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「おまえは地味だから、夜会は妹に行かせる」と父が言うので、妹のドレスの直しを全部引き受けたら、仕立てを見た公爵閣下に工房ごと引き抜かれました

作者: 八咫烏葵
掲載日:2026/11/01


「おまえは地味だから、夜会は妹に行かせる」


 父は書斎の机の上に、金の縁取りのある招待状を放り出した。


 アシュベリー公爵家の紋章。白百合と、交差した二本の針。この国で、王家の次に古い家の紋章だった。


「宛名は、ヴィンター子爵家ご令嬢、とだけある。どちらの娘とも書いていない。だったら、リリアーヌを行かせるのが当然だろう」


「……はい」


 わたしは書斎の入り口に立ったまま、うなずいた。


 十九歳。ヴィンター子爵家の長女、ロザリー。妹のリリアーヌは十七歳で、金色の巻き毛と、春の空の色の目をしている。わたしは栗色のまっすぐな髪と、灰色の目。


 父の言うことは間違っていない。リリアーヌのほうが、ずっと華やかだ。


 間違っていないのに、胸の奥が、きゅっと縮んだ。


「それから、ドレスのことだが」


 父は机の上の書類をめくりながら言った。


「新しく仕立てる金はない。おまえの古いドレスをリリアーヌに合うように直してやれ。おまえは針仕事だけは得意だろう」


 だけは。


 その言葉が喉に引っかかって取れなかった。


「お父様。わたしのドレスは、どれも三年以上前のものです。リリアーヌとは背丈も違いますし……」


「だから直せと言っている。できないのか」


 父の目が書類から上がった。


 できない、とは言えなかった。言えば、また「何の役にも立たない娘だ」と言われる。


「……できます」


「なら、そうしろ。夜会はひと月後だ」


 書斎の扉を閉めてから、わたしは廊下の壁にそっと手をついた。


 壁紙の模様が少しだけにじんで見えた。


 泣かない。泣いても、ドレスは縫い上がらない。


 わたしはゆっくりと息を吸って吐いた。それから、屋根裏へ続く細い階段を上っていった。




 屋根裏部屋はわたしの工房だった。


 工房、と呼んでいるのは、わたしと、侍女のドーラと、下働きのベッツィの三人だけだ。父も母も妹も、ここを「ロザリーの物置」と呼んでいる。


 傾いた天井の下に、大きな作業台が一つ。壁ぎわには、色ごとに分けた糸の箱と、端切れの山。窓辺には、母の実家から譲られた古い足踏みの縫製台が置いてある。


「お嬢さま。お顔の色がたいそう冴えませんね」


 ドーラが眼鏡を鼻の上にずらしてわたしを見た。


 ドーラはわたしが生まれる前からこの家にいる、白髪まじりの侍女だ。若いころは王都でも名の知れた仕立て屋で針子をしていたという。わたしに針の持ち方を教えてくれたのもドーラだった。


「旦那さまに、また何か言われましたか」


「……夜会にはリリアーヌが行くの。わたしの古いドレスをあの子に合わせて直すようにって」


 ベッツィが縫いかけのシャツから顔を上げて目をまんまるにした。


「えっ、ひどい! だって、お嬢さまのドレス、ぜんぶお嬢さまが自分で縫ったんでしょう? それをリリアーヌさまに?」


「ベッツィ、声が大きいですよ」


「だってドーラさん!」


 ベッツィは十四歳。この春、町の孤児院から下働きに来たばかりの子だ。手先が器用で、わたしとドーラで少しずつ針を教えている。


 わたしは作業台の前の丸椅子に腰を下ろした。


 衣装箱の中に、自分のドレスが四着ある。どれも、ドーラに教わりながら、自分で縫ったものだ。生地は安物だけれど、縫い目は誰にも負けない。そう思って縫ってきた。


 でも、そのドレスを着て夜会に出たことは一度もない。


 父はいつも「おまえは地味だから」と言ってわたしを家に置いていった。


「……ドーラ」


「はい、お嬢さま」


「わたし、直すわ。全部」


 ドーラの眉がぴくりと動いた。


「全部、でございますか」


「ええ。リリアーヌのドレスだけじゃない。あの子、きっと、お友達のドレスのことも頼んでくるわ。夜会の前になると、いつもそうだもの。それも全部、引き受ける」


 わたしは作業台の上の、針刺しを手に取った。赤い天鵞絨の、小さな薔薇の形の針刺し。十歳の誕生日にドーラが縫ってくれたものだ。


「そのかわり、一着ずつ、裏地の内側に、これを縫いこむの」


 針刺しの薔薇を二人に見せた。


 ドーラがゆっくりと眼鏡をかけ直した。


「……仕立て屋の印、でございますね」


「ええ。王都の仕立て屋は、みんな、自分の店の印を裏地にこっそり縫いこむでしょう? ドーラが教えてくれた」


 ドレスの持ち主もほとんど気づかない。でも、見る人が見れば、どの店で、誰が縫ったのか、すぐにわかる。


「わたし、地味だから夜会には行けない。でも、わたしの縫ったものは行ける。せめて、あの広間の中に、わたしの印だけでも、連れていってもらうの」


 言ってから、少しだけ、喉の奥が熱くなった。


 ベッツィがぐすっと鼻を鳴らした。


「お嬢さま……かっこいいです」


「かっこよくなんかないわ。ただの、意地よ」


 ドーラは何も言わなかった。


 そのかわりに、戸棚の奥から、古びた木箱を一つ出してきて作業台の上に置いた。


 蓋を開けると、中には、銀色に光る細い針が、何十本も並んでいた。


「わたくしが針子をしていたころの道具でございます。お嬢さまに差し上げようと、ずっと取っておりました」


「ドーラ……」


「意地で結構。意地のない針子に、いい仕事はできませんよ」




 思ったとおり、リリアーヌは、三日もしないうちに屋根裏へ上がってきた。


「お姉さまぁ。お願いがあるの」


 階段の途中から、甘ったるい声が聞こえた。リリアーヌは屋根裏の埃が嫌いで、いつも裾をつまんで、顔をしかめながら上がってくる。


「あのね、オデットとアンジェルとソフィーも、公爵さまの夜会に行くの。でも、みんな、ドレスが去年のと同じなんですって。かわいそうでしょう? だから、お姉さまに直してもらえるって言っちゃった」


「三人とも?」


「うん。だめ? だって、お姉さま、どうせ夜会には行かないんだから、時間はあるでしょう?」


 どうせ。


 わたしは針を持つ手を止めずに、小さく息を吐いた。


「いいわ。全部、引き受ける」


「やったぁ! お姉さま、大好き!」


 リリアーヌはわたしの首に抱きついて、すぐに離れた。それから、作業台の上に広げてある、自分のドレスの生地を見下ろして唇をとがらせた。


「ねえ、この色、ちょっと地味じゃない? もっと、こう、きらきらしたのがいいんだけど」


「これは裏地よ。表はこっち」


 わたしは衣装箱の中から、一着のドレスを出して広げた。


 わたしが十六歳のときに縫った、薄い水色の絹のドレス。生地は母の古い衣装をほどいたものだった。そこに、三年かけて少しずつ、白い糸で小さな花の刺繍を足してきた。


 屋根裏の窓から差しこむ光の中で、白い花が、ちかちかと光った。


 リリアーヌが目を見開いた。


「……これ、お姉さまの? こんなの、持ってたの?」


「着る機会がなかったから」


「ずるい! なんで今まで黙ってたの?」


 黙っていたわけではない。誰も訊かなかっただけだ。


 でも、わたしは、それを口には出さなかった。


「裾を詰めて、胸元を広げて袖を短くするわ。あなたの髪の色に合わせて、刺繍に、少しだけ金の糸を足しましょう」


「うん! うんうん!」


 リリアーヌはドレスを胸に当ててくるくると回った。屋根裏の埃が光の中できらきらと舞った。


 わたしはその姿を見ている。


 わたしが着るはずだったドレスを着て、わたしが行くはずだった夜会へ、妹が行く。


 悔しかった。でも、それと同じくらい、うれしかった。わたしの縫ったドレスが、こんなに誰かを笑顔にする。


 胸の中で、二つの気持ちが、ぐるぐると渦を巻いた。


 わたしはドーラの銀の針を一本取って糸を通した。




 それから、ひと月。


 屋根裏の明かりは、毎晩、遅くまで消えなかった。


 リリアーヌのドレス。オデット嬢のドレス。アンジェル嬢のドレス。ソフィー嬢のドレス。それに、母の夜会用の肩掛けと、父の礼服の袖口のほつれ。


 全部で六着。


 ドーラが型紙を引いて、生地を裁った。ベッツィがしつけ糸を打ってボタンをつけた。わたしはいちばん難しい胸元と袖の仕立てと、刺繍を受け持った。


 指先に、針の痕がいくつもできた。夜中に、蝋燭の火が短くなって、ベッツィが作業台につっぷして眠ってしまったこともあった。


「お嬢さま、少しお休みください。目が真っ赤でございますよ」


「あと少しだけ。この袖だけ、仕上げたいの」


 一着縫い上げるたびに、わたしは、裏地の内側、左の脇の下のあたりに、小さな薔薇を一輪、縫いこんだ。


 赤い糸で五枚の花びら。真ん中に、金の糸でほんの小さな点を一つ。


 ドーラが教えてくれた、昔の王都の仕立て屋のやり方だった。表からは見えない。でも、裏地をめくれば、そこにいる。


 最後の一着、リリアーヌのドレスに薔薇を縫い終えたのは夜会の前の晩だった。


 わたしは針を置いて、ドレスを作業台の上に広げた。


 水色の絹の上に、白と金の花が、一面に咲いている。


 ドーラが眼鏡を外して目元をぬぐった。


「……お嬢さま。わたくしが針子をしていた店でも、これほどのものは、なかなか見られませんでした」


「本当?」


「嘘を申しあげる歳ではございません」


 ベッツィが目をこすりながら起き上がって、ドレスを見てぽかんと口を開けた。


「きれい……」


 わたしは両手で顔を覆った。


 泣くつもりはなかった。でも、ひと月ぶんの疲れと、悔しさと、うれしさが、いっぺんにあふれてきた。


 ドーラが黙って、わたしの背中をさすってくれた。


「お嬢さま。ひとつだけ、お訊きしてもよろしいですか」


 しばらくしてドーラが言った。


「このドレスを本当に、リリアーヌさまにお渡しになるのですか。今なら、まだ、裾を元の丈に戻せますよ」


 わたしは顔を上げた。蝋燭の火がドーラの眼鏡に二つ、小さく映っている。


 戻せば、わたしが着られる。でも着ていく夜会はない。招待状は父の机の上で、リリアーヌの名前に書きかえられている。


「……渡すわ。約束したもの」


「左様でございますか」


「でもね、ドーラ。いつか、自分のためのドレスを縫う。そのときは最初から最後までわたしの寸法で」


 ドーラは目を細めて深くうなずいた。


「そのときは、わたくしが型紙を引かせていただきます」




 夜会の当日、わたしは、父に言いつけられて、リリアーヌの付き添いとして公爵邸へ行った。


 付き添いといっても、客ではない。夜会の広間には入れない。ご令嬢方の控えの間で、ドレスの裾がほつれたり、髪飾りが外れたりしたときに直すための係だ。


「おまえは裁縫だけは得意だからな。何かあったら、すぐに直せ」


 父は馬車の中でそう言った。わたしは膝の上の裁縫箱をぎゅっと抱えた。


 アシュベリー公爵邸の控えの間は、わたしの家の客間よりも広かった。


 壁一面に鏡が張られ、天鵞絨の長椅子がいくつも並んでいる。広間から、楽団の音と、笑い声が、寄せては返して聞こえてきた。


 わたしは部屋の隅の小さな椅子に座って針と糸をそろえた。


 夜会が始まって一時間ほどたったころ、控えの間の扉が、勢いよく開いた。


「誰か! 誰か、針を持っている人はいない?」


 飛びこんできたのは、十二、三歳くらいの女の子だった。淡い桃色のドレスの裾が、膝のあたりから、大きく裂けている。


 後ろから、侍女らしい女の人が、青い顔で追いかけてきた。


「お嬢さま、走ってはいけません!」


「だって、もうすぐ叔父さまと踊る番なのよ! こんなの、叔父さまに見られたら……」


 女の子の目に、涙がにじんでいた。


 わたしは裁縫箱を持って立ち上がった。


「わたしでよろしければ、直します」


 女の子がわたしを見た。それから、裂けた裾を見下ろして唇をかんだ。


「……どのくらいかかる?」


 わたしは膝をついて、裂け目を確かめた。椅子の金具に引っかけたらしい。生地は上等の絹で、裂け目は、縫い目に沿ってまっすぐだった。


「十分ください。表からはわからないようにします」


 針に糸を通した。ドーラの銀の針だった。


 裂け目の裏側から、生地の織り目を一本ずつ拾っていく。表に糸が出ないように、ほんの少しずつ、すくって、引いて、またすくう。


 まわりの音が遠くなった。


 楽団の音も、笑い声も聞こえなくなって、目の前にあるのは、桃色の絹の織り目と、銀の針の先だけになった。


 最後の一針を引いて、糸を結んで歯で切った。


「できました」


 女の子は恐る恐る裾を持ち上げて鏡に映した。それから、くるりと一回転した。


「……うそ。どこが破れてたのか、わからない」


「表からは、わからないはずです」


「すごい! あなた、すごいわ!」


 女の子がわたしの両手を握ってぶんぶんと振った。


 そのとき、扉のところから、低くて穏やかな声がした。


「ずいぶんと騒がしいと思ったら。……セリーヌ、またですか」


 顔を上げると、背の高い男の人が、扉にもたれて立っていた。


 銀に近い淡い金髪を後ろでひとつに結んでいる。深い緑の礼服。胸には、白百合と二本の針の紋章。


 アシュベリー公爵、ガブリエル閣下だった。


「叔父さま! 見てドレスが裂けちゃったの。でも、この人が直してくれたのよ!」


 閣下は扉から離れて、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。わたしは慌てて立ち上がり、膝を折った。


 閣下は姪御さんの裾の前に片膝をついた。そして、さっきわたしが縫った場所を指先でそっとなぞった。


 しばらく、何も言わなかった。


 それから、裾を少しだけめくって、裏側の縫い目をのぞきこんだ。


「……織り目拾いですね。この縫い方ができる人間は、今の王都に、三人いるかどうかだと思っていました」


 閣下が顔を上げてわたしを見た。


 淡い緑の目。宝石の目利きをする人の目だ、と思った。


「あなたは、どちらの方ですか」


「ヴィンター子爵家の……付き添いでございます」


 娘です、とは言えなかった。父に、そう言いつけられている。


 閣下は少しだけ目を細めた。何か言おうとしたとき、広間から、閣下を呼ぶ声が聞こえた。


「閣下! 次の曲が始まります!」


「……今、行きます」


 閣下は立ち上がってわたしにかるく頭を下げた。


「姪を助けてくださってありがとうございました」


 それだけ言って、セリーヌ嬢の手を引いて、控えの間を出ていった。


 扉が閉まってから、わたしは、自分の両手を見下ろした。


 指先がまだ少し、ふるえている。


 帰りの馬車の中で父はずっと機嫌がよかった。


「リリアーヌ、おまえは今夜、いちばん目立っていたぞ。公爵閣下とも二曲踊ったそうじゃないか」


「でしょう? みんな、わたしのドレスばっかり見てたの」


 リリアーヌは窓の外を流れる街灯を眺めながら、うっとりとため息をついた。水色の裾が座席の上いっぱいに広がっている。わたしはその裾を踏まないように、隅のほうで膝を縮めていた。


「ロザリー。控えの間では何か役に立ったのか」


 父がついでのように訊いた。


「……小さなお嬢さんの、裾を一つ直しました」


「そうか」


 それで、話は終わりだった。父はまたリリアーヌのほうを向いて、明日はどの家に礼状を出すか、楽しそうに数えはじめた。


 わたしは膝の上の裁縫箱のふたを指でなぞった。


 織り目拾いですね。あの声がまだ耳の奥に残っていた。誰かに、わたしの縫い目の名前を言い当てられたのは、ドーラ以外では初めてだった。


 窓の外で、街灯が一つ、また一つと後ろへ流れていく。わたしはその光が見えなくなるまでずっと数えていた。




 夜会が終わりに近づいたころ、控えの間に、リリアーヌが飛びこんできた。


 頬が真っ赤で目がきらきらしている。


「お姉さま! 聞いて、聞いて! 公爵さまがね、わたしのドレスを褒めてくださったの!」


 どきん、と心臓が鳴った。


「……そう。よかったわね」


「それでね、どこの仕立て屋で作ったのかって訊かれたの。だから、わたしが自分で直したんですって言ったの!」


 わたしは裁縫箱のふたを閉じかけた手を止めた。


「……リリアーヌ」


「だって、お姉さまって言ったら、なんか、格好悪いじゃない? 付き添いの人に縫わせたなんて。公爵さま、びっくりしてたわ。そしたらね、明日、うちに来てくださるって!」


 リリアーヌはくるくると回った。水色の絹の上で、白と金の花が、燭台の光を浴びて揺れた。


 その裏地の、左の脇の下に、わたしの薔薇がいる。


 わたしは何も言えなかった。胸の中がすうっと冷えていった。


 ひと月かけて、指を針で刺しながら縫ったドレス。わたしの、いちばん大事なドレス。


 それを妹は、自分で直したと言った。




 次の日の昼過ぎ、ヴィンター子爵家の玄関に、アシュベリー公爵家の馬車が止まった。


 父は朝から上機嫌だった。母はリリアーヌの髪を三回も結い直させた。わたしは屋根裏にいるように言われた。


「おまえが出てくると、話がややこしくなる。いいな、絶対に降りてくるな」


 わたしは屋根裏の作業台の前に座って針を持った。何かしていないと、落ち着かなかった。


 階下から、父の大きな笑い声が聞こえてきた。リリアーヌの、甘い声も。


 ドーラが黙ってわたしの隣に座った。ベッツィは階段の上のところで、膝を抱えて下の様子をうかがっている。


 しばらくして、ベッツィが、はっと顔を上げた。


「お嬢さま……誰か、上がってきます」


 階段がぎし、ぎし、と鳴った。


 父の慌てた声がその後ろから追いかけてきた。


「閣下! そちらは物置で、ご覧いただくようなものは何も……」


「いいえ。ここにあるはずです」


 穏やかな声だった。でも、有無を言わせない声だった。


 屋根裏の入り口に、ガブリエル閣下が立った。


 閣下は傾いた天井に頭をぶつけないように、少しかがんで部屋の中を見まわした。作業台。糸の箱。端切れの山。窓辺の古い縫製台。


 それから、わたしを見た。


「……やはり、あなたでしたか」


 わたしは立ち上がることもできずに、針を握ったまま、閣下を見上げた。


 閣下の後ろから、父とリリアーヌが、息を切らして上がってきた。


「閣下、それは、上の娘のロザリーでございます。地味で、気のきかない娘でして、お目にかけるようなものでは……」


「ヴィンター子爵」


 閣下は振り返らずに言った。


「昨夜、私の夜会に来た令嬢のうち、四人のドレスの裏地に、同じ印が縫いこまれていました。赤い薔薇に、金の点が一つ。それから、子爵、あなたの礼服の袖口にも」


 父がぎょっとして自分の袖口を見下ろした。


「お嬢さんのリリアーヌ嬢は、ご自分で直したとおっしゃった。では四着とも、リリアーヌ嬢が?」


 リリアーヌの顔から、さあっと血の気が引いた。


「そ、それは……」


「織り目拾いの縫い方を説明していただけますか。針をどちらから入れるのか」


 リリアーヌは口をぱくぱくと動かした。それから、わっと泣き出して階段を駆け下りていった。


 父は真っ青な顔でその場に立ちつくしている。


 閣下はようやく、ゆっくりと父のほうに振り向いた。


「子爵。私の家が王家の衣装局を預かっていることはご存じですね」


「は、はい、もちろん……」


「来年の春、王女殿下のご婚礼があります。その花嫁衣装を任せられる針子を私は二年間、探していました」


 閣下はもう一度、わたしのほうを向いた。


「ロザリー・ヴィンター嬢。あなたと、あなたの工房をそっくり私の家に迎えたい。そちらのご婦人と、お嬢さんも一緒に」


 ドーラが隣で小さく息をのんだ。ベッツィがえっ、と声を上げた。


「わ、わたしもですか?」


「あなたのしつけ糸は、まっすぐで丁寧でした。ボタンの付け方も。四着とも、あなたでしょう?」


 ベッツィは顔を真っ赤にしてこくこくとうなずいた。


 わたしはまだ、針を握っている。


 夢を見ているのだと思った。目を覚ましたら、また、屋根裏の作業台につっぷしているのだと。


「……でもわたし、地味で」


 やっと出てきた声はかすれていた。


「父に、ずっと、そう言われてきました。夜会にも、出たことがありません。公爵家に、ふさわしいような者では……」


「ロザリー嬢」


 閣下が屋根裏の床に、片膝をついた。


 わたしと、目の高さが同じになった。淡い緑の目がまっすぐにわたしを見ていた。


「昨夜の広間で、いちばん美しかったのは、あなたの縫ったドレスでした。地味な人間に、あの花は咲かせられません」


 針を握る指から、力が抜けた。


 銀の針が作業台の上に落ちて、ちりん、と小さく鳴った。




 アシュベリー公爵邸の東の翼に、新しい工房ができた。


 南向きの大きな窓が三つ。天井は高くて、もう頭をぶつける心配はない。作業台は屋根裏のものの三倍の大きさがある。壁ぎわの棚には、見たこともない色の糸が、端から端までずらりと並んでいた。


「お嬢さま、この縫製台、足で踏まなくても針が動きますよ!」


 ベッツィが新しい縫製台の前で目を輝かせていた。


「ベッツィ、はしゃぎすぎですよ。……まあ、わたくしも、少しばかり胸が躍りますが」


 ドーラが眼鏡をかけ直しながら、棚の糸を一本ずつ、愛おしそうに撫でていた。


 ヴィンター子爵家とは、閣下が、正式に話をつけてくださった。


 父は最後まで「地味な娘を引き取っていただくのは申し訳ない」と言っていたらしい。けれど、わたしがいなくなった最初の社交期、ヴィンター家の令嬢のドレスは、どれも去年と同じものだったと聞いた。母の肩掛けも、父の礼服の袖口も、ほつれたままだったという。


 リリアーヌからは一度だけ手紙が来た。


 お姉さま、ごめんなさい。それと、袖の直し方を教えてください。


 わたしは袖の直し方を丁寧に書いて送った。図も添えた。


 王女殿下の花嫁衣装の仕事は、冬の初めから始まった。


 毎日、朝から夕方まで針を動かした。閣下はほとんど毎日、午後のお茶の時間に工房へ来た。来て、何も言わずに、作業台の端に座ってわたしの手元を見ていた。


「閣下。見ていて、退屈ではありませんか」


「いいえ、少しも」


 閣下は紅茶のカップを持ったまま、首を振った。


「私の母は針子でした。アシュベリーの家に嫁ぐ前は、王都の小さな仕立て屋で働いていたのです。子供のころ、母の膝の横で、針が動くのを見ているのが、何より好きでした」


 初めて聞く話だった。わたしは針を止めた。


「母が亡くなってから、あの音をずっと聞いていませんでした。あなたの針は母の針に、よく似た音がします」


 閣下の声が少しだけ、やわらかくなった。


 わたしは何と言っていいのかわからなくてまた針を動かした。しゅっ、しゅっ、と、絹を糸が抜けていく音がした。


 閣下は黙ってその音を聞いている。


 ある晩、遅くまで残って刺繍をしていると、工房の扉が、そっと開いた。


 閣下だった。手に、湯気の立つ小さな鍋と、木の椀を二つ持っていた。


「厨房の者が、もう寝てしまっていて。私が温めました。味は保証できませんが」


 鍋の中は牛乳で煮た麦の粥だった。蜂蜜と、肉桂の香りがした。


「閣下が、ご自分で……?」


「母が、夜なべをするときに、よく作ってくれたものです。針子の夜食はこれに限ると」


 閣下は作業台の端に椀を並べて粥をよそった。少しだけ、こぼした。閣下があ、と小さく声を漏らした。


 わたしは思わず笑ってしまった。公爵閣下が粥をこぼして困っている。屋根裏にいたころのわたしに話しても、きっと信じない。


 粥は甘くて、温かくて少しだけ焦げていた。


「……おいしいです」


「本当に?」


「嘘を申しあげる歳ではございません」


 ドーラの口真似をすると、閣下は一瞬きょとんとして、それから、声を立てて笑った。初めて聞く、閣下の笑い声だった。


 工房の窓の外では、雪が降りはじめていた。




 花嫁衣装が縫い上がったのは春の初めだった。


 王女殿下の婚礼の日、わたしは、大聖堂のいちばん後ろの席から、白い衣装が祭壇へ進んでいくのを見ている。


 裾が揺れるたびに、刺繍の白い花が、ステンドグラスの光を浴びて色を変えた。


 その裏地の、左の脇の下に赤い薔薇が一輪。


 婚礼が終わって、屋敷に戻ると、工房の作業台の上に、見慣れない包みが一つ置いてあった。


 淡い薔薇色の絹の反物だった。光にかざすと、細い金の糸が、織りこまれているのが見える。


 包みの横に、小さな紙が添えてあった。


 あなたが着るドレスを一着。来月の夜会で私の隣で着るものを。


 わたしは紙を持ったまま、その場に座りこんだ。


「……閣下」


 振り返ると、工房の入り口に閣下が立っていた。いつから、そこにいたのだろう。


「お嫌でしたか」


「い、いいえ。でも、わたし、自分のドレスを縫って、夜会に着ていったことなんて一度も……」


「では、これが一度目です」


 閣下はゆっくりと工房の中に入ってきた。それから、わたしの前に膝をついた。屋根裏の日と同じように。


「ロザリー。今夜、言うつもりではありませんでした。ドレスが縫い上がってから、夜会の晩に、きちんと言うつもりでした」


 閣下は少しだけ、困ったように息を吐いた。


「ですが、あなたの顔を見たら、待てなくなりました」


 閣下がわたしの手を取った。針の痕がいくつも残った、わたしの指を。


 そして、その指先にそっと唇を寄せた。


「私の妻になってください。あなたの針の音を毎日、隣で聞いていたい」


 工房の窓から、春の光が差しこんでいた。


 作業台の上で、薔薇色の絹が、金の糸をきらきらと光らせている。


 わたしはうなずいた。何度もうなずいた。声が出なかった。


 そのかわりに、閣下の手を握り返した。


 ひと月後の夜会で、わたしは、薔薇色のドレスを着て閣下の隣に立った。


 生まれて初めての夜会だった。広間の燭台がまぶしくて、楽団の音が大きくて足がふるえた。


 閣下と踊った最初の曲の終わりに、閣下が、わたしの腰に回した手で、裏地の左の脇の下のあたりをそっと押さえた。


「ここにいますね」


「……どうしてわかったんですか」


「あなたの縫ったものなら、どれでもそこを探します」


 閣下はそう言って、わたしをくるりと一回転させた。


 薔薇色の裾が広間いっぱいに、ふわりと広がった。




(完)


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