空腹のもふもふと、鍋の音
王都を離れ、しばらくは普通の街道が続いた。
行き交う商人。旅人。荷馬車。ときおり兵士の一団。道端には畑が広がり、農民たちが額に汗して働いている。前世の田舎道を思い出して、少し懐かしくなった。
けれど、歩き続けるうちに、景色は少しずつ変わり始めた。
畑が消える。
家が減る。
代わりに、背の高い木々が増えていく。
空を覆うようにせり出した枝。葉の色は濃く、ところどころ紫がかっている。樹皮には見慣れない苔や、きのこらしきものが張り付いていた。
鳥の声が少なくなり、その代わりに、正体の分からない鳴き声が森の奥から聞こえてくる。獣の唸りとも、金属音ともつかない、不思議な響き。
足もとの土は、黒い。
湿っているのに、どこか痩せほそっている匂いがした。
(おお……いかにも、だな)
地図に赤く塗られていた領域に近づいているのだろう。
背負い袋が、肩に食い込む。中身は最低限にしたはずだが、長時間歩くと、どんな荷物でも重く感じるものだ。
「はあ……」
思わず、声が漏れた。
(歩いたくらいでこんなに疲れるなんて、年だなあ……いや、見た目は若返ってるんだけど)
前世では三十半ば。いまの身体は、異世界召喚の恩恵なのか分からないが、それより若くなっているはずなのに、疲労感だけはあまり変わらない。ちょっと理不尽だ。
それでも足を止めなかったのは、足を止めても誰も助けてはくれないからだ。
歩いて、歩いて――
さすがに限界を感じ始めた頃だった。
視界の端で、白いものが動いた気がした。
いや、動いたというより、転がっている。
俺は足を止め、その白いものに目を凝らした。
地面に倒れていたのは、小さな、白いもふもふだった。
「……犬?」
思わずそう呟く。
いや、犬にしては、耳が大きい。三角形の耳は立っているのに、先だけが少し垂れている。丸い顔に、ふさふさの毛。尻尾は太く、まるで綿飴をねじったみたいに、もこもこしていた。
毛は本来、雪のように白いのだろう。けれど今は、土と枯葉にまみれて、ところどころ灰色に汚れている。
近づいて、しゃがみ込む。
目は閉じている。まつげが驚くほど長い。犬というより、ぬいぐるみか何かに見えた。
そっと腹のあたりに手を添える。
――薄い。
毛の下は、骨ばっていた。
肋骨の一本一本が分かるくらいに。
それでも、かすかに上下している。
息はしている。
「……腹ペコか」
口に出した瞬間、胸の奥がきゅっとした。
前世でも、何度か見た光景だ。
金がなくて、食うものがなくて、ふらふらになって店の前に倒れ込んでくる学生。顔色が悪いのに「大丈夫です」と笑って、白米だけかき込もうとする客。
あのときも俺は、考えるより先に、鍋を火にかけていた。
(……変わらないなあ、俺)
苦笑しながら、背負い袋を下ろす。
中身は質素だ。
硬く干した肉。前もって薄く切って干しておいた野菜。小さな鉄鍋と、木の椀。塩が少々。
でも、それだけあれば、スープくらいは作れる。
周囲を見回し、風の通りが少ないくぼみに町を出る前に買った簡易コンロを置く。そして、動力源である火の魔法石をそこに入れた。
(……おぉ、火がついた)
炎ってやつは、世界が変わってもあまり変わらない。
赤くて、暖かそうで、見ていると少しだけ安心する。
鍋に水を張り、コンロの上に置く。
干し肉を取り出し、指でちぎる。硬い。だが、湯に浸せば戻る。
ぽちゃん、と水面が揺れる。
すぐに強火にはしない。弱めの火で、じわじわと水温を上げていく。急に沸騰させると、肉が固くなってしまうからだ。
水面の縁に、小さな泡がぽつぽつと現れ始める。肉の周囲に、薄く白い膜のようなものが浮かぶ。
ふわり。
肉の匂いが、ほんの少し立ち上った。
次に、乾燥野菜の袋を開ける。
薄く切った根菜と葉物、それから豆類を一掴み。色は地味だが、火を通せばちゃんと甘みが出る。
ぱらぱら、と鍋に落とす。
すぐに沈んだものもあれば、水面に浮かんだままのものもある。やがて、どれもふくらみを増し、色を取り戻していく。
湯気が立ち上り始めた。
草のような青い香りと、肉の香ばしさが混じる。
さっきまで鉄臭かった空気が、ほんの少しだけ「台所」の匂いになった気がした。
ごぽ、ごぽ。
鍋の中で、湯が静かに動く音がする。
そのときだ。
足もとで、かすかな気配がした。
見ると、さっきまでぴくりとも動かなかった白い鼻が、ひくひくと震えている。
「……分かるか。飯の匂い」
返事はない。
けれど、その鼻先は鍋のほうを向いていた。
俺は火を少し弱める。これ以上強くすると、具が煮崩れてしまうし、何より熱すぎるスープは、弱った身体にはきつい。
塩をひとつまみ。味見用の木匙で、スープをすくって口に含む。
舌に広がるのは、干し肉の素朴な旨味と、戻った野菜の甘み。それから、火にかけた時間の分だけ出る、柔らかさ。
(うん。ちゃんと飯だ)
俺は鍋を火から下ろし、少し冷ます。
木の椀を取り出し、スープと具をよそう。肉は匙の背で軽くつぶして、小さくしておく。喉に詰まらせたら元も子もない。
「おーい」
白いもふもふのそばにしゃがみ込み、声をかける。
まだ目を開ける気配はない。俺は椀をそっと口元に近づけ、スープを少しだけ傾けた。
一滴が、唇に触れる。
ぴくり。
小さな舌が動いた。
次の瞬間、白い頭がぐいっと椀に突っ込んできた。
「うおっ……!」
あやうく椀を落としそうになりながら、慌てて支える。スープがこぼれないように、角度を調整する。
ちゅ、ちゅ、ちゅ。
小さな音を立てて、もふもふは夢中でスープを啜った。具も一緒に飲み込み、時々むせそうになりながらも、止まらない。
「おいおい、落ち着け。まだあるから」
そう声をかけながら、俺の口元は自然と緩んでいた。
最後の一滴まで舐めると、もふもふはふらりと身を引き、その場にぺたんと座り込んだ。
目が、ゆっくりと開く。
黒くて大きな瞳。縁に、うっすら涙が溜まっている。
そして――
ふさふさの尻尾が、ぶん、と揺れた。
もう一度。
もう一度。
まるで、「美味しかった」と言っているみたいに。
「……そうだな。飯ってのは、こういう顔を見るために作るんだ」
誰にともなく呟く。
言葉は通じない。
でも、腹が満たされた生き物の顔は、世界が違ってもそう変わらない。
もふもふは、よろよろと立ち上がり、ふらふらとこちらに歩いてきたかと思うと、俺の足に額を押しつけてきた。
ぐりぐり。
「お、おお」
バランスを崩しそうになりながらも、笑ってしまう。
(……連れてくしかないよなあ、これは)
ため息半分、納得半分で、俺は空になった椀を置いた。
鍋の中には、まだ少しスープが残っている。自分の分としては、十分だ。
腹を満たし、熱を飲み込んで、背筋が伸びる。
王宮では、俺の作る飯は「効率が悪い」と言われた。
ここでは、目の前の一匹の命をつなぐのに、役に立った。
それだけあれば、十分だ。
「よし」
自分に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「ここで、飯屋をやろう」
誰も文句を言わない。
誰も「効率が悪い」と言わない。
勝手に鍋をかけて、勝手に味を決めて、勝手に食わせる。
それで文句を言うやつは、ここにはいない。
白いもふもふ――いつまでも「お前」呼びはなんだから、そのうち名前も考えよう――は、意味も分からないくせに、嬉しそうに尻尾を振った。
そのときだった。
カサ、と。
背後の茂みが、わずかに揺れた。
風は吹いていない。
さっきまで、そんな音はしなかった。
視線を感じる。
毛穴が、ひやりとする。
ゆっくり振り返ると、木々の隙間の暗がりに、何かの影が見えた。
丸い。大きい。
目だけが、わずかに光っている。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ――
(……ああ、そりゃそうか)
匂いにつられてきたのは、こいつだけじゃない。
ここは魔物領の入り口。
森の奥には、たぶん、たくさん「客候補」がいる。
足もとで、さっきまでのんびりしていたもふもふが、小さく「くぅ」と鳴いた。警戒の色が混じった声。
「大丈夫だ」
思わず、背中越しにそう言っていた。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど――
鍋の横に立ち、俺は腰に差していた包丁に、そっと手を伸ばした。




