4-1 海が裏切った日
私の名前は、水野ユウキ。四十二歳。水処理技術者だ。母は、水野ハルカ。彼女も水処理技術者だった。フォーラネグレリア感染拡大の初期から、この分野で働いてきた。私は、母の背中を見て育ち、同じ道を選んだ。
今、私は東京湾岸の大型浄水施設で技術主任として働いている。この施設は、東京都の水需要の約三十パーセントを担っている。海水淡水化プラントと、UV殺菌システムを備えた、最新鋭の施設だ。
東京は、フォーラネグレリア感染拡大以降、劇的に変化した。内陸部から多くの人々が移住してきた。人口は、感染拡大前の一・五倍、約二千万人に増加した。そして、その大半が、湾岸部に集中していた。
なぜなら、海は安全だからだ。海水には、フォーラネグレリアは存在しない。人々は、海に近い場所に住みたがった。心理的な安心感を求めて。
私には、妻と一人娘がいた。妻の名前は、アヤコ。娘は、サクラ。サクラは十五歳の高校生だった。私たちは、湾岸部のマンションに住んでいた。窓からは、東京湾が見えた。
サクラは、水を恐れながらも、海は好きだった。時々、家族で海岸を散歩した。彼女は、波打ち際で遊ぶのが好きだった。しかし、決して顔を水につけることはなかった。それは、彼女の世代にとって、絶対のタブーだった。
「お父さん、昔の人は、本当に川で泳いでいたの?」
サクラが聞いてきたことがある。
「ああ、そうだよ。おじいちゃんやおばあちゃんの時代は、川で泳ぐのが普通だった」
「信じられない。怖くなかったのかな」
「当時は、アメーバがいなかったからね」
サクラは、不思議そうに首を傾げた。彼女にとって、淡水で泳ぐという行為は、理解できないものだった。
それは、ごく普通の春の日だった。三月二十五日。私は、浄水施設で通常業務をこなしていた。UV殺菌装置の点検、水質検査、システムのモニタリング。すべてが順調だった。
午後二時四十六分。
最初は、微かな揺れだった。しかし、すぐに激しくなった。施設全体が、大きく揺れた。機械が軋み、警報が鳴り響いた。
「地震だ!」
誰かが叫んだ。しかし、私たちは動けなかった。揺れが、あまりにも激しかった。立っていることができない。私は、機械に掴まった。
揺れは、五分以上続いた。その間、施設内は混乱していた。配管が破裂し、水が噴き出した。電気が消え、非常灯だけが点灯した。
やがて、揺れが収まった。私は、すぐに施設の状況を確認した。ダメージは大きかった。複数の配管が破損し、UV殺菌装置の一部が停止していた。
「システムを再起動しろ!」
私は、スタッフに指示した。しかし、その時、さらに悪いニュースが入った。
「津波警報が出ています!」
スタッフが叫んだ。
「高さは?」
「予想、十メートル以上!」
私は戦慄した。この施設は、海岸から約五百メートルの距離にある。標高は、わずか五メートルだ。十メートルの津波が来れば、完全に水没する。
「全員、すぐに避難しろ!」
私は、命令した。スタッフたちは、急いで施設を出た。しかし、私は残った。システムを緊急停止する必要があった。水を止めなければ、大規模な二次災害が起きる。
私は、制御室に走った。そして、手動で緊急停止ボタンを押した。すべてのポンプが停止し、バルブが閉じた。
その時、警報が鳴った。津波接近の警報だ。
私は、制御室を飛び出した。外に出ると、遠くに巨大な波が見えた。黒い壁のような波が、こちらに向かってきていた。
私は、必死で走った。高台に向かって。しかし、津波の方が速かった。
波が、私を飲み込んだ。
冷たい水が、全身を包んだ。私は、水中で回転した。どちらが上かわからない。息ができない。
しかし、その瞬間、私は思い出した。これは海水だ。海水は安全だ。フォーラネグレリアはいない。
その思考が、わずかな安心感を与えた。しかし、溺れることに変わりはない。
私は、必死でもがいた。そして、何かに掴まった。流木だった。私は、それにしがみついた。
波に揺られながら、私は意識を保った。どれくらい時間が経ったのかわからない。しかし、やがて波が引いた。
私は、泥と瓦礫の中に横たわっていた。全身が痛かった。しかし、生きていた。
私は、ゆっくりと立ち上がった。周囲を見渡した。そこは、地獄のような光景だった。
建物は倒壊し、車は転覆し、すべてが泥に覆われていた。そして、至る所に水が溜まっていた。
私は、家族のことを思った。アヤコとサクラは、無事だろうか。私たちのマンションは、湾岸部にある。津波の直撃を受けたはずだ。
私は、携帯電話を取り出した。しかし、壊れていた。通信も途絶えていた。
私は、歩き始めた。家に向かって。しかし、道路は瓦礫で塞がれていた。進むことが困難だった。
数時間後、私はようやく自宅マンションの近くに到着した。しかし、マンションは半壊していた。低層階は、完全に破壊されていた。
私は、必死でマンションに入った。階段を上った。私たちの部屋は、十階にあった。津波は、そこまでは到達していないはずだ。
ドアを開けると、アヤコとサクラがいた。二人とも、無事だった。
「ユウキ!」
アヤコが、泣きながら抱きついてきた。
「無事だったのね」
「ああ、何とか」
サクラも、涙を流していた。私は、二人を抱きしめた。
しかし、安堵したのもつかの間、新たな問題が発生した。水だ。
マンションの水道が、止まっていた。電気も、止まっていた。つまり、ポンプが動かず、上層階には水が来ない。
私たちは、備蓄していたボトル水を確認した。約二十リットルあった。しかし、それでは数日しか持たない。
外に出て、給水所を探す必要があった。しかし、外は危険だった。余震が続いていた。そして、もっと恐ろしいものがあった。
津波の後に残された水だ。
私は、窓から外を見た。街のあちこちに、水が溜まっていた。大きな水たまり、いや、湖のようなものもあった。
そして、その水は、淡水と海水が混ざったものだった。津波が河川を逆流し、下水を破壊し、すべてを混ぜ合わせていた。
私は、恐怖を感じた。その水に、フォーラネグレリアが含まれている可能性がある。
翌日、私は外に出た。給水所を探すために。しかし、給水所は見つからなかった。政府の対応は、まだ追いついていなかった。
街を歩くと、多くの人々が同じように水を探していた。そして、誰もが恐怖を抱いていた。
「この水、飲んでも大丈夫かな」
ある男性が、溜まり水を見つめながら呟いた。
「やめておけ。津波の水だぞ。何が混ざっているかわからない」
別の男性が、止めた。
しかし、数日後、状況は悪化した。政府の給水車が来ない。備蓄水が尽きた人々は、絶望し始めた。
そして、ついに、誰かが溜まり水を飲んだ。
「もう、我慢できない。子供が脱水症状になりそうだ」
ある父親が、溜まり水をペットボトルに入れた。そして、布で濾した。
「火で沸かせば、大丈夫だろう」
彼は、カセットコンロで水を沸騰させた。そして、冷ました後、子供に飲ませた。
私は、それを止めようとした。しかし、手遅れだった。
数日後、その子供が発症した。高熱、頭痛、意識障害。フォーラネグレリア感染症だった。
子供は、一週間後に死亡した。
それが、きっかけだった。パニックが広がった。
「溜まり水は危険だ!」
「でも、他に水がない!」
人々は、ジレンマに陥った。水がなければ、脱水で死ぬ。溜まり水を飲めば、感染するかもしれない。
私は、浄水施設に戻った。しかし、施設は壊滅的な被害を受けていた。UV殺菌装置は破壊され、配管は断裂し、電源も失われていた。
修復には、数ヶ月かかると推定された。しかし、数ヶ月も待てない。人々は、今、水を必要としていた。
政府は、ようやく動き始めた。自衛隊が派遣され、給水車が到着した。しかし、数が足りなかった。二千万人の都市に、数百台の給水車では、全く足りない。
給水所には、長い列ができた。人々は、一日中待った。しかし、水は限られていた。一人当たり、一日二リットル。それでは、到底足りなかった。
給水所で、暴動が起きた。人々は、水を求めて争った。警察が出動したが、制御できなかった。
ある給水所では、給水車が襲撃された。人々が、給水車に殺到し、水を奪い合った。何人かが、trampled to deathした。
私は、その光景を見て、絶望した。これが、文明社会の姿なのか。
政府は、緊急事態宣言を発令した。軍が出動し、秩序を回復しようとした。しかし、状況は改善しなかった。
そして、感染が拡大し始めた。溜まり水を飲んだ人々が、次々と発症した。病院は、すぐに満床になった。しかし、治療法はなかった。
死者は、日々増加していった。最初は数十人、次に数百人、そして数千人。
一ヶ月後、東京だけで、五万人以上が感染し、そのうちの四万人以上が死亡したと推定された。
私の家族は、何とか生き延びていた。私は、施設の同僚たちと協力して、小型のポータブルUV殺菌装置を組み立てた。そして、海水を淡水化し、UV殺菌した水を、近隣の人々に配った。
しかし、それでも限界があった。装置の処理能力は、一日約千リットル。数百人分にしかならなかった。
ある日、私は海岸に行った。そこには、海上自衛隊の艦船が停泊していた。艦船には、大型の海水淡水化装置が搭載されていた。
「これで、一日約十万リットルの淡水を生産できます」
海上自衛隊の士官が説明した。
「それを、ポンプで陸上に送ります」
これは、希望だった。海からの水供給が、本格的に始まった。
艦船は、海岸に仮設の配管を接続した。そして、淡水を陸上のタンクに送り始めた。
人々は、そのタンクに殺到した。しかし、今度は秩序が保たれた。軍が、厳重に警備していたからだ。
しかし、新たな問題が浮上した。心理的な問題だ。
人々は、気づき始めた。海は、絶対に安全ではない、と。
津波は、海から来た。そして、その後に残された水が、フォーラネグレリアを含んでいた。つまり、海も、間接的に危険をもたらした。
「もう、どこも安全じゃない」
ある女性が、絶望的に呟いた。
「内陸は、淡水で危険。海岸は、津波で危険。どこに逃げればいいの」
この感覚は、急速に広がった。人々は、安全な場所がないことに気づいた。
そして、移住が始まった。東京を離れ、他の都市へ移住する人々が増えた。しかし、どこに行っても同じだった。どこも、リスクはあった。
政府は、対応に追われた。まず、津波の被害を受けた地域の復興。しかし、それには膨大な予算と時間がかかった。
次に、水インフラの再構築。しかし、これも困難だった。多くの施設が破壊され、修復には何年もかかると推定された。
そして、最も困難だったのは、人々の心理的な不安を解消することだった。
政府は、新しい方針を発表した。「水安全強化計画」だ。
まず、水インフラの地下化。地上の施設は、津波や地震に脆弱だった。だから、すべての重要施設を地下に移設する。
次に、完全閉鎖型水循環都市の建設。外部からの水の流入を完全に遮断し、内部で循環利用する。
そして、人口の分散。一つの都市に人口を集中させることは、リスクが高い。小規模な閉鎖都市を、各地に分散配置する。
この計画は、野心的だった。しかし、実現には何十年もかかると言われた。
私は、復興作業に参加した。浄水施設の修復と、新しいシステムの設計。昼夜を問わず、働いた。
サクラは、私の仕事を見ていた。そして、ある日言った。
「お父さん、私も水処理技術者になりたい」
私は、驚いた。
「なぜ?」
「だって、水は大切でしょう。それを守る仕事は、素晴らしいと思う」
私は、嬉しかった。しかし、同時に、複雑な思いもあった。娘に、この過酷な仕事を継がせることは、果たして正しいのか。
しかし、サクラの目は、真剣だった。彼女は、決意していた。
「わかった。応援するよ」
私は、娘の頭を撫でた。
数年が経った。東京は、徐々に復興していった。水インフラも、少しずつ回復した。新しいUV殺菌装置が設置され、海水淡水化プラントが拡張された。
しかし、人口は減少していた。震災前、東京には二千万人が住んでいた。しかし、今や、千五百万人しかいなかった。五百万人が、他の地域に移住したのだ。
そして、人々の価値観も変わった。
「海岸に住むことは、リスクだ」
この認識が、広まった。海岸部の不動産価格は、暴落した。逆に、内陸でも安全な地域、つまり高台や、水インフラが完備された場所の価格が上昇した。
政府の「水安全強化計画」も、進んでいた。最初の完全閉鎖型水循環都市が、富士山麓に建設された。人口約十万人の都市だ。
私は、その都市を視察する機会があった。都市は、巨大なドームで覆われていた。すべての水が循環利用され、外部からの流入は完全に遮断されていた。
「ここは、絶対に安全です」
都市の管理者が説明した。
「津波も、地震も、フォーラネグレリアも、すべてから隔離されています」
しかし、私は違和感を覚えた。これは、本当に人間らしい生活なのか。自然から完全に切り離された、閉鎖空間での生活。
都市の住民たちは、満足しているようだった。しかし、彼らの目には、何か失われたものがあるように見えた。
私は、東京に戻った。そして、サクラに聞いた。
「ああいう都市で、暮らしたいと思う?」
サクラは、しばらく考えた。そして、答えた。
「わからない。安全だけど、何か窮屈な感じがする」
「そうだな。でも、これが、これからの世界の姿なのかもしれない」
十年が経った。サクラは、大学を卒業し、水処理技術者になっていた。彼女は、私の後を継いで、東京湾岸の浄水施設で働いていた。
世界は、さらに変化していた。完全閉鎖型水循環都市が、各地に建設されていた。日本だけでも、二十以上の都市が完成していた。
人口分布も、大きく変わった。大都市への集中は緩和され、小規模な閉鎖都市への分散が進んでいた。
しかし、問題もあった。閉鎖都市間の格差だ。最新の技術を備えた都市は、快適だった。しかし、古い都市や、予算の少ない都市は、設備が不十分だった。
そして、閉鎖都市に入れない人々もいた。貧しい人々は、開放都市に住み続けた。そこでは、依然として感染のリスクがあった。
ある日、私は母のハルカを訪ねた。母は、今や七十代になっていた。引退して、穏やかに暮らしていた。
「ユウキ、元気そうね」
母は、笑顔で迎えてくれた。
「うん、何とかね」
私たちは、お茶を飲みながら話した。
「サクラも、立派な技術者になったわね」
「ああ、母さんのおかげだよ」
「いいえ、あの子の努力よ」
母は、窓の外を見た。
「私が若い頃、フォーラネグレリアが現れた時、世界が終わると思った」
「そうだったのか」
「でも、人類は生き延びた。適応した。新しい文明を築いた」
「うん」
「これからも、きっと大丈夫よ。人類は、強いから」
母の言葉は、私を励ました。
数週間後、私は国際会議に出席するため、シンガポールに行った。会議のテーマは、「災害時の水供給システム」だった。
各国の専門家が、経験を共有した。日本の南海トラフ地震、インドネシアの津波、アメリカのハリケーン。すべてが、水インフラに深刻な被害をもたらしていた。
会議で、新しい技術が紹介された。モジュール型水処理ユニットだ。これは、小型で可搬式の水処理装置で、災害時に迅速に配備できる。
「この技術があれば、災害時の水供給が大幅に改善されます」
開発者が説明した。
私は、この技術に興味を持った。日本でも、導入すべきだと思った。
帰国後、私は政府に提案した。モジュール型水処理ユニットの全国配備だ。提案は、承認された。
数年後、これらのユニットが、各地に配備された。そして、次の災害時には、大きな効果を発揮した。
二十年が経った。私は、六十代になっていた。そして、サクラは、施設の主任技術者になっていた。
サクラは、結婚して子供もいた。息子の名前は、ミズキ。母の私にとっては、孫だ。
ミズキは、まだ五歳だった。彼は、水を恐れながらも、好奇心旺盛だった。
ある日、私はミズキを連れて、博物館に行った。そこには、フォーラネグレリア感染拡大前の世界を再現した展示があった。
川で泳ぐ子供たち、湖でボートを漕ぐ家族、滝で水浴びをする人々。ミズキは、目を輝かせた。
「おじいちゃん、これ、本当にあったの?」
「ああ、本当だよ。昔は、こうだったんだ」
「すごい!僕も、やってみたい!」
「でも、今はできないんだ」
「どうして?」
「危ないからね」
ミズキは、残念そうだった。しかし、すぐに別の展示に興味を示した。
私は、考えた。ミズキの世代は、どんな世界で生きるのだろうか。
フォーラネグレリアとの戦いは、まだ終わっていない。しかし、人類は適応し続けている。新しい技術、新しいシステム、新しい価値観。
そして、いつか、また淡水と共存できる日が来るかもしれない。遺伝子治療の研究は、進んでいる。人間に耐性を与える技術も、開発されつつある。
それは、ミズキの世代、あるいはその次の世代になるかもしれない。しかし、希望はある。
私は、ミズキの手を握った。そして、思った。この子に、より良い世界を残したい。水を恐れなくていい世界を。
それが、私たち技術者の使命だ。そして、それは、人類全体の願いでもある。
その夜、私は妻のアヤコと話した。
「あの震災から、二十年経ったね」
「ええ。あっという間だったわ」
「多くのものを失ったけど、得たものもあった」
「何?」
「人々の絆。困難に立ち向かう力。そして、希望」
アヤコは、微笑んだ。
「そうね。人類は、強いわ」
私たちは、窓の外を見た。東京の夜景が、輝いていた。
この都市は、一度壊滅した。しかし、復興した。そして、以前よりも強くなった。
それは、人類の歴史の縮図だった。災害に遭い、苦しみ、そして立ち上がる。
フォーラネグレリアも、津波も、人類を滅ぼすことはできなかった。
なぜなら、人類は適応するからだ。変化に対応し、新しい解決策を見つける。
それが、人類の本質だった。
そして、私は信じている。人類は、これからも生き延び続ける。どんな困難が来ても。
なぜなら、私たちには希望があるから。そして、次の世代があるから。
サクラ、ミズキ、そして、これから生まれてくる子供たち。
彼らが、より良い世界を作るだろう。
水と共存できる世界を。
それが、私の願いだ。
そして、それは、きっと叶う。
いつか。




