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水が死んだ日  作者: 御影のたぬき


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4-3 ドームの中の楽園

 私の名前は、田中リョウコ。三十八歳。完全閉鎖型水循環都市「ニュー・エデン」の住民だ。この都市に移住して、五年が経つ。それまでは、東京で暮らしていた。しかし、南海トラフ地震の後、私は決断した。もう、開放都市では生きられない。安全な場所に移りたい。そして、私はここに来た。


 ニュー・エデンは、富士山麓に建設された完全閉鎖型都市だ。人口は約十万人。都市全体が、巨大な透明ドームで覆われている。ドームの直径は約五キロメートル。高さは、最高部で約二百メートル。


 ドームの中には、住宅、オフィス、商業施設、学校、病院。すべてが揃っている。そして、最も重要なのは、完全閉鎖型水循環システムだ。


 すべての水が、都市内で循環利用される。雨水は、ドームの表面で集められ、浄化される。生活排水も、高度処理されて再利用される。外部からの淡水の流入は、完全に遮断されている。


 つまり、ここにはフォーラネグレリアが侵入できない。ニュー・エデンは、文字通りの「楽園」だった。


 私がニュー・エデンに移住したのは、娘のためだった。娘の名前は、アイ。当時、十二歳だった。彼女は、東京で生まれ育った。しかし、地震と津波を経験して、トラウマを抱えていた。


 地震の日、アイは学校にいた。津波が来た時、彼女は高台に避難した。幸い、無事だった。しかし、その後、彼女は水を極度に恐れるようになった。


 シャワーを浴びることも、怖がった。顔を洗うことも、できなくなった。水道の蛇口を見るだけで、パニックになった。


 私は、娘を心配した。心理カウンセリングを受けさせたが、改善しなかった。娘は、日に日に衰弱していった。


 ある日、カウンセラーが提案した。


「完全閉鎖型都市への移住を検討してはどうですか」


「閉鎖都市?」


「はい。そこでは、すべての水が完全に管理されています。フォーラネグレリアの心配は、ありません」


「でも、高いんでしょう」


「はい。しかし、お嬢さんの心の健康のためには、検討する価値があると思います」


 私は、夫と相談した。夫の名前は、タケシ。彼は、IT企業で働いていた。


「リョウコ、アイのためなら、何でもする」


 タケシは、即座に同意した。


「でも、仕事は?」


「リモートワークができる。場所は関係ない」


 私たちは、ニュー・エデンへの移住を申し込んだ。しかし、簡単ではなかった。


 ニュー・エデンは、人気が高かった。移住希望者は、審査を受ける必要があった。経済的な能力、職業、健康状態。すべてが評価された。


 そして、移住費用も高額だった。一家族あたり、約三千万円。これには、住宅の購入費、移住手続き費、そして最初の一年間の生活費が含まれていた。


 私たちには、そんな余裕はなかった。しかし、両親が援助してくれた。


「孫のためだ。使ってくれ」


 両親は、貯金を私たちに渡してくれた。


 私たちは、審査に合格した。そして、移住が許可された。


 引っ越しの日、私たちは東京を離れた。富士山麓に向かう車の中で、アイは静かだった。


「アイ、大丈夫?」


「うん。新しい場所、どんなところなんだろう」


「安全な場所よ。もう、水を怖がらなくていいの」


 アイは、わずかに微笑んだ。


 ニュー・エデンに到着した時、私たちは圧倒された。ドームは、想像以上に巨大だった。透明な壁が、空に向かって伸びていた。


 ドームの入口は、厳重に管理されていた。セキュリティゲートを通過し、身分証明を提示し、健康チェックを受けた。


「ようこそ、ニュー・エデンへ」


 スタッフが、笑顔で迎えてくれた。


 ドームの中に入ると、そこは別世界だった。広い道路、整然と並ぶ建物、緑豊かな公園。すべてが、計画的に配置されていた。


 そして、空気が違った。外部よりも、清潔で、爽やかだった。ドーム内の空気は、常に濾過され、最適な温度と湿度に保たれていた。


 私たちの新しい家は、ドームの中央部にあった。三階建ての一戸建てだ。庭もあった。いや、正確には「庭のようなスペース」だった。人工芝が敷かれ、人工の木が植えられていた。


 家の中も、最新の設備が整っていた。スマートホームシステムで、すべてが自動化されていた。照明、空調、セキュリティ。すべてが、タッチパネルで制御できた。


 そして、最も重要なのは、水だった。蛇口をひねると、透明な水が出てきた。私は、その水を飲んだ。冷たく、美味しかった。そして、何より、安全だった。


 アイも、恐る恐る水を飲んだ。そして、安堵の表情を浮かべた。


「お母さん、この水、安全なの?」


「ええ、完全に安全よ。ここには、悪いアメーバはいないの」


 アイは、涙を流した。


「良かった」


 私は、娘を抱きしめた。


 ニュー・エデンでの生活は、快適だった。すべてが、効率的に管理されていた。


 朝、目覚めると、自動的にカーテンが開き、柔らかい光が部屋に入ってきた。いや、これは本当の太陽光ではなかった。ドームの照明システムが、太陽光を模擬していた。しかし、自然光と区別がつかないほど、精巧だった。


 朝食は、自動調理システムで準備された。栄養バランスが最適化されたメニューが、提供された。


 アイは、ニュー・エデンの学校に通い始めた。学校も、最新の設備が整っていた。電子黒板、タブレット端末、VR学習システム。すべてが、教育に特化していた。


 そして、水安全教育も行われていた。しかし、ここでの教育は、外部とは違った。


「ニュー・エデンの水は、完全に安全です」


 教師が説明した。


「しかし、外部の水は危険です。だから、絶対にドームの外で、淡水に触れてはいけません」


 子供たちは、真剣に聞いていた。


 ニュー・エデンには、プールもあった。しかし、これは淡水プールだった。外部では、もう淡水プールは存在しない。しかし、ここでは可能だった。なぜなら、水が完全に管理されているからだ。


 アイは、初めてプールに入った。最初は、怖がっていた。しかし、徐々に慣れていった。そして、ついに泳げるようになった。


「お母さん、見て!泳げるよ!」


 アイは、笑顔で叫んだ。


 私は、涙を流した。娘が、再び水を楽しめるようになった。それが、何よりも嬉しかった。


 しかし、ニュー・エデンでの生活には、違和感もあった。


 まず、自然がなかった。いや、正確には「本当の自然」がなかった。公園の木は、すべて人工だった。芝生も、人工芝だった。花も、造花が多かった。


 鳥の声も、録音されたものだった。ドーム内には、本物の鳥はいなかった。衛生管理のため、野生動物の侵入は厳しく制限されていた。


 そして、空も、本当の空ではなかった。ドームの天井は、透明だった。しかし、それでも、閉ざされた空間だった。星は見えたが、どこか遠く感じた。


 私は、時々、本当の自然が恋しくなった。風に揺れる本物の木、土の匂い、虫の声。


 しかし、それは贅沢な悩みだった。ここは、安全だ。それが、最も重要なことだった。


 夫のタケシも、ニュー・エデンでの生活に適応していた。彼は、リモートワークで東京の会社の仕事を続けていた。ドーム内には、高速インターネットが完備されており、通信に問題はなかった。


 しかし、タケシも時々言った。


「たまには、外に出たいな」


「外?」


「ああ。ドームの外。本当の自然を見たい」


「でも、危ないでしょう」


「わかってる。でも、ここにずっといると、息が詰まる感じがする」


 私は、理解できた。ニュー・エデンは、快適だった。しかし、それは同時に、制約でもあった。


 ドームの外に出ることは、可能だった。しかし、厳しい規則があった。


 まず、許可を得る必要があった。外出の理由、目的地、期間。すべてを申告しなければならなかった。


 次に、装備が必要だった。防護服、ゴーグル、マスク。淡水に触れないための、完全な装備だった。


 そして、帰還時には、徹底的な除染が必要だった。シャワーで全身を洗い、衣服は廃棄される。体内に、フォーラネグレリアが侵入していないか、医学的検査も受ける。


 これらの手続きは、面倒だった。だから、ほとんどの住民は、外出しなかった。


 私たちも、最初の一年間は、一度も外出しなかった。ドーム内で、すべてが完結していたからだ。


 しかし、二年目のある日、タケシが提案した。


「一度、外に出てみないか」


「なぜ?」


「アイに、外の世界を見せたい。ドームの中だけが、世界じゃないって」


 私は、考えた。確かに、アイはドームの中しか知らなかった。外の世界を見せることは、教育的にも意味があるかもしれない。


 私たちは、外出許可を申請した。目的地は、近くの山だった。そこには、かつて人気のハイキングコースがあった。しかし、今は、誰も行かない。


 許可が下りた。私たちは、防護装備を身につけた。重い服、息苦しいマスク。しかし、それが必要だった。


 ドームの出口は、エアロックのようになっていた。二重のドアがあり、間には除染室があった。


 私たちは、第一のドアを通過した。除染室で、装備の最終チェックを受けた。そして、第二のドアが開いた。


 外の世界が、広がった。


 私たちは、しばらく立ち尽くした。外の空気は、冷たかった。そして、匂いが違った。土の匂い、草の匂い。


 アイは、周りを見回した。


「すごい。これが、外なんだ」


 私たちは、山道を歩き始めた。道は、荒れていた。誰も手入れをしていないからだ。


 しかし、自然は、依然として美しかった。木々が風に揺れ、鳥が鳴いていた。


 私たちは、小川を見つけた。透明な水が、流れていた。


「お母さん、これが川?」


 アイが聞いた。


「ええ、そうよ」


「きれいだね」


「でも、触ってはダメよ」


 アイは、頷いた。彼女は、理解していた。この水は、危険だと。


 私たちは、数時間、山を歩いた。そして、頂上に到着した。そこからは、富士山が見えた。


 富士山は、雄大だった。雪を頂き、空に向かって聳えていた。


 そして、富士山の麓には、ニュー・エデンのドームが見えた。巨大な泡のような構造物が、平原に横たわっていた。


「あれが、私たちの家なんだね」


 アイが言った。


「ええ、そうよ」


 私たちは、しばらくその光景を眺めた。ドームは、外から見ると、異様だった。自然の中に、突然現れた人工物。


 しかし、それが私たちの安全を保証していた。


 帰り道、私たちは話した。


「お母さん、外の世界、どう思う?」


 アイが聞いた。


「美しいわ。でも、危険でもある」


「うん。わかる。でも、たまには外に出るのもいいね」


「そうね」


 ニュー・エデンに戻ると、私たちは除染を受けた。シャワーで全身を洗い、衣服を廃棄した。医学的検査も受けた。幸い、異常はなかった。


 その夜、私はベッドに横たわりながら、考えた。外の世界は、確かに美しかった。しかし、私たちはもう、そこで暮らすことはできない。


 ニュー・エデンが、私たちの世界だった。


 三年が経った。私たちは、ニュー・エデンでの生活に完全に適応していた。アイも、健康に育っていた。もう、水を恐れることはなかった。


 しかし、ある日、問題が発生した。ドームの水循環システムに、異常が検出されたのだ。


 都市の管理局から、緊急アナウンスがあった。


「住民の皆様にお知らせします。水循環システムに、軽微な異常が検出されました。現在、技術者が対応中です。水の使用は、通常通り可能です。ただし、節水にご協力ください」


 私は、不安を感じた。軽微な異常とは、何だろう。


 数日後、さらなるアナウンスがあった。


「水循環システムの異常は、予想以上に深刻です。修復には、数週間かかる見込みです。この間、水の使用を制限します。一人当たり、一日五十リットルまでとします」


 五十リットル。それは、通常の半分以下だった。シャワー、洗濯、料理。すべてを制限しなければならなかった。


 住民たちは、不満を述べた。


「これでは、生活できない」


「高い費用を払って、ここに来たのに」


 しかし、管理局は、理解を求めた。


「これは、一時的な措置です。システムが修復されれば、通常に戻ります」


 一週間が経った。しかし、状況は改善しなかった。むしろ、悪化した。


 水の供給が、不安定になった。時々、水道から水が出なくなった。


 住民たちは、パニックになり始めた。


「ここは、安全だと言ったじゃないか」


「水が出ないなら、意味がない」


 管理局は、説明会を開いた。私も、参加した。


「現在、システムの主要なポンプが故障しています」


 技術者が説明した。


「修理には、特殊な部品が必要です。しかし、その部品は、外部から取り寄せる必要があります」


「いつ、届くんですか」


 誰かが聞いた。


「最短で、二週間です」


「二週間も待てない!」


「申し訳ありません。しかし、これが現実です」


 会場は、騒然となった。人々は、怒りを爆発させた。


 私は、家に帰った。そして、タケシと相談した。


「どうする?」


「わからない。でも、ここにいても、水が出ないなら」


「外に出る?」


「いや、それは危険だ」


 私たちは、ジレンマに陥った。


 数日後、管理局は、緊急対策を発表した。


「外部から、水を搬入します」


 しかし、これは、ニュー・エデンの原則に反していた。完全閉鎖型都市は、外部から何も持ち込まないことが基本だった。


 しかし、背に腹は代えられなかった。


 大型のタンクローリーが、ドーム内に搬入された。その水は、厳重に処理され、UV殺菌された水だった。


 しかし、量は限られていた。住民たちは、配給所に列を作った。


 私も、列に並んだ。数時間待って、ようやく水を受け取った。一家族あたり、一日二十リットル。


 これでは、到底足りなかった。


 二週間後、ようやく部品が到着した。技術者たちは、昼夜を問わず修理を行った。


 そして、一週間後、システムが復旧した。


 水道から、再び水が出るようになった。


 住民たちは、安堵した。しかし、信頼は揺らいでいた。


「本当に、ここは安全なのか」


「システムが故障したら、どうなるんだ」


 私も、同じ疑問を抱いた。ニュー・エデンは、完璧だと思っていた。しかし、完璧なシステムなど、存在しない。


 夫のタケシが言った。


「リョウコ、ここを出ることを考えるべきかもしれない」


「でも、アイは」


「アイは、もう大丈夫だ。水を恐れていない」


「でも、外は危険よ」


「ここも、完全に安全じゃない。今回、それがわかった」


 私は、考え込んだ。


 数ヶ月後、私たちは決断した。ニュー・エデンを出る。


 理由は、いくつかあった。まず、今回のシステム故障で、信頼が揺らいだこと。次に、娘のアイが、もう水を恐れなくなったこと。そして、何より、閉鎖空間での生活に、限界を感じたこと。


 私たちは、移住先を探した。そして、海岸部の新しい都市を選んだ。そこは、開放都市だったが、最新の水インフラが整備されていた。


 ニュー・エデンを出る日、私たちは複雑な思いだった。


「ここでの五年間、無駄じゃなかったよね」


 アイが言った。


「ええ、無駄じゃなかったわ。あなたは、ここで回復したんだから」


「でも、これからは、外の世界で生きるんだね」


「そうよ。怖い?」


「少し。でも、大丈夫。お母さんとお父さんがいるから」


 私たちは、ドームを出た。エアロックを通過し、外の世界に戻った。


 空気は、冷たく、風が強かった。しかし、それが本当の世界だった。


 私たちは、新しい都市に到着した。そこは、海に面していた。波の音が聞こえた。


 アイは、海を見て、目を輝かせた。


「すごい!海、初めて見た!」


「本当?」


「うん。ニュー・エデンには、海がなかったから」


 私は、気づいた。アイは、ニュー・エデンで五年間過ごした。その間、本当の自然を見ることはほとんどなかった。


 私たちは、海岸を歩いた。砂浜に足を踏み入れた。波が、足元に打ち寄せた。


 アイは、恐る恐る海水に触れた。


「お母さん、海は安全なの?」


「ええ、海水にはアメーバはいないわ」


 アイは、安心した。そして、波打ち際で遊び始めた。


 私は、娘の姿を見て、微笑んだ。


 ニュー・エデンは、楽園だった。しかし、それは人工的な楽園だった。


 本当の楽園は、ここにあった。不完全で、危険もあるが、それでも美しい、本当の世界に。


 私たちは、これからここで生きていく。


 水を恐れながらも、水と共存しながら。


 それが、新しい人類の生き方だった。

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