黒紫の果実と、小さな感謝
それから数日。
森のはしっこの簡易テントは、少しずつ「生活の場」として整っていった。
シロは相変わらず布切れと戯れたり、俺が枝を組んでいるとその上に乗って軋ませたりと、ほとんど邪魔しているようにしか見えない手伝いを続けていたが、それでも彼(?)がそばにいると、不思議と作業がはかどる気がした。
火を使い続けるうちに、コンロの周りだけ、森の冷たい匂いが薄れていくような感覚もあった。
「あれ?」
ある日、ふと気づいた。
例の、瘴気の強い果実の木がある方向から吹いてくる風の匂いが、どこか以前と違っていたのだ。
前は刺すような感覚が強くて、鼻を近づける気にもならなかったのに、今は、刺々しさの向こう側に、弱い甘さが混じっている。
(気のせいか……?)
首をかしげる。
自分の鼻が鈍くなっただけかもしれない。
「シロ、お前どう思う?」
シロに向けて聞いてみると、シロは鼻をひくひくさせ、やはりあの木の方向を見て顔をしかめた。
でも、以前ほど露骨に尻尾を下げることはない。
嫌だけど、我慢できないほどではない、という顔だ。
「……うーん。よく分からん」
とりあえず、その日は近づかずにおいた。
数日目の昼前。
コンロに火をかけ、芋と干し肉のスープを煮込んでいるときだった。
あの気配が、また近づいてきた。
枝の上から覗く灰色の羽。
「今日も来たか」
心の中で苦笑する。
あれから、あのビビり鳥は何度か顔を出すようになった。
いつも、木陰や枝の上から、こちらとシロと鍋をこっそり覗き見する。
前のようにスープを置いてやれば、こっそり降りてきて食べる。
距離はあるが、もう完全な初対面ではない。
そんなビビり鳥の様子を眺めていたその日。
いつもと違うものが目に入った。
鳥のくちばしに、何かがくわえられている。
黒紫色の、小さな実。
見覚えのある色。
(……瘴気の実だな)
俺の背筋に、うっすら寒気が走った。
「おいおい」
思わず声が漏れる。
鳥はその声にびくっとし、木の枝の上でバランスを崩しかけた。慌てて翼を広げて踏みとどまり、くちばしの実はぎゅっと強く咥え直される。
怖い。
でも、離さない。
その目には、前とは違う種類の必死さが浮かんでいた。
シロも、鳥のくわえている実に気づいたのか、小さく唸って俺の足もとに寄ってきた。
「落ち着け」
とりあえず、俺は手を挙げてみせる。
「食べるなよ。そのまま食べるのは、やめとけ」
鳥は、言葉が分かるのか、くちばしの実を咥えたまま、じっと動きを止めた。
鍋の火を弱め、俺はゆっくりと鳥のほうへ一歩近づく。
いつもならすぐに逃げていくのに、鳥は逃げなかった。
代わりに、枝の上で小さく体を震わせていた。
(……いつもと違うな。なにか伝えたいことがあるのか?)
「おいで」
出来るだけやわらかい声で言う。
鳥はすぐには動かなかった。
けれど、少しずつ、少しずつ枝を歩いて、木の幹のほうへ近づいていく。
幹をつたい、地面に降りる。
くちばしの先の実は、しっかりと咥えられたまま。
俺と鳥の間には、まだ距離があった。
たぶん、鳥のほうからすれば、「これ以上は近づきたくない」限界地点。
その位置で止まり、鳥はぎゅっと目を閉じた。
それから、くちばしをほんの少しだけ俺のほうへ突き出す。
「……それ、俺に預けたいってことか?」
独り言のように呟く。
鳥は答えないかわりにくちばしを縦に振った。
「分かった。預かるよ」
ゆっくりと近づき、鳥のくちばしから、問題の実をそっと受け取る。
触れた瞬間――
指先に、びりっとした感覚が走った。
さっき遠くから嗅いだときの「刺す匂い」が、今度は手のひらの内側に直接流れ込んでくるような感覚。
(……やっぱり、普通じゃなさそうだな)
俺は小刀を取り出し、テントの横の調理台へと戻る。
「シロ。近づくなよ」
シロは心配そうにこちらを見ていたが、「分かった」というように一歩だけ下がった。
実を台の上に置き、半分に切る。
刃が皮を割った瞬間、ぷつり、と手応えがあった。
中から、ねっとりとした濃い紫の果汁がじわじわとあふれ出して、木の台の上に一筋の筋を描く。
光の加減で、その筋が黒にも赤にも見えた。
鼻を近づけると、さっきまでの棘みたいな刺激の奥から、熟れきった果実の、重たく甘い匂いが立ちのぼってくる。
(きっと、味は悪くないんだよな……もったいない)
このままじゃ毒だが、どう考えてもおいしい果物の匂いだ。
「よし、なら引き出してやろう」
俺は鍋をもう一つ出し、小さめの片手鍋に水を少し張った。
そこへ、さっきの実の半分を試しに皮ごと割り入れる。
コンロの端に乗せて火をつけると、水面にゆっくりと紫色が広がっていった。
最初に立ち上がった蒸気は、やっぱり刺々しい。喉の奥をちくりと引っかくような匂い。
けれど、火を落として弱火にし、ぐらぐら煮立たせず、鍋の縁がふつふつ言うくらいの温度でじわじわ煮ていくと――
その棘が、少しずつ角を丸めていくのが分かる。
湯気の中の刺激が薄れ、その代わりに、煮詰まったぶどうみたいな、素直な甘さが混じり始めた。
頃合いを見て火を止め、柔らかくなった実を取り出して布の上にのせる。
指先でそっと摘まむと、皮は指の圧でぱん、と弾けて、ゼリーみたいな果肉がとろりとあふれた。
冷めたところで皮と種を外し、舌触りのいい中身だけを鍋に戻す。
今度は水をほとんど足さず、砂糖を足し少しだけ火を強めた。
木べらで底から大きく混ぜてやると、果肉が鍋肌にまとわりつきながら、とろり、とろりと厚みを増していく。
空気に触れた表面はつやつやと光り、さっきより一段暗い紫に落ち着いた。
ふわっと鼻先をくすぐる香りは、もうさっきの「刺す匂い」じゃない。
よく煮たベリージャムに、少しだけ黒蜜を混ぜたような、落ち着いた甘い匂いだ。
「……よし、こんなもんか」
とろみが木べらからゆっくり垂れるくらいになったところで火を止める。
木べらの先に少しだけ付いた果肉を指でつまみ、ほんの少しだけ舐めてみた。
最初に舌に触れた瞬間、かすかに残っていた渋みが、すぐにまろやかな甘さに変わる。
口いっぱいに広がるのは、熟した黒い実の濃い風味と、ほんの少しの酸味。
飲み込むと、喉の奥から胸のあたりにかけて、じんわりと熱が広がった。
(おお……これは、体に効きそうだ)
冷えた体の内側からぽかぽかしてくる。
そんな種類の甘さだ。
もちろん、まだ油断はできない。
これは俺の体にとっての感覚だ。
鳥にとってどうかは、試してみないと分からない。
「さて」
俺は、さっきまでビビり鳥が使っていた小さめの椀を取り出し、底に黒紫の果肉をひろげた。
熱すぎると舌をやられるので、鍋から少しだけ取り分けて、風に当てて温度を落とす。
「お前の実だ。試してみるか?」
振り返ると、鳥は少し離れた位置でじっとこちらを見ていた。
さっきより、震えは少しだけ収まっている。
俺はテントから少し離れた、地面の平らな場所に椀を置き、またコンロのそばに戻った。
シロが心配そうに椀と鳥を見つめている。
しばらくの沈黙。
やがて――
鳥がそろそろと椀に近づいた。
椀の縁にくちばしを近づけ、匂いを嗅ぐ。
その瞬間、鳥の目が一度だけ見開かれた。
次の瞬間には、短く震えを走らせ、それから恐る恐る果肉にくちばしを差し込んだ。
大きく息を吐き、もう一口。
もう一口。
椀の底がうっすら見えるほどになったところで、鳥の動きがふと止まった。
名残惜しそうに椀の中を覗きこみ、残った果肉をじっと見つめる。
それから、おもむろに椀の縁をくちばしでつまみ、ぐい、と持ち上げようとした。
当然、椀は重すぎて動かない。
かちゃり、と空しく土の上で音を立てるだけだ。
「……持って帰りたいのか?」
思わず呟くと、鳥はびくりと肩を震わせた。
それでも椀から目を離さない。
くちばしをちいさく鳴らして、もう一度、今度は中身をすくうようにしてみるが、粘り気のあるコンポートはうまく乗らず、ぽとりとまた椀の中へ落ちてしまった。
何度か同じことを繰り返してから、鳥はしょんぼりと尾羽を落とした。
その姿は、「諦めた」というより「諦めたくないけどどうしようもない」と言っているみたいだった。
「……ちょっと待ってろ」
俺はテントのそばに積んであった大きな葉を一枚取り、内側を軽く拭ってから手のひらの上で折りたたむ。
舟のような形になるよう、端をきゅっと指で留めた。
さっきの鍋から、コンポートをひとすくい。
葉っぱの舟の中に、ころん、と丸く落とし入れる。
冷めて少し固くなってきているおかげで、形は崩れない。端をくくり、袋状にする。
「こぼすなよ」
鳥のほうへ歩いていき、しゃがみ込んで、葉っぱを差し出す。
鳥は驚いたように目を見開き、それからおそるおそる首を伸ばした。
葉の端を、そっとくちばしでつまむ。
体格のわりに、信じられないくらい慎重な動きだった。
葉の袋がぷらりと揺れるたびに、鳥は足を踏ん張り、バランスを取り直す。
それでも最後まで落とさず、しっかりと咥え直した。
ちら、と俺の顔を見る。
何かを確かめるような視線。
「大事なやつに、分けてやれ」
そう言うと、鳥の尾羽がふるふると揺れた。
それから彼は、葉っぱの舟をくわえたまま、森の奥へと飛び立っていった。
その日、夕方近くになって、俺は水を汲みに、近くの小川まで降りていった。
森の斜面を慎重に下り、根の張った木々の間を抜けると、細い流れが見えた。
そこで水を汲み、ふと顔を上げる。
少し離れた場所に、低い木の枝が広がっていた。
その枝の間に、草と枝で作られた巣がある。
灰色の小さな羽毛が見えた。
さっきのビビり鳥と同じ色をした、小さな雛だ。
まだうまく立てないらしく、巣の中で丸くなっている。
その横に、例の鳥がいた。
巣の縁に止まり、くちばしで雛の頭をそっと撫でている。
その足もとには、黒紫の果実の皮と、葉っぱの袋だったものの名残が、くしゃりと潰れて散らばっていた。
(……あーなるほどな)
鳥は、俺の気配に気づいたのか、ぱっとこちらを見た。
一瞬、緊張が走る。
けれど、俺が何もしないでただ立っていると、鳥はほんの少しだけ視線を柔らかくした。
そして、巣の中の雛に向かって、葉っぱの舟に残っていたらしい甘い果肉を、丁寧についばんで食べさせていく。
(さっきのは、試し食いだったわけか)
自分でまず毒見をして、
いけると分かってから、雛に食べさせる。
俺は、気づかないふりをして、そっと水袋を肩に担ぎ直した。
そのまま、小川を背にして、森のはしっこの自分のテントへと戻る。
斜面を登りかけたところで、ばさ、と羽音がした。
さっきの灰色の影が、前方の枝にひらりと降り立つ。
距離は近い。
鳥は一度だけ、深く頭を下げた。
それから、ぎゅっと目を閉じて――
「……アリガ、ト」
たどたどしい、人間の言葉。
聞き慣れたあいさつの形をしているのに、少し濁っていて、かすれていて、それでもはっきりと意味が分かる。
「……おお」
思わず声が漏れた。
鳥は顔を上げて、こちらを一瞬だけ見つめると、恥ずかしそうに翼をすぼめる。
「どういたしまして」
俺がそう返すと、鳥の尾羽が、さっきよりも大きく揺れた。
それから彼は、夕方の森へ向かって飛び立っていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺は肩の水袋を持ち直した。
(……こうやって、『ありがとう』が一つ増えていくなら)
ここで飯を作るのも、悪くない。
そんなことを思いながら、テントへ戻る足を少しだけ軽くした。




