白影の交渉と、小さき影
森の奥に浮かぶ光る目は、三つだった。
ひとつは、高い位置。
大人の背丈より、さらに上。
残りの二つは、少しだけ低い。
じっと、こちらを見ている。
(……うん、がっつり魔物領だな)
自分で選んで来たくせに、改めて実感すると、ちょっとだけ後悔する。
足もとでは、白いもふもふが小さく唸っていた。
さっきまでスープを飲んでとろけそうな顔をしていたくせに、今は全身の毛が少し逆立っている。
「大丈夫、大丈夫」
そう言いながらも、俺は包丁の柄を握ったままだ。
戦えるわけじゃない。
ただ、素手よりはマシだという、気休めだ。
向こうも、すぐには出てこない。
こちらの様子をうかがっているのか。
それとも、タイミングを計っているのか。
やがて――
木々の間の影が、ゆっくりと動いた。
暗がりから出てきたのは、四足の大きな獣だった。
ぱっと見、狼に近い。
だが、俺の身長より高く、白い毛並みは、足先に向かうほど銀色に変わっていき、背中には薄く灰色の模様が走っていた。
なにより目だ。
琥珀色の瞳。
森の半暗がりの中でも、そこだけははっきりと光を宿している。
その左右に、もう二体。
同じ種族らしい、少し小さめの個体が控えていた。どちらも白と灰の毛並み。さっきのもふもふ――この子と同じ、系統なのかもしれない。
大きな個体が、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
足音は、驚くほど静かだ。
葉一枚揺らさずに近づいてくる感じが、正直、ちょっと怖い。
俺は無意識に、足もとのもふもふを庇うように一歩前に出た。
琥珀の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
威圧感。
でも、殺気はない。
(……やっぱり護衛の1人くらい雇うべきだったか?いや、でも道中ご飯を作るたびにまたあの目を向けられると思うと)
沈黙が、数呼吸分、続いた。
俺と、大きな獣と、白いもふもふ。
鍋からは、まだかすかにスープの香りが立ち上っている。
先に口を開いたのは――獣のほうだった。
「……人間」
低く、よく通る声だった。
口の動きは獣のそれなのに、発せられた言葉は、俺にとって馴染みのあるものだった。召喚されたときに、この世界の言語は頭に入れられている。そこだけは神に感謝してもいい。
ただ、獣が喋ると思っていなかった脳が、処理を拒否した。
「喋った……」
間抜けな声が出てしまう。
獣――いや、この場合は「彼」と呼ぶべきだろうか。白毛の巨躯は、俺の反応をじっと観察していた。少しだけ、その目に興味の色が宿る。
「驚かれているな」
「そりゃ、はい……」
俺はゆっくり、包丁から手を離した。
同じくゆっくり、両手を軽く上げて見せる。
「ええと。敵意はないです。ただの料理人です」
なんだその自己紹介、と思いつつ、他に言いようもなかった。
白い獣は、すっと視線を足もとに落とす。
俺の足に半分くっつくようにして座っている、白いもふもふ。丸い顔でこちらと向こうを交互に見ている。
その姿を見た途端、獣の目に浮かんだ色が、鋭さから別のものへと変わった。
安堵。
そして、ほんの少し瞳が緩む。
「……そこにいる子を、傷つけるつもりは?」
「あると思います?」
即答すると、自分で言っていて少し可笑しくなる。
白い獣は、ほんの一瞬だけ目を見開き、それから――ほんの少しだけ口角を上げた。
獣が笑った、ように見えた。
「そうだな。ないな」
低い声に、僅かな柔らかさが混じる。
「それならば、まずは礼を言おう、人間」
彼はゆっくりと頭を下げた。
その動作は、あまりにも自然で、そして――妙に、人間くさかった。
「その子に食べ物を与えてくれた。命をつないでくれた。それに対し、この地の長として、礼を言う」
「……長?」
思わず聞き返す。
彼は顔を上げ、少し誇らしげに胸元の毛を揺らした。
「我ら白影の群れ、その長。グラードと呼ばれている」
「グラードさん……」
無意識に「さん」を付けてしまったが、本人は気にした様子もない。
白影の群れ。
おそらく、目の前のもふもふも、その一員なのだろう。
グラードは、再び足もとの子に視線を落とした。
もふもふは、彼を見上げ、きゅう、と短く鳴いた。尻尾が一度、大きく揺れる。
「元気になったな、小さき影よ」
低い声が、ほんの少しだけ甘くなる。
その声音を聞いて、俺は内心、少し安心した。
(ああ、この人――いや、この魔物か――この子のこと、すごく大事なんだな)
そう思える響きだった。
「ここ数日、その子の気配が薄くなっていた。森の見張りが、倒れているのを見つけたときには、もう、ほとんど……」
言葉を濁し、グラードは目を細める。
「だが、匂いが変わった」
「匂い?」
「そうだ」
琥珀の瞳が、俺と鍋を順番に見た。
「この辺りに、今までなかった匂いがした。水と、火と、肉と、草と。よく混ざった、柔らかい匂いだ」
(……ああ、スープか)
干し肉と乾燥野菜の、ささやかな香り。
それを辿ってきたのだとしたら――この長は、なかなかに鼻が良い。
「我らはしばらく様子を見ていた。人間が、この子を害するつもりなら、止めなければならなかったからな」
「見てたんですか」
「見ていた」
即答だった。
ちょっと恥ずかしくなる。スープを作って、もふもふに向かって「ほら、ゆっくりな」とか言っていたところも、全部見られていたのだろう。
(うわ……)
顔に出ていたのか、グラードが首をかしげた。
「何か、まずいことをしたか?」
「いえ。なんでもないです」
過去の自分を思い返して勝手に恥ずかしくなっているだけなので、説明のしようがない。
代わりに、俺は話を戻すことにした。
「ええと、この子は……やっぱり、あなたたちの仲間なんですよね」
「ああ」
グラードは静かにうなずく。
「我らの群れでも、ひときわ小さく、生まれつき力の弱かった子だ。だが、その血は濃い」
「血?」
「我ら白影は、ただの獣ではない」
そう言うと、彼はゆっくりと森の方角を振り向いた。
遠く――霧がかかったように白く煙る樹々の向こうから、微かな風が吹き抜けてくる。
「森の匂いが、分かるか、人間」
「え?」
言われて、俺も鼻をすん、と鳴らしてみる。
湿った土。
草。
樹皮。
それから、よく分からない鉄みたいな、冷たい匂い。
「ここは、人間の土地ではない。魔物のための土地だ」
グラードの声は淡々としているが、そこには長としての責任のようなものが滲んでいた。
「瘴気とやらで忌避されがちだが、この地もまた、生きている。腐っているわけではない。生と死が行き交い、形を変え続けている」
彼は、その場にすっと座った。近くで見ると、本当に巨大だ。正直、彼が本気で突っ込んできたら、ひとたまりもないだろう。
「その流れを、少しだけ静め、整える役目が、我ら白影だ。森の中の力が暴れすぎぬよう、行きすぎたものを食らい、弱りすぎたものを守る」
「……森の、管理人、みたいな?」
ぽろっと出た言葉に、グラードがわずかに目を瞬かせた。
「管理人、とは?」
「ええと、その……全体を見て、バランスを取る人、みたいな」
うまく説明できない。けれど、彼は少し考え、それから短く「ふ」と笑った。
「人間の例えは、面白いな。そうだな。近いかもしれん」
そして、足もとの小さなもふもふに、優しい視線を向ける。
「この子は、その中でも、とりわけ強い血筋に生まれた。だからこそ、狙われやすくもある。特に幼い間はな」
強い血筋。狙われやすい。
軽く言っているが、なかなか重い単語だ。
俺の足に寄りかかっているもふもふは、本人だけが事情を知らない顔をしている。たぶん、半分くらいは分かっているのかもしれないけれど。
「……さっきまで倒れてたんですけど、ただただ怪我してるとかじゃなく、腹ペコ状態なだけでしたよ?」
思わず口を挟んでしまう。
「血筋がなんであれ、腹が減れば倒れるんじゃないですか」
グラードが、わずかに目を細めた。怒ったのではない。むしろ、感心したような色が浮かんだ。
「確かに。お前の言うとおりだ、人間」
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「だからこそ、礼を言ったのだ。その子に食べ物を与えたお前は、この森にとっても恩人だ」
「恩人は言いすぎですよ。ただの通りすがりの料理人です」
「通りすがり、か?」
グラードの琥珀色の瞳が、もう一度、鍋と簡易かまど、それから周囲に干してある食材に向けられた。
「通りすがりにしては、腰を落ち着ける気配があるが」
「……バレてました?」
「この森を見てきた目からすれば、一目で分かる」
グラードは、わざとらしく肩をすくめて見せた。獣のはずなのに、その仕草が妙に人間臭い。
「人間。名は」
「あ、はい。ユウです」
「ユウ」
彼はもう一度、俺の名を確かめるように口にし、それから静かに頷いた。
「ユウ。お前は、この場所で何をするつもりだ」
ストレートな問いだった。
どう答えるかは、もう決まっている。
「……飯屋をやろうと思ってます」
口に出してみると、自分で思っていたよりも、その言葉はしっくりと胸に収まった。
「大層なことはできません。魔王を倒すとか、世界を救うとか、そういうのは無理ですが」
包丁を握ってきた手を見下ろす。
「ここに来たやつが、腹を満たして、ちょっとだけ『ああ、今日も生きられるな』って思えるくらいの飯を出したいです」
それが、前世でやっていたことで。
それ以上のことは、たぶん、俺にはできない。
グラードは、しばらく黙って俺を見ていた。
沈黙。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「この場所で、か」
「……ダメですか?」
「いや」
短い否定。
「我としては、むしろ望ましい。これからちょうどその交渉をしようとしていたところだったからな」
「え?」
意外な返事に、思わず間の抜けた声が出る。
「腹を満たした者は、無闇に争わぬ」
グラードは、ゆっくりと言葉を重ねる。
「この森で最も危険なのは、力ではなく、『飢え』だ。飢えた者は、分別を失う。弱きも強きも、何もかもを噛み砕こうとする」
その言葉には、経験から来る重みがあった。
「お前のような存在が、この出入口にいるのなら、森の奥で無駄な血が流れることも、少しは減るだろう」
「……入口、か」
言われてみれば、ここは森の手前だ。人間の領域と、魔物の領域の境目。
「だが、一つだけ」
グラードの声に、少しだけ硬さが混じった。
「この子――」
俺の足もとで、もふもふがきゅっと鳴く。自分のことだと分かっているらしい。
「――この子のことは、軽い気持ちで受け取らぬほうがいい」
琥珀の瞳が、少しだけ鋭さを増した。
「すでに言ったように、その血は濃い。この森の行く末に関わるほどに」
「……重いですね」
正直な感想が出てしまう。
「重い。この子が近くにいることで、お前が傷つくこともあるかもしれん」
あっさり認められた。
「だが、お前の飯は、この子の生まれ持ってしまった重さを少し和らげると見た。できればこれからもそばに置いてやってくれないだろうか」
視線が足もとに落ちる。
いつの間にか、もふもふはとことこ歩いてきて、俺の足の間に丸まっていた。尻尾だけが、ぽよん、と揺れている。
さっきまでの警戒はどこへ行ったのか。
完全に「ここが安全な場所」と認定している顔だ。




