ赤にしてこくこくとうなずいた。
わたしはまだ、針を握っている。
夢を見ているのだと思った。目を覚ましたら、また、屋根裏の作業台につっぷしているのだと。
「……でもわたし、地味で」
やっと出てきた声はかすれていた。
「父に、ずっと、そう言われてきました。夜会にも、出たことがありません。公爵家に、ふさわしいような者では……」
「ロザリー嬢」
閣下が屋根裏の床に、片膝をついた。
わたしと、目の高さが同じになった。淡い緑の目がまっすぐにわたしを見ていた。
「昨夜の広間で、いちばん美しかったのは、あなたの縫ったドレスでした。地味な人間に、あの花は咲かせられません」
針を握る指から、力が抜けた。
銀の針が作業台の上に落ちて、ちりん、と小さく鳴った。
アシュベリー公爵邸の東の翼に、新しい工房ができた。
南向きの大きな窓が三つ。天井は高くて、もう頭をぶつける心配はない。作業台は屋根裏のものの三倍の大きさがある。壁ぎわの棚には、見たこともない色の糸が、端から端までずらりと並んでいた。
「お嬢さま、この縫製台、足で踏まなくても針が動きますよ!」
ベッツィが新しい縫製台の前で目を輝かせていた。
「ベッツィ、はしゃぎすぎですよ。……まあ、わたくしも、少しばかり胸が躍りますが」
ドーラが眼鏡をかけ直しながら、棚の糸を一本ずつ、愛おしそうに撫でていた。
ヴィンター子爵家とは、閣下が、正式に話をつけてくださった。
父は最後まで「地味な娘を引き取っていただくのは申し訳ない」と言っていたらしい。けれど、わたしがいなくなった最初の社交期、ヴィンター家の令嬢のドレスは、どれも去年と同じものだったと聞いた。母の肩掛けも、父の礼服の袖口も、ほつれたままだったという。
リリアーヌからは一度だけ手紙が来た。
お姉さま、ごめんなさい。それと、袖の直し方を教えてください。
わたしは袖の直し方を丁寧に書いて送った。図も添えた。
王女殿下の花嫁衣装の仕事は、冬の初めから始まった。
毎日、朝から夕方まで針を動かした。閣下はほとんど毎日、午後のお茶の時間に工房へ来た。来て、何も言わずに、作業台の端に座ってわたしの手元を見ていた。
「閣下。見ていて、退屈ではありませんか」
「いいえ、少しも」
閣下は紅茶のカップを持ったまま、首を振った。
「私の母は針子でした。アシュベリーの家に嫁ぐ前は、王都の小さな仕立て屋で働いていたのです。子供のころ、母の膝の横で、針が動くのを見ているのが、何より好きでした」
初めて聞く話だった。わたしは針を止めた。
「母が亡くなってから、あの音をずっと聞いていませんでした。あなたの針は母の針に、よく似た音がします」
閣下の声が少しだけ、やわらかくなった。
わたしは何と言っていいのかわからなくてまた針を動かした。しゅっ、しゅっ、と、絹を糸が抜けていく音がした。
閣下は黙ってその音を聞いている。
ある晩、遅くまで残って刺繍をしていると、工房の扉が、そっと開いた。
閣下だった。手に、湯気の立つ小さな鍋と、木の椀を二つ持っていた。
「厨房の者が、もう寝てしまっていて。私が温めました。味は保証できませんが」
鍋の中は牛乳で煮た麦の粥だった。蜂蜜と、肉桂の香りがした。
「閣下が、ご自分で……?」
「母が、夜なべをするときに、よく作ってくれたものです。針子の夜食はこれに限ると」
閣下は作業台の端に椀を並べて粥をよそった。少しだけ、こぼした。閣下があ、と小さく声を漏らした。
わたしは思わず笑ってしまった。公爵閣下が粥をこぼして困っている。屋根裏にいたころのわたしに話しても、きっと信じない。
粥は甘くて、温かくて少しだけ焦げていた。
「……おいしいです」
「本当に?」
「嘘を申しあげる歳ではございません」
ドーラの口真似をすると、閣下は一瞬きょとんとして、それから、声を立てて笑った。初めて聞く、閣下の笑い声だった。
工房の窓の外では、雪が降りはじめていた。
花嫁衣装が縫い上がったのは春の初めだった。
王女殿下の婚礼の日、わたしは、大聖堂のいちばん後ろの席から、白い衣装が祭壇へ進んでいくのを見ている。
裾が揺れるたびに、刺繍の白い花が、ステンドグラスの光を浴びて色を変えた。
その裏地の、左の脇の下に赤い薔薇が一輪。
婚礼が終わって、屋敷に戻ると、工房の作業台の上に、見慣れない包みが一つ置いてあった。
淡い薔薇色の絹の反物だった。光にかざすと、細い金の糸が、織りこまれているのが見える。
包みの横に、小さな紙が添えてあった。
あなたが着るドレスを一着。来月の夜会で私の隣で着るものを。
わたしは紙を持ったまま、その場に座りこんだ。
「……閣下」
振り返ると、工房の入り口に閣下が立っていた。いつから、そこにいたのだろう。
「お嫌でしたか」
「い、いいえ。でも、わたし、自分のドレスを縫って、夜会に着ていったことなんて一度も……」
「では、これが一度目です」
閣下はゆっくりと工房の中に入ってきた。それから、わたしの前に膝をついた。屋根裏の日と同じように。
「ロザリー。今夜、言うつもりではありませんでした。ドレスが縫い上がってから、夜会の晩に、きちんと言うつもりでした」
閣下は少しだけ、困ったように息を吐いた。
「ですが、あなたの顔を見たら、待てなくなりました」
閣下がわたしの手を取った。針の痕がいくつも残った、わたしの指を。
そして、その指先にそっと唇を寄せた。
「私の妻になってください。あなたの針の音を毎日、隣で聞いていたい」
工房の窓から、春の光が差しこんでいた。
作業台の上で、薔薇色の絹が、金の糸をきらきらと光らせている。
わたしはうなずいた。何度もうなずいた。声が出なかった。
そのかわりに、閣下の手を握り返した。
ひと月後の夜会で、わたしは、薔薇色のドレスを着て閣下の隣に立った。
生まれて初めての夜会だった。広間の燭台がまぶしくて、楽団の音が大きくて足がふるえた。
閣下と踊った最初の曲の終わりに、閣下が、わたしの腰に回した手で、裏地の左の脇の下のあたりをそっと押さえた。
「ここにいますね」
「……どうしてわかったんですか」
「あなたの縫ったものなら、どれでもそこを探します」
閣下はそう言って、わたしをくるりと一回転させた。
薔薇色の裾が広間いっぱいに、ふわりと広がった。
(完)




