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水が死んだ日  作者: 御影のたぬき


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4-4 水を奪いあった日

 私の名前は、木村ケンタ。四十歳。かつては、普通のサラリーマンだった。東京の広告代理店で働き、妻と二人の子供と幸せに暮らしていた。しかし、南海トラフ巨大地震が、すべてを変えた。あの日以降、私は生存者となった。そして、人間の最も醜い部分を見た。


 地震が起きたのは、三月二十五日の午後だった。私は、自宅で在宅勤務をしていた。突然の激しい揺れ。私は、机の下に潜り込んだ。揺れは、長く続いた。そして、津波警報が鳴り響いた。


 私たちの家は、東京湾岸から約一キロの距離にあった。標高は約十メートル。津波が来れば、危険だった。


 私は、すぐに家族を集めた。妻のユカリ、長男のリク(当時十歳)、長女のノア(当時七歳)。


「すぐに避難するぞ!」


 私たちは、急いで車に乗り込んだ。しかし、道路は大渋滞だった。誰もが、高台に向かおうとしていた。


 車は、ほとんど動かなかった。私は、焦った。津波が来る。早く逃げなければ。


「車を捨てる!走るぞ!」


 私たちは、車を道路に置いたまま、走り始めた。リクとノアの手を引いて、必死で走った。


 周りには、同じように逃げる人々がいた。悲鳴、怒鳴り声、子供の泣き声。混乱していた。


 私たちは、ようやく高台の避難所に到達した。小学校の体育館だった。すでに、数百人が避難していた。


 体育館の中は、人で溢れていた。床に座る場所もないほどだった。私たちは、隅の方に場所を見つけ、座り込んだ。


 ノアが泣いていた。


「怖いよ、お父さん」


「大丈夫だ。もう安全だから」


 しかし、本当に安全なのか、私にもわからなかった。


 数時間後、津波が来た。体育館からは、海は見えなかった。しかし、遠くから轟音が聞こえた。そして、地響きがした。


 人々は、不安そうに外を見ようとした。しかし、外に出ることは禁止されていた。


 その夜、私たちは体育館で過ごした。床に毛布を敷いて、横になった。しかし、眠れなかった。余震が続いていたからだ。


 翌朝、外に出ると、街は変わり果てていた。津波の被害は、想像以上だった。建物は倒壊し、車は転覆し、すべてが泥に覆われていた。


 そして、至る所に水が溜まっていた。大きな水たまり、いや、湖のようなものもあった。


 避難所では、食料と水の配給が始まった。しかし、量は限られていた。


 一人当たり、おにぎり一個とペットボトル水五百ミリリットル。それだけだった。


「これだけ?」


 誰かが、不満を述べた。


「申し訳ありません。物資が限られています」


 自衛隊の隊員が、謝罪した。


 私は、自分の分を家族に分けた。リクとノアは、お腹を空かせていた。私は、子供たちに食べさせた。


 二日目、水の配給が減った。一人当たり、三百ミリリットルだけになった。


「これでは、足りない」


 人々は、不満を爆発させた。


「政府は、何をしているんだ!」


「もっと水を持ってこい!」


 しかし、物資は来なかった。道路が寸断され、輸送が困難だったのだ。


 三日目、水の配給はさらに減った。一人当たり、二百ミリリットル。


 私の家族は、四人だった。合わせて、八百ミリリットル。それでは、一日も持たない。


 リクとノアは、喉の渇きを訴えた。


「お父さん、水が飲みたい」


「わかってる。でも、今はない」


「でも、喉が渇いたよ」


 私は、どうすればいいかわからなかった。


 その日の午後、誰かが叫んだ。


「外に、水がある!」


 人々は、外に出た。そこには、津波の後に残された水たまりがあった。


「これを飲めば」


 ある男性が、言った。しかし、別の男性が止めた。


「やめろ!その水は危険だ!フォーラネグレリアがいるかもしれない!」


「でも、他に水がない!」


 議論が続いた。しかし、結論は出なかった。


 四日目、状況はさらに悪化した。水の配給が、完全に止まった。


「すみません、もう水がありません」


 自衛隊の隊員が、発表した。


「次の補給は、明日の予定です」


「明日まで待てない!」


 人々は、怒りを爆発させた。


 私も、限界だった。家族は、脱水症状になり始めていた。特にノアは、ぐったりしていた。


「お父さん、水…」


 ノアが、か細い声で言った。


 私は、決断した。外の水を飲むしかない。


 私は、ペットボトルを持って、外に出た。水たまりに近づいた。水は、濁っていた。しかし、選択肢はなかった。


 私は、ペットボトルに水を入れた。そして、持っていた布で濾した。それから、持っていたポータブルガスコンロで沸騰させた。


「百度で沸騰させれば、アメーバは死ぬはずだ」


 私は、自分に言い聞かせた。


 水を沸騰させ、冷ました。そして、家族に飲ませた。


「これ、安全なの?」


 ユカリが聞いた。


「わからない。でも、飲まないと、脱水で死ぬ」


 ユカリは、頷いた。そして、子供たちに水を飲ませた。


 私も、飲んだ。水は、泥臭かった。しかし、喉の渇きを癒した。


 五日目、ついに政府の給水車が到着した。しかし、数が少なかった。数百台の避難所に、わずか五台の給水車。


 給水所には、長い列ができた。私も、列に並んだ。しかし、数時間待っても、順番が来なかった。


 人々は、焦れていた。そして、ついに誰かが叫んだ。


「もう待てない!」


 その人は、列を飛ばして、給水車に向かった。すると、他の人々も続いた。


「順番を守ってください!」


 自衛隊の隊員が、叫んだ。しかし、人々は聞かなかった。


 給水車に、人々が殺到した。押し合い、へし合いになった。


 私も、その中にいた。家族のために、水を手に入れなければならない。


 私は、必死で給水車に近づいた。しかし、人々に押されて、転倒した。


 地面に倒れた私は、踏まれた。誰かの足が、私の背中を踏んだ。


「痛い!」


 私は、叫んだ。しかし、誰も止まらなかった。人々は、水を求めて、必死だった。


 私は、何とか立ち上がった。そして、再び給水車に向かった。


 給水車の周りは、混乱していた。人々が、水を奪い合っていた。


 私は、誰かを押しのけて、給水口に手を伸ばした。そして、ペットボトルを満たした。


 しかし、その時、誰かが私のペットボトルを奪おうとした。


「これは俺のだ!」


 私は、抵抗した。しかし、相手は強かった。


 私たちは、取っ合いになった。そして、ペットボトルが落ちた。水がこぼれた。


「何をするんだ!」


 私は、怒鳴った。しかし、相手も怒鳴り返した。


「お前が悪い!」


 私たちは、殴り合いになった。拳が、顔に当たった。痛みが走った。


 周りでも、同じことが起きていた。人々は、水を奪い合い、殴り合っていた。


 自衛隊の隊員たちが、介入しようとした。しかし、人数が多すぎた。


 暴動は、エスカレートした。給水車が、倒された。水が、地面にこぼれた。


 人々は、こぼれた水をすくおうとした。地面に這いつくばって、泥水を飲んだ。


 私も、その中にいた。ペットボトルで、地面の水をすくった。泥も一緒に入った。しかし、気にしなかった。


 その時、銃声が鳴った。


 人々は、一斉に止まった。


 自衛隊の隊員が、空に向かって警告射撃をしていた。


「全員、止まれ!」


 隊員が、拡声器で叫んだ。


「これ以上の暴動は、許さない!」


 人々は、徐々に落ち着いた。しかし、地面には、負傷者が横たわっていた。


 私は、自分の手を見た。ペットボトルには、泥水が入っていた。そして、私の手は、血だらけだった。殴り合いの時の傷だった。


 私は、立ち上がった。そして、周りを見た。人々の顔には、絶望と疲労があった。


 私たちは、何をしているのか。水を奪い合い、殴り合って。これが、人間の姿なのか。


 私は、避難所に戻った。家族は、心配そうに私を見た。


「お父さん、怪我してる」


 リクが言った。


「大丈夫だ」


 私は、ペットボトルの泥水を見せた。


「水を手に入れた」


 しかし、これは本当に水と呼べるのか。泥と血が混ざった液体。


 ユカリが言った。


「これ、飲めるの?」


「煮沸すれば」


 私は、再びガスコンロで水を沸騰させた。泥は沈殿し、上澄みだけを取った。そして、冷ました。


 家族に飲ませた。誰も文句は言わなかった。これしかないからだ。


 その夜、私は眠れなかった。暴動のことを考えていた。私は、人を押しのけ、殴り、水を奪った。それは、正しかったのか。


 しかし、家族を守るためだった。子供たちが、脱水で死ぬのを見るわけにはいかない。


 私は、自分に言い聞かせた。これは、生存のためだ。倫理や道徳は、生存の前では意味がない。


 六日目、さらに悪いニュースが入った。暴動で水を飲んだ人々の中から、感染者が出たのだ。


 地面にこぼれた水には、フォーラネグレリアが含まれていた可能性がある。そして、それを飲んだ人々が、発症し始めた。


 最初の症状は、高熱と頭痛だった。そして、数日で意識障害が始まった。


 避難所には、医師がいた。しかし、治療法がなかった。フォーラネグレリア感染症には、有効な治療法がほとんどない。


 感染者は、隔離された。体育館の隅に、区画が作られた。そこには、十数人が横たわっていた。


 私は、その区画を遠くから見た。あそこにいる人々は、もう助からない。数日以内に、死ぬだろう。


 そして、私も感染しているかもしれない。私も、地面の水を飲んだ。


 私は、自分の体温を測った。まだ、平熱だった。しかし、それは今だけかもしれない。


 七日目、隔離区画から、最初の死者が出た。四十代の男性だった。彼も、暴動で水を飲んだ一人だった。


 遺体は、体育館から運び出された。そして、仮設の遺体安置所に置かれた。


 その日だけで、三人が死亡した。


 人々は、恐怖した。あの水を飲んだ人は、みんな死ぬのか。


 私も、恐怖した。しかし、今のところ、症状はなかった。


 八日目、ようやく大規模な救援物資が到着した。政府が、全国から給水車を集め、派遣したのだ。


 給水所には、今度は十分な水があった。人々は、秩序正しく列に並んだ。もう、暴動は起きなかった。前回の暴動で、多くの人が怪我をし、そして感染した。その教訓を、人々は学んだ。


 私も、列に並んだ。そして、十分な水を受け取った。清潔で、安全な水だった。


 私は、その水を飲んだ。冷たく、美味しかった。これが、本当の水だ。


 家族にも飲ませた。リクとノアは、嬉しそうに飲んだ。


「お父さん、この水、おいしいね」


 ノアが言った。


「ああ、これが本当の水だ」


 二週間後、私たちは避難所を出ることができた。仮設住宅が建設され、そこに移住することになった。


 仮設住宅には、水道が通っていた。蛇口をひねると、水が出た。私は、その水を見て、涙が出そうになった。


 こんなにも、水が大切だったのか。当たり前だと思っていた水が、こんなにも貴重だったのか。


 私たちは、仮設住宅で新しい生活を始めた。しかし、元の生活には戻れなかった。


 私の家は、津波で流された。仕事も、失った。会社は、被災して事業を停止した。


 私は、新しい仕事を探した。しかし、簡単には見つからなかった。被災者は、数百万人いた。みんなが、仕事を探していた。


 数ヶ月後、私はようやく仕事を見つけた。水処理施設の作業員だった。給料は安かったが、仕事があるだけマシだった。


 私は、水処理施設で働くようになった。そこでは、海水を淡水化し、UV殺菌していた。


 私は、その仕事に意味を見出した。かつて、私は水を奪い合った。しかし、今は、水を作っている。人々に、安全な水を届けている。


 それは、贖罪のようだった。


 一年が経った。私たちは、徐々に日常を取り戻していた。子供たちも、新しい学校に通い始めた。


 しかし、あの暴動のことは、忘れられなかった。私は、人を押しのけ、殴り、水を奪った。その記憶は、消えない。


 ある日、私は暴動の時に殴った男性と再会した。彼も、同じ仮設住宅に住んでいた。


 私たちは、目が合った。気まずい沈黙が流れた。


 しかし、彼が先に口を開いた。


「あの時は、すまなかった」


 私は、驚いた。


「いや、私こそ」


「お互い、必死だったんだ」


 彼は、微笑んだ。


「家族を守るために」


「ああ、そうだな」


 私たちは、握手した。


 その夜、私は妻のユカリと話した。


「あの暴動のこと、時々思い出すんだ」


「私も」


「俺は、人間として最低なことをした」


「でも、それは仕方なかったのよ。生きるためだった」


「それでも」


 ユカリは、私の手を握った。


「ケンタ、あなたは家族を守った。それだけで十分よ」


 私は、ユカリの目を見た。彼女の目には、優しさがあった。


「ありがとう」


 数年後、私たちは仮設住宅を出て、新しいアパートに移った。生活は、少しずつ改善していった。


 リクとノアも、成長した。リクは高校生になり、ノアは中学生になった。


 彼らは、あの震災のことを覚えている。しかし、詳細は忘れつつあった。


 ある日、ノアが聞いてきた。


「お父さん、震災の時、怖かった?」


「ああ、とても怖かった」


「何が一番怖かった?」


 私は、考えた。津波?揺れ?いや、違う。


「水がなくなることが、一番怖かった」


「水?」


「ああ。水がないと、人は生きられない。そして、水を求めて、人は何でもする」


「お父さんも、何かしたの?」


 私は、正直に答えた。


「ああ。俺は、人を押しのけ、水を奪った」


 ノアは、驚いた表情をした。


「でも、それは悪いことじゃないの?」


「悪いことだ。しかし、お前たちを守るためだった」


 ノアは、しばらく考えた。そして、言った。


「お父さん、ありがとう」


 私は、娘を抱きしめた。


 十年が経った。東京は、復興していた。新しいビルが建ち、道路が整備され、水インフラも完全に回復していた。


 私は、依然として水処理施設で働いていた。今では、主任技師になっていた。


 私は、毎日、水を作っている。そして、思う。この水が、誰かの命を救うかもしれない。


 あの暴動から、私は学んだ。水の大切さ。そして、人間の脆さ。


 極限状態では、人は獣になる。倫理も道徳も、生存の前では無力だ。


 しかし、それでも人間は、立ち直ることができる。過ちを認め、償い、前に進むことができる。


 私は、あの暴動を後悔している。しかし、同時に、それが私を変えたことも認める。


 私は、もう二度と、水を当たり前だと思わない。蛇口をひねれば水が出る。それは、奇跡だ。


 そして、その奇跡を守るために、私は働き続ける。


 ある日、私は仕事帰りに、海岸を歩いた。波が、穏やかに打ち寄せていた。


 海は、依然として美しかった。そして、安全だった。


 人類は、淡水を失った。しかし、海があった。


 そして、人類は、適応した。新しい技術を開発し、新しいシステムを作り、生き延びた。


 私も、その一部だった。


 私は、波を見つめた。そして、思った。


 水は、命だ。


 そして、命は、尊い。


 私は、それを守るために、これからも働き続ける。


 それが、あの暴動を生き延びた私の、使命だと思う。


 完。

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