貧しい村と一杯のおかゆと醤油瓶
村の中は、静かだった。
中央に小さな広場。
その周りに、低い木造の家がいくつか。
井戸と、壊れかけの掲示板。掲示板には、色あせた紙が何枚か貼られたまま風に揺れている。
「……思ったより、人が少ないな」
昼前だというのに、往来を行き交う人影は数えるほどしかない。
どの顔も、痩せていて、どこか疲れている。
広場の一角に、板を渡しただけの簡素な台が並んでいた。そこがどうやら市場らしい。
俺はシロを足もとにつけ、近くの露店へと歩み寄った。
「いらっしゃ……おや?」
粗末な布を頭に巻いた老人が、目を細める。
台の上には、歪な形の鍋がいくつかと、黒く錆びた鉄板の切れ端。そして、小さな袋に入った塩の山。
「鍋を探してまして。深めのやつ、ありますか?」
「あるにはあるが……」
老人は後ろを振り返り、ごそごそと何かを引きずり出してきた。
出てきたのは、深鍋。持ち手は片方が歪んでいる。
「昔、城下町から流れてきたもんだ。煮込みぐらいならまだ使える」
こつんと指で叩くと、意外としっかりした音が返ってきた。
「それだけできたら充分です。俺が使い倒しますよ」
「へっ……今どき鍋を“使い倒す”なんて言う奴がいるとはな」
老人は唇をゆるめた。
「で、いくらです?」
銅貨を指で弾いて見せると、老人はその数をちらりと見て、少しだけ目を丸くした。
「……まあ、古いしな。塩も付けて、銅貨3枚ってところか」
一瞬、計算する。
村までの往復。今後のことを考えたら、できれば値切りたいところだが――
この村の空気を見て、あまり強く出る気にはなれなかった。
「じゃあ、それでお願いします。塩、少し多めにしてくれると嬉しいんですけど」
「まかせとけ」
老人はにやりと笑い、布袋に塩をざっ、と掬い入れた。
思ったより、だいぶ多めだ。
「助かります」
「助かってるのはこっちだ。最近は鍋なんぞ買うやつもおらんからな」
そんな会話をしていると――
「その根っこ、本当に食べさせるのかい?」
少し離れた露店から、女の声が聞こえた。
そちらを見やると、小さな台の前に年配の老婆と、若い母親らしき女性が立っていた。
台の上には、細長い根菜と、見慣れない葉っぱの束。
俺は近づきながら、鼻をひくりと動かした。
(……嫌な匂いだな)
根菜の皮から、弱いが棘のような気配が漂っている。
瘴気の木ほどではないが、工夫せず食べると、腹は確実にやられる。
「これぐらいしか、安くで売ってやれるものはないが……これを食べたら腹を壊すかもしれないよ」
老婆が母親に言う。
母親の横には、小さな子どもがひとり。腕に抱かれたその顔は青白く、目の下にはうっすらと影が落ちていた。
「回復薬ももうなくて……少しでも何か食べさせてやりたいんです」
母親はそう言って、申し訳なさそうに笑った。
胸のあたりが、ちくりと痛む。
(これは、放っておけないな)
「あの、少しいいですか」
思わず声をかけていた。
「その根っこ、そのまま煮ると、仰るとおり、お腹を壊します。毒ってほどじゃないですけど」
老婆と母親が、同時にこちらを見る。
「でも、ちゃんと下ごしらえすれば、食べられます」
「下ごしらえ……?」
「ええ。よかったら、少し貸してもらえますか? 鍋も使っていいなら、その場でやってみせます」
言いながら、自分でも「何やってんだ俺」と思っていた。
でも、もう口は止まらなかった。
◇
広場の片隅。井戸のそばの空いている場所に、さっき買った鍋を置かせてもらう。
老婆は根菜と葉っぱをどさっと渡してくれた。
周りには、いつの間にか数人の村人が集まり始めている。
「じゃあ、やってみましょうか」
井戸から桶で水を汲み、鍋に入れる。
まずは根菜の皮を厚めに剥き、輪切りにする。
切るそばから、鼻を刺すような嫌な匂いがふっと弱まっていくのが分かった。
「皮と、この真ん中の筋の部分に、悪いのが溜まりやすいんですよ」
簡単な説明をしながら、鍋に水を張り、根菜を放り込む。
火は老婆が持ってきてくれた魔法石と、携帯用コンロを組み合わせて起こした。
沸騰したら、すぐに一度ゆでこぼす。
また水を替え、もう一度火にかける。
その合間に、母親に少し分けてもらった芋と、老婆が「これぐらいなら」と差し出してくれた干からびた穀物を刻む。
シロは少し離れた場所で、村の子どもたちに囲まれていた。
最初は怖がっていた子も、シロが腹を見せて寝転がると、恐る恐る手を伸ばす。
白い毛が、ちびちびと撫でられていた。
「シロは噛んだらしないから大丈夫だよ」
俺は鍋の様子を見ながら、火加減を少し弱めた。
二度目の茹でこぼしを終えると、根菜の匂いはだいぶマイルドになっていた。
今度は、芋と穀物を一緒に入れ、塩をひとつまみ。
ぐつぐつと煮込んでいくうちに、鍋から立ち上る匂いが変わっていく。
さっきまで喉をつついていた棘が消え、代わりに素朴な甘みのある香りが広がった。
俺は木の杓文字で鍋をかき混ぜながら、小さく息をついた。
(……よし。これなら、いける)
「ちょっと味見しますね」
椀に少し取り、ふうふうと息を吹きかけて冷ましてから、一口すする。
舌に広がるのは、素朴な芋の甘さと、根菜のほろ苦さが少し混ざった味。
さっきの嫌なえぐみは、もうほとんど残っていない。
「大丈夫そうです」
俺は笑って、母親に椀を差し出した。
「よかったら、お子さんに」
「で、でも……」
「俺が味見して平気だったんで。もし何かあったら責任取りますよ」
そう言うと、母親はしばらく迷ってから、そっと子どもの口元に椀を近づけた。
一口。
子どもはゆっくりと飲み込み、それからほんの少しだけ目を丸くした。
もう一口。
今度は自分から椀に口をつけた。
その様子を見ていた周りの大人たちが、息を呑む音がした。
「……どう?」
母親の問いかけに、子どもはかすかに頷いた。
「おいしい……」
か細い声だったが、それは間違いなく喜びの色を含んでいた。
そこから先は早かった。
老婆が「じゃあ、あたしも少し」と言い、鍋から椀にすくう。
続いて、他の村人も少しずつ分け合うようにしておかゆを口にした。
皆、一口飲むたびに、表情がほぐれていく。
冷え切っていた肩の力が、少し抜ける。
シロも、いつの間にかこちらに戻ってきて、尻尾をゆらゆら揺らしながらその様子を眺めていた。
(……やっぱり、飯ってのは、顔を変えるな)
そんなことを思いながら、俺も残りのおかゆを少し啜った。
◇
「いやあ、助かったよ。あの根っこ、どうにも扱いに困っててな」
鍋が空になった頃、さっきの道具屋の老人が近づいてきた。
周りの村人たちもうんうんと頷いている。
「こんなに体が温まる汁は、久しぶりだ」
「子どもが、おかわりを欲しがりました」
それぞれの声に、少しだけ明るさが戻っていた。
「大したことはしてないですよ。ちょっと下ごしらえ覚えれば、誰でもできます」
「いやいや、そういう“ちょっと”ができる人間が今いないんだ」
老人は笑いながら首を振り、それから、ふと思いついたように手を打った。
「そうだ。さっきの鍋代だがな」
「え?」
「さっき銅貨もらったろう。あれ、多すぎるよ」
「いえ、鍋に塩まで付けてもらいましたし」
「このスープのぶんまで入ってたなら別だがな」
にやり、と笑った老人は、近くの木箱をごそごそと漁り始めた。
「ええと、どこにしまったか……お、あったあった」
取り出したのは、小さな陶器の瓶だった。
色は少し濁った茶色で、蓋は布切れと紐で簡単に閉じられている。
「それは?」
「前に、城下町から流れてきた商人が売りつけていった調味料だ。気取った連中は“醤油”とか言ってたな。使い方がよく分からんから、ずっと奥にしまいっぱなしだった。もしかすると、あんたならうまく使ってくれるんじゃないかと思ってな」
醤油。
その言葉に、胸がびくんと跳ねた。
「ちょっと、匂い嗅いでもいいですか?」
「構わんさ」
そっと蓋を外し、瓶を鼻の近くに持っていく。
ふわりと上ってきたのは、あまりにも懐かしい匂いだった。
大豆が発酵した、あの独特の香り。
前の世界で、何百回と嗅いだ調味料の匂い。
「……マジか」
思わず素で呟いていた。
「なんだ、知ってるのか」
「ええ、まあ。これがあれば、煮物も焼き物も、もっと美味しくできますよ」
「ほう?」
老人は興味深そうに目を細め、それから瓶を俺のほうへ差し出した。
「だったら、持っていきな。この鍋の“お釣り”だ」
「いやいやいや、さすがにそれは」
「いいから。どうせ、俺たちは使い方も知らん。お前が今みたいな汁をまた作ってくれるなら、そのほうが村の得だ」
その言葉には、周りの村人たちも頷いていた。
「今度来るときは、これを使った料理を作ってくれよ」
そう言われてしまっては、受け取らないわけにはいかない。
「……分かりました。ありがたく、使わせてもらいます」
俺は深く頭を下げて、醤油の瓶を両手で受け取った。
手の中の小さな重みが、妙に心強く感じられた。
(これがあれば……芋も、干し肉も、もっとおいしくなるな)
頭の中で、いくつものレシピが一斉に目を覚ます。
醤油と砂糖で甘辛く煮た芋。
肉の照り焼き。
どれも、この世界ではまだ誰も知らない味だ。
◇
「それにしても……」
近くでスープの鍋を覗き込んでいた若い男が、ぽつりと言った。
「こんなに“普通の”飯、久しぶりだな」
「普通……ですか?」
「うちなんか、最近は栄養塊も買えやしない。あれ、一個で銅貨がいくつ飛ぶか、知ってるか?」
栄養塊。
王宮時代にも見たことがある、魔力と栄養をぎゅっと固めた、あの無機質な塊だ。
「貴族様と兵士様の口に入るぶんで、手一杯さ。俺たちみたいな端の村人には、滅多に回ってこない」
別の女が苦笑混じりに続ける。
「たまに余り物を分けてもらっても、味なんかあったもんじゃないしね。腹はふくれるけど、味のほうはぜんぜん」
「だから、こういう“味のする飯”は、本当に久しぶりだよ」
そう言って、男は名残惜しそうに空になった椀を見つめた。
その視線を見て、少しだけ胸がきゅっとなる。
前の世界で、こんな顔を何度も見てきた。
仕事帰りの会社員や、部活帰りの学生たちが、定食屋のカウンターで見せる、あの表情。
腹と一緒に、心が満ちたときの顔だ。
「なあ、兄ちゃん」
道具屋の老人が、少し遠慮がちに口を開いた。
「たまにでいい。森から来たついででいいから、またこういう鍋を一つ作ってくれんか」
その隣で、さっきの母親が続ける。
「材料なら、みんなで少しずつ持ち寄ります。芋でも、穀物でも……。お代も、少しなら出せますから」
周りの村人たちが、こくこくと頷いた。
「銅貨じゃ、料理人には笑われるかもしれないけど……」
「いや」
思わず遮っていた。
「笑いませんよ。むしろ、ありがたいです」
俺は苦笑して、手の中の醤油の瓶を見下ろした。
「こっちに来てから、料理でお金もらえるかどうか不安だったんで。材料出してもらえるなら、銅貨だって十分ですよ」
「じゃあ、決まりだな」
老人は嬉しそうに笑い、ぽん、と俺の肩を叩いた。
「森の向こうの料理人さんよ。またその白いの連れて、来ておくれ」
「はい。また来ます」
そう答えると、足もとでシロが「きゅう」と鳴いた。
村の子どもたちが「しろー」と手を振る。
シロは胸を張って尻尾を振り、少し偉そうな顔をした。
◇
買い出しを終えて、村の入口まで戻る。
「今日は本当に、ありがとうございました」
母親が深々と頭を下げる。
腕に抱かれた子どもは、さっきより頬にうっすら赤みが差していた。
「うちの子、久しぶりに『おいしい』って言いました」
「それは何よりです。また来たときにでも、作りますよ」
そう答えると、子どもがシロのほうを見て、小さく手を振った。
「しろーまたあそぼうね」
シロは「きゅう」と鳴き、尻尾をぶんと振って応える。
見張り台の兵士も、帰り際に軽く顎をしゃくってみせた。
「また来るなら、その鍋、長持ちさせろよ」
「はい。壊れるまで使います」
柵を抜け、森への道に足を踏み入れる。
背中のリュックには、新しい鍋と、少し多めの塩。
そして何より、小さな醤油の瓶。
ポケットには、村人たちからもらった、ほんの少しの銅貨。
横では、シロがうきうきとした足取りで歩いていた。
「なあ、シロ」
「きゅ?」
「今度村に行くときは、醤油を使った料理にしような」
シロはよく分かっていないだろうけど、それでも楽しそうに尻尾を振った。
森の空気は、相変わらず冷たく、ところどころに瘴気の硬い匂いが混じっている。
けれど、胸の中は不思議と軽かった。
もしかしたら、探せば料理を認めてくれる人たちはいるのかもしれない。
ささやかな期待を胸に抱きながら、俺は森の端のテントへと、足を進めた。




