蝉の終わり
風が塩を含んでいた。
港町に近い高校の坂道を登るたび、潮の匂いが汗といっしょに肌へまとわりつく。白いシャツが背に張りつき、日差しが屋上のトタンを焼いて、あちこちから蝉が鳴いた。
僕と君は同じクラスで、席は窓際で隣り合っていた。
君は金の髪を肩のあたりで結び、光の向きで色を変えた。緑の瞳はどんな角度でも澄んで、笑うたびに夏の光がそこへ集まった。僕はノートに落ちる影を見ながら、何度もペンを止めた。
放課後、部活の音が廊下に流れる。
君が机を軽く叩いて言う。
「海、行こう。今日みたいな日は、波がいい音をする」
僕は教科書を閉じ、肩をすくめる。「宿題は?」
「君と見るなら、宿題より大事」
そう言って、君は笑った。
それで、全部どうでもよくなった。
自転車を並べて走る。
坂を下る風は熱く、けれど心地よかった。君のスカートが風に膨らみ、金の髪がなびく。ハンドルの先に青い海が見えた。
海岸では、潮が光りながら寄せていた。砂は白く、海の色は夏の午後そのもの。君が靴を脱ぎ、裸足で波打ち際を走る。
「君、こっち!」
僕も追いかけ、足元で波が跳ねる。二人の影が砂に伸び、波がそれをさらっていく。世界は青と金の二色でできていた。
夕方、堤防に腰を下ろした。
風が冷たくなり、潮の匂いが濃くなる。
君が指で空をなぞる。「ねえ、覚えてる?春の時も桜を見たね」
僕はうなずく。
前世の記憶なんてあるはずがないのに、その言葉が自然に胸へ落ちた。
「桜も海も、君と見ると同じ匂いがする」
「それはたぶん、君の心がそう作ってるんだよ」
君が笑う。
その笑顔を見て、僕は初めて“愛しい”という感情を理解した。
七月の終わり、君が「夏のバカンスに来て」と誘った。
君の家は海辺の別荘を持つ富豪の家だった。白い石壁、広いテラス、噴水の音。玄関で執事が深く頭を下げる。
「すごいな」僕が呟くと、君は笑って手を取る。
「君が来てくれたから、ここがやっと家になった」
夜、テラスで花火をした。
小さな火花が君の指の間で弾け、金色の髪を照らす。
君が僕を見て言う。
「君、手が冷たいね」
「君のせいだよ」
笑い合って、夜風が頬を撫でた。
そのまま、火花の光の中で、自然に唇が重なった。
世界の音が一度止まり、波の音だけが遠くで響いた。
⸻
翌朝の空気は静かすぎた。
昼を過ぎても風がない。
執事が不安げに門の方を見ていた。
「どうしたんですか?」と聞くと、「警備の者が戻らない」と言う。
海の匂いに混じって、鉄の匂いがした。
重い空気が胸を圧した瞬間、ガラスの割れる音がした。
――強盗だ。
叫び声。重い足音。男たちが覆面で押し入り、銃口が光った。
君の悲鳴が廊下を裂く。
僕は反射的に君を背に庇う。
「押し入れに隠れて」
「嫌。君と一緒がいい」
時間が、粘つくように遅くなった。
怒鳴り声が遠くで響く。
窓から差す光が歪んで、埃が宙に浮いた。
心臓の音が、身体の中で暴れる。
刃物の鈍い光が見えた瞬間、僕は君を抱き寄せた。
肩口に焼けるような痛み。
熱が血に変わる。世界が赤く滲んだ。
君が叫ぶ。「やめて!」
銃声。鼓膜が割れ、音が消える。
君の髪が頬にかかる。目の前が白く光った。
床に崩れた僕を、君が抱きしめた。
「君、やだ、行かないで」
僕は息を吸う。海の匂いと血の匂いが混ざる。
指先で君の頬をなぞる。涙が落ちて、塩の味がした。
言葉を探す。でも、言えるのはひとつだけだった。
「大丈夫」
君が首を振る。「嘘つき」
強盗たちの影が遠のく。
僕は君を抱いたまま、視界の端に夕焼けを見た。
空が赤く染まり、波がきらめく。
「きれいだね」と君が言う。
「うん」と僕は答える。
それが最後の会話になった。
光が細くなり、呼吸が浅くなる。
身体が冷えていくのがわかる。
君の腕が震えながら僕を抱きしめる。
「また、会える?」
「必ず」
そう言って、僕は目を閉じた。
――静寂。
風が戻り、カーテンが揺れる。
海の向こうで雷が鳴った。
やがて君の声が、耳の奥でかすかに響く。
「掬ってくれたね」
その言葉といっしょに、意識が波の底へ沈んでいった。
手を伸ばしても、もう君には届かない。
でも、不思議と恐くはなかった。
だって、知っていた。
また君に会う。
何度死んでも、またきっと――夏の光の中で。




