ビビリ鳥の来訪
翌朝、目を覚ましたとき、いちばん先に視界に入ったのは、白いもふもふの背中だった。
シロは俺の腹の上で丸くなったまま、すぴー、と小さな寝息を立てている。毛並みは昨日よりもつやが出てきて、つつきたくなるくらいふわふわだ。
「……重くはないけど、動けないんだよなあ」
そっと息を吐きながら、空を見上げる。
頭上には、町を出る前に道具屋で買った折りたたみ式のテントの内側が広がっていた。布地は少し薄いが、防水加工がしてあるらしく、ところどころに付いた露をはじいている。
前世でキャンプ用品店で見かけたような代物だが、こっちは魔法だか職人技だかで、骨組みが妙に軽いくせに丈夫だ。
(こういう道具が普通に売ってるあたり、冒険者文化は発達してるんだよな、この世界)
心の中でそんなことを考える。
テントの入口のほうには、同じく町で買った折りたたみ式の簡易コンロが置いてある。
火の魔法石を原動力として使用するあたり、異世界という感じがする。
「シロ、ちょっとだけ退いてくれ」
腹の上の毛玉にそっと声をかける。
シロは耳をぴょくんと動かし、片目だけ開けた。まだ眠そうだ。
ほんの一拍だけこちらを見てから、「しょうがないなあ」という顔で、むにゃっと横に転がる。俺の脇腹に頭を押しつけて、また丸くなった。
「ありがと」
そっと体を起こすと、テントの外から、ひんやりした朝の空気が入り込んできた。
森の朝は静かだ。鳥の声も、虫の声も、どこか遠い。
「さて」
立ち上がり、テントの入口の布をめくって外へ出る。
昨日はとりあえずテントを組み立てて寝られるだけの状態にしたが、まだ足りないものはいくらでもある。
コンロの周りは土むき出しだし、鍋や椀も地面に直置きだ。
「もう少しだけ、片づけるか。あと机も欲しいな」
つぶやきながら、周囲を見回す。
太めの枝を切って四本脚にし、板代わりになりそうな平らな木片を見つけてきて紐でくくりつける。
ぎし、と頼りない音を立てながらも、なんとか腰の高さくらいの台ができた。
「お、思ったよりちゃんとしてる」
自画自賛しながら、鍋を乗せてみる。少しぐらつくが、倒れるほどではない。まな板を置けば、それなりの調理スペースになる。
その間、シロはというと──
「……お前はどうして、そこにいるかな」
振り返ると、いつのまにかテントの中から引きずり出された寝袋代わりの布が、ずるずると地面の上を進んでいた
その先端には、布をくわえて小さな体で全力で引っ張るシロ。
「それ、俺の布団だから。持っていかない」
慌てて布の反対側を踏み、シロと軽い綱引きになる。
きゅーきゅーと文句を言いながらも、シロは口を離さない。目をきらきらさせている。たぶん、ただ遊んでいるだけだ。
「分かった分かった。こっちの小さいほうあげるから」
荷物の中から、予備で持ってきた薄い布切れを取り出し、くしゃくしゃっと丸めて投げてやる。
ぽふ、と地面に落ちた布切れに、シロはぱっと飛びついた。
前脚で押さえつけて、鼻先を突っ込み、ころころ転がす。新しいおもちゃを手に入れた子どものようだ。
さっきまで引きずられていた寝袋布は、その隙に元の場所へ戻す。
「ふう……」
ひと段落ついたところで、周囲を眺める。
森の端っこに、ぽつんと立つ簡易テント。
その前に置かれた折りたたみコンロと、手作りの小さな調理台。
荷物を置くスペースも、少しだけ整えた。
まだ土だらけで、快適とは言いがたいが、それでも「ただの野営」から少しだけ「生活できる場所」に近づいた気がした。
「よし。あとは……看板は、まだいいか」
さすがに看板を立てても、文字が読める魔物がどれだけいるか分からない。
「さて、今日は何作ろうかな」
朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
昨日の残りの干し肉と乾燥野菜はまだ少しある。だが、そろそろ新しい食材を探したいところだ。
シロを見ると、布切れと格闘したあと、息を切らしながらこちらを見上げた。
「シロ。散歩がてら、ちょっと森の様子見に行くか」
声をかけると、ぱあっと顔が明るくなる。
尻尾をぶんぶん振りながら、てててて、と足もとに駆け寄ってくる。その勢いのまま、俺の足に額をぶつけてきた。
「はいはい。行こうな」
頭を軽く撫でてやり、包丁と小刀、それから護身用のピストルもどきと空の袋を持って森の中へ足を踏み入れた。
森の中は、相変わらず不思議な匂いがした。
湿った土。枯れ葉。樹皮。
その奥に、鉄とも薬品ともつかない、冷たい匂い。
――これが瘴気、ってやつなんだろうな、とぼんやり思う。
普通なら人間が好んで歩くような場所ではないのだろう。けれど、ここで暮らしていくなら、慣れるしかない。
グラードが教えてくれた道筋をたどり、比較的安全だというエリアを歩く。
「この辺の木は近づくな。実に瘴気が溜まりやすい」
昨日、そう言われた木が、遠くに見えた。
他の木より幹が黒っぽく、枝ぶりも妙にねじれている。枝の先には、紫がかった黒い実がいくつもぶら下がっていた。
見た目からして、あまり食べたいとは思わない。
「念のため、匂いだけ……」
あまり近づきすぎないようにしながら、すん、と鼻を鳴らす。
刺すような匂いが、一瞬、喉の奥をなぞった。
甘いような、酸っぱいような、でもその向こう側に、棘のような感触がある。
(……これは、だめだな)
魚でも肉でも、触れただけで「あ、これは危ない」と感じるものがある。
そういう直感は、だいたい当たる。
「シロ、こっちは近づかないほうがいいぞ」
振り返ると、シロはすでに後ろで尻尾を下げていた。
さっきまで元気に走り回っていたのに、この木に近づくときだけ、足どりが慎重になる。鼻をひくひく動かし、顔をしかめているようにも見えた。
「お前の鼻でも、嫌な匂いか」
シロは小さくきゅっと鳴き、それから俺の足の影に隠れた。
近づきたくない感情は、どうやら共通らしい。
「よし、じゃあ今日は別のとこ」
森の奥へ進み、グラードが「ここはまだマシだ」と言っていたエリアへ向かう。
そこには、小さな木の実や、低い場所に生える草がいくつもあった。
シロが土をほりほりし始めた場所を見てみると、浅いところに細い根菜が顔を覗かせていた。
「お、芋か?」
掘り出してみると、細長い、腕ほどの長さの芋がいくつも出てきた。
これを集めれば、少しは腹の足しになるだろう。
「よく見つけたな。偉いぞ」
頭を撫でると、シロは得意げに胸を張った。
しばらく森を歩き回り、食べられそうな木の実や草、根菜を少しずつ袋に詰めていく。
危うい匂いのするものは避ける。
そうして数時間ほど歩き回ったところで、太陽の位置からして、そろそろ昼前だと分かった。
「一度戻るか」
袋の重さを確かめながら、森の入口――簡易テントのある場所へと戻る。
テントの前に戻ってまずしたのは、コンロに火を入れることだった。
「よしよし」
鍋に水を張り、今日集めてきた芋と草を少し入れる。残りの干し肉も、半分だけ使うことにした。
まずは自分とシロの分の、いつものスープ。
それが終わったら、余裕があれば、何か新しいものも試してみたい。
芋を洗い、皮ごと鍋に放り込む。少しえぐみは出るかもしれないが、煮込めば甘みが勝つだろう。
火を弱め、じわじわと温度を上げていく。
鍋から立ち上る湯気に、森の中の冷たい匂いが少しずつ押し出されていくような感覚がした。
(……やっぱり、火と鍋があると落ち着くな)
そんなふうに思っていたときだ。
ふと、背中のほうで気配がした。
昨日、グラードたちが現れたときとは、少し違う。
大きな圧はない。
代わりに、葉っぱが擦れるような、小さな、慎重な気配だ。
「……誰かに見られてるな」
鍋をかき混ぜながら、気配だけを追う。
視線の主は、テントから少し離れた低い枝の上にいた。
体長は、シロより少し大きいくらい。
灰色がかった羽毛。長い尾羽。大きめの黒い目。
鳥だ。
けれど、普通の鳥より頭が大きく、眼差しには妙な知性がある。
そのくせ、枝にとまる足は小刻みに震えていた。
こっちが少しでも視線を向けると、すぐに葉の陰に隠れる。半分だけ顔を出して、また引っ込む。その繰り返し。
(……分かりやすいな)
ビビりだ。
だが、逃げはしない。
鍋から立ち上る匂いに、明らかに惹かれている。
シロもすでに気づいているのか、尻尾をぴょこぴょこと揺らして鳥のほうを見ていた。
「お前も食べるか?」
俺は、枝の上の鳥に向かってそう声をかけた。
当然、返事はない。
代わりに、鳥はびくんと跳ねるように体を震わせ、それからさらに枝の影に顔を隠した。
(まあ、そりゃそうか)
俺はそれ以上は何も言わず、スープ作りに戻った。
鍋の中で芋が柔らかくなり、干し肉から出た旨味がスープに溶け出していく。香草代わりに、森の中で見つけた香りの良い葉をちぎって入れると、ふわりと香りが変わった。
味見。
(うん。今日も悪くない)
木の椀に二人分――俺とシロの分――をよそい、少し冷ましてから、テントの屋根の下で腰を下ろした。
「はい、シロ」
小さい椀に、具を細かくしたスープをよそって差し出すと、シロは鼻をひくひくさせてから、嬉しそうに啜り始めた。
その様子を横目で見ながら、自分の椀を持つ。
一口。
暖かいスープが喉を滑り落ちる。先ほどの芋は煮込んだことにより、とても甘く口の中で解けていく。オーブン的なものが手に入ったら、これでスイートポテトなんて作るのも良いかもしれない。
しばらくは自分とシロの食事に集中し、それからふと枝のほうを見る。
ビビり鳥は、まだそこにいた。
相変わらず枝の陰から半分だけ顔を出しているが、さっきよりもこちらをじっと見ている。目が、明らかに「食べたい」と言っていた。
でも、降りてはこない。
近づきたいけど怖い、という感情が全身から溢れている。
俺は、空になった自分の椀を見下ろし、それから鍋へと視線を移した。
スープは、まだ少し残っている。
「よし」
俺は立ち上がり、鍋から小さめの椀にスープを一杯よそった。
それを、テントから少し離れた場所――鳥が飛び降りればすぐ届く位置――にそっと置く。
そして、なにごともなかったかのようにテントに戻り、シロと一緒に座った。
鳥のほうは見ない。
しばらくして。
枝の上で、わずかな気配が動いた。
ためらいがちに、鳥が枝から飛び降りる音がする。
土を踏む小さな足音。
椀のそばで足が止まり、しばらくじっとしている気配。
匂いを嗅いでいるのだろう。
それから――
ちゅ、と小さな音。
一口啜ったのだ。
俺は、ちらりとだけ視線を向けた。
鳥の目が、驚いたように丸くなっていた。
もう一口。
もう一口。
最初は恐る恐るだった動きが、次第に少しだけ大胆になる。
羽が小さく震え、尾羽がこくりと上がる。
シロが羨ましそうにその様子を見て、尻尾をふるふる揺らした。
「お前の分は食べたろ」
頭をぽんと撫でてやると、シロは「もっと」という顔をして鳥のほうに行こうとするので、膝上に抱き抱える。
椀が空になる頃には、鳥の体からこわばりが少し抜けていた。
だが、鳥はすぐにはこちらを見なかった。
椀から顔を上げると、一度だけ森の奥のほう――この場所とは反対の方向――を見やった。
その仕草が、妙に気になった。
(……誰か、待ってるのか?)
そう思った瞬間、鳥ははっとしたように翼を震わせ、慌てたように椀から離れた。
そして、逃げるように森の奥へ飛び去っていった。
枝の隙間から、その後ろ姿が一瞬だけ見えた。
くちばしには、さっきまでスープを飲んでいた椀の底に残っていた小さな芋の欠片が、しっかりと咥えられていた。




