雪のない世界
冬と呼ばれる季節は、もう存在していなかった。
暦の上では年の終わり、けれど街の空気は春と変わらない温度で保たれていた。
降らない雪のかわりに、気象庁は「白の記憶デー」という祝日を作った。
人々はその日にだけ、仮想空間で再現された雪を見に行く。
冷たくも濡れもしない、データでできた雪。
僕らの時代の冬は、そんなふうにして存在していた。
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僕と君が出会ったのは、その“白の記憶デー”の準備会議だった。
記憶保存企業。
過去の感情や風景を仮想化し、失われた自然を再構築する会社だ。
僕はエンジニアで、君は体験設計士。
銀の髪と赤い瞳の僕を見て、君はふっと笑った。
「冬みたいな人ね。少し寂しくて、でも綺麗」
それが君の第一声だった。
その言葉が、なぜだか胸の奥に懐かしく響いた。
会った瞬間に、もう知っていたような気がした。
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昼休み、君は窓際の椅子に座り、タブレットで雪のデータを見ていた。
光の粒子がゆっくりと降る。
「見たこと、ある?」と君が訊く。
「ないよ」
「私もない。けどね、雪って“静けさの形”なんだって」
「静けさの形?」
「うん。世界の音を一度止めて、人の心の音だけ残すの」
君の言葉に、心がわずかに震えた。
その震えは、昔どこかで感じたものに似ていた。
春の花の匂い。
夏の潮騒。
秋の紅葉の炎。
その全部が、君の声に重なった。
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数ヶ月後、プロジェクトが完成した。
名前は《雪のない世界で、雪を降らせる》。
場所は地上300メートル、ガラスで囲まれた展望ドーム。
制御された白の粒子が、永遠に降り続ける。
僕と君はテストのために現地へ行った。
「本番みたいね」
君が言い、僕は笑ってうなずいた。
ドームの中は透きとおるように白く、風の音が微かに流れていた。
足元の床は透明で、都市の夜景が底に沈んでいる。
君の金の髪が光を受けて揺れ、緑の瞳が反射で青く染まる。
世界に雪はなかった。けれど、その光景は確かに“冬”だった。
「ねえ、君」
「うん」
「これが最後のプロジェクトになったら、どうする?」
「また君と何か作るよ」
「……そうじゃなくて、仕事じゃなくて」
君は小さく息をつく。
「もし人生の最後だったら?」
僕は少し考えて言った。
「君に、伝えたいことがある」
「なに?」
「それは、雪が降ったら言う」
君が少し笑った。
「この世界に、雪なんて降らないのに」
「それでも、降るかもしれない」
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僕はポケットの中で、小さな箱を握りしめていた。
透明なリング。
古い時代の婚約指輪を再現した、デジタルデータの象徴。
君に見せたかった。
そして言いたかった。
――何度でも死んで、何度でも君を愛してきた、と。
だが、神はいつも、間に合う直前で世界を傾ける。
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その夜、冷却装置の誤作動が起きた。
静かな警報音が鳴る。
「なに?」君が振り返る。
床のガラスが微かに震え、白い粒子の流れが乱れる。
次の瞬間、光の層が裂け、視界の端でひびが走った。
「下がって!」僕は叫び、君を抱き寄せる。
透明な床が崩れ、空気が一瞬、消える。
体がふわりと浮き、無音の世界へ落ちていく。
重力が戻るまでの数秒が、永遠みたいに長かった。
君が腕の中で息を呑む。
「君……」
「大丈夫、僕が――」
言い終える前に、背中に強烈な衝撃。
視界が白に反転する。
痛みの向こうに、君の声が聞こえた。
「君、どうしていつも庇うの?」
「それが……僕の癖だから」
「もう……いいのに」
君の指先が、僕の頬に触れる。
冷たくて、やさしかった。
「雪、降ってる」
君がそう呟いた。
見上げると、制御装置の破片が空に舞っていた。
蒸気が冷え、白い粒子となって落ちてくる。
それは確かに、雪だった。
この世界で初めて降る、本物の雪。
「君、見て。叶ったよ」
君の声が震える。
僕は笑って、震える手で小箱を開く。
中のリングが、雪明かりを受けて光る。
「言わせて……」
「うん」
「僕は君を――」
言葉の途中で、息が途切れた。
冷たい空気が肺に届かない。
身体の中で何かが静かに止まる。
君が泣いていた。
涙が雪に溶け、頬を伝う。
「また、会える?」
「もちろん……」
声にならない声で、唇を動かす。
雪が降り続ける。
君が僕の手を握り、額を寄せた。
その温もりだけが、確かな現実だった。
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事故のあと、白の記憶デーは新しい意味を持った。
――“本当に雪が降った日”。
人々はその年から、空を見上げて祈るようになった。
でも僕は知っている。
あの日、雪を降らせたのはシステムの故障なんかじゃない。
君の願いだった。
そして、僕らの約束だった。
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「君、聞こえる?」
「うん。もう少しで、また会えるね」
白い世界が静かに閉じ、
次の季節が遠くで息をした。




