表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
巡り愛  作者: 北西みなみ
2/5

蝉の終わり

風が塩を含んでいた。

 港町に近い高校の坂道を登るたび、潮の匂いが汗といっしょに肌へまとわりつく。白いシャツが背に張りつき、日差しが屋上のトタンを焼いて、あちこちから蝉が鳴いた。

 僕と君は同じクラスで、席は窓際で隣り合っていた。

 君は金の髪を肩のあたりで結び、光の向きで色を変えた。緑の瞳はどんな角度でも澄んで、笑うたびに夏の光がそこへ集まった。僕はノートに落ちる影を見ながら、何度もペンを止めた。


 放課後、部活の音が廊下に流れる。

 君が机を軽く叩いて言う。

 「海、行こう。今日みたいな日は、波がいい音をする」

 僕は教科書を閉じ、肩をすくめる。「宿題は?」

 「君と見るなら、宿題より大事」

 そう言って、君は笑った。

 それで、全部どうでもよくなった。


 自転車を並べて走る。

 坂を下る風は熱く、けれど心地よかった。君のスカートが風に膨らみ、金の髪がなびく。ハンドルの先に青い海が見えた。

 海岸では、潮が光りながら寄せていた。砂は白く、海の色は夏の午後そのもの。君が靴を脱ぎ、裸足で波打ち際を走る。

 「君、こっち!」

 僕も追いかけ、足元で波が跳ねる。二人の影が砂に伸び、波がそれをさらっていく。世界は青と金の二色でできていた。


 夕方、堤防に腰を下ろした。

 風が冷たくなり、潮の匂いが濃くなる。

 君が指で空をなぞる。「ねえ、覚えてる?春の時も桜を見たね」

 僕はうなずく。

 前世の記憶なんてあるはずがないのに、その言葉が自然に胸へ落ちた。

 「桜も海も、君と見ると同じ匂いがする」

 「それはたぶん、君の心がそう作ってるんだよ」

 君が笑う。

 その笑顔を見て、僕は初めて“愛しい”という感情を理解した。


 七月の終わり、君が「夏のバカンスに来て」と誘った。

 君の家は海辺の別荘を持つ富豪の家だった。白い石壁、広いテラス、噴水の音。玄関で執事が深く頭を下げる。

 「すごいな」僕が呟くと、君は笑って手を取る。

 「君が来てくれたから、ここがやっと家になった」


 夜、テラスで花火をした。

 小さな火花が君の指の間で弾け、金色の髪を照らす。

 君が僕を見て言う。

 「君、手が冷たいね」

 「君のせいだよ」

 笑い合って、夜風が頬を撫でた。

 そのまま、火花の光の中で、自然に唇が重なった。

 世界の音が一度止まり、波の音だけが遠くで響いた。



 翌朝の空気は静かすぎた。

 昼を過ぎても風がない。

 執事が不安げに門の方を見ていた。

 「どうしたんですか?」と聞くと、「警備の者が戻らない」と言う。

 海の匂いに混じって、鉄の匂いがした。

 重い空気が胸を圧した瞬間、ガラスの割れる音がした。


 ――強盗だ。


 叫び声。重い足音。男たちが覆面で押し入り、銃口が光った。

 君の悲鳴が廊下を裂く。

 僕は反射的に君を背に庇う。

 「押し入れに隠れて」

 「嫌。君と一緒がいい」


 時間が、粘つくように遅くなった。

 怒鳴り声が遠くで響く。

 窓から差す光が歪んで、埃が宙に浮いた。

 心臓の音が、身体の中で暴れる。

 刃物の鈍い光が見えた瞬間、僕は君を抱き寄せた。

 肩口に焼けるような痛み。

 熱が血に変わる。世界が赤く滲んだ。


 君が叫ぶ。「やめて!」

 銃声。鼓膜が割れ、音が消える。

 君の髪が頬にかかる。目の前が白く光った。


 床に崩れた僕を、君が抱きしめた。

 「君、やだ、行かないで」

 僕は息を吸う。海の匂いと血の匂いが混ざる。

 指先で君の頬をなぞる。涙が落ちて、塩の味がした。

 言葉を探す。でも、言えるのはひとつだけだった。

 「大丈夫」

 君が首を振る。「嘘つき」


 強盗たちの影が遠のく。

 僕は君を抱いたまま、視界の端に夕焼けを見た。

 空が赤く染まり、波がきらめく。

 「きれいだね」と君が言う。

 「うん」と僕は答える。

 それが最後の会話になった。


 光が細くなり、呼吸が浅くなる。

 身体が冷えていくのがわかる。

 君の腕が震えながら僕を抱きしめる。

 「また、会える?」

 「必ず」

 そう言って、僕は目を閉じた。


 ――静寂。

 風が戻り、カーテンが揺れる。

 海の向こうで雷が鳴った。

 やがて君の声が、耳の奥でかすかに響く。


 「掬ってくれたね」


 その言葉といっしょに、意識が波の底へ沈んでいった。

 手を伸ばしても、もう君には届かない。

 でも、不思議と恐くはなかった。

 だって、知っていた。

 また君に会う。

 何度死んでも、またきっと――夏の光の中で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ