21 手のひらの温度
時計の針が午後四時を指す、少し前。
廊下の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてきた。
今日は、昨日よりもさらに速いような気がする。
(ほんと、毎日着実に速くなってるな)
このままいけば、俺が退院する頃には陸上部から勧誘されるようになるかもしれない。
……まあ、本人は俺に会うため以外にその脚力を使う気はないだろうけど。
足音が病室の前で止まり、ノックの音が二度鳴る。
「黒瀬くんっ!」
ノックとほぼ同時に扉が開き、白石が病室へ、いや、ベッドへ飛び込んできた。
「今日はちゃんとノックできたよ!! えへへ、えらい……?」
肩にかかっていたはずの鞄はいつの間にか消えており、よく見れば病室の端っこに放り投げられている。
遠慮なく抱き着いてくる白石の頭を雑に撫でながら、俺はいつも通りの疑問を口にした。
「今のノックに意味はあったのか?」
「えっ!? あ、あったよ!! ちゃんと二回は叩いたもん……!」
「叩きながら開けるのはノックじゃないだろ」
「うっ……で、でも、昨日よりは成長したと思うの!!」
白石が、ありもしない胸を張って主張してくる。
ノックをしないことを正当化するために謎の悟りを開いていた頃と比べれば、確かに大きな成長ではある(かもしれない)。
「そうだな。偉い偉い」
「ほ、ほんと? えへへ……♪」
軽く褒めただけなのに、白石は満足そうに頬を緩める。
ひとしきり撫でられて満足したのか、白石は名残惜しそうに俺から腕を解いた。
「それより、今日はまた随分早かったな」
「あ、そうなの!! あのね、昨日よりもっと黒瀬くんに早く会いたくて、今日はチャイムが鳴る前から鞄を持って待機してたの!! チャイムが鳴ってからは全力ダッシュで……!!」
…………。
「それ、まだホームルーム中だろ……」
図星を突かれたというように、白石の肩がびくっと跳ねる。
「だ、大丈夫だよ!! 先生にはバレないように机の下で……うん、バレてない……たぶん」
「そういう問題じゃない」
「あ、あぅ……ごめんなさい」
叱られたと思ったのか、白石がしゅんと肩を落とす。
別に本気で怒ったわけではないが、このまま放置していると、明日は授業が終わる前に学校から脱走しかねない。
それ自体はいいが、それで白石が怒られたり、結果的に白石が嫌な思いをするのは避けたかった。
「まあ、そこまで急いで来てくれるのは悪い気しないけど。怪我したら意味ないんだから、ほどほどにしろよ」
「……!?」
白石が勢いよく顔を上げた。
「い、今……嬉しいって言った……?」
「嬉しいとは言ってないけどな」
「私が早く会いに来ると、黒瀬くんも嬉しいの……?」
「話聞いてないなこいつ。……そりゃまあ、毎日待ってるわけだしな」
「ま、待ってる……!?」
白石の顔が一瞬で真っ赤になる。
そのまま口元を両手で覆い、もじもじしたあと――急にまた抱きつこうとしてきた。
「黒瀬くん……っ!」
「おい、だからいきなり抱きつくなって」
「うぅ……だって、待っててくれたって……!」
静止するように手を出すと、白石は飛びつく寸前でどうにか踏みとどまった。
しかし行き場を失った両手は、そのまま俺の病衣の裾を掴んでいる。
「毎日来るって分かってるんだから、そりゃ待つだろ」
「そ、それでも嬉しいの……っ! 黒瀬くんに待っててもらえるの、すごく好き……」
「待たれることが好きって、変な奴だな」
「ち、違うもん! 黒瀬くんが私のために待っててくれることが好きなの!」
「はいはい」
「もうっ、ちゃんと分かってよぉ……!!」
まあ、実際は分かっている。
分かっているからこそ、反応が面白くてわざと雑に返しているだけだ。
白石は不満そうに頬を膨らませながらも、俺の服から手を離そうとはしない。
そのまま数秒ほど俺を見上げていたが、やがて何かを思い出したようにはっとすると、鞄のところへ戻っていった。
「あっ、そうだ! 今日も黒瀬くんにお弁当作ってきたの!」
「うん、ありがとう。さっきぶん投げてたみたいだけどな」
「……はっ!!」
俺の言葉に、白石は慌てて鞄を開き、中を覗き込む。
どうやら、弁当の中身を確認しているらしい。
「崩れてない……よかったぁ……」
安心した白石が、鞄の中から弁当箱を取り出す。
今日の弁当箱も、昨日とは別のものだった。
「はい、黒瀬くん。今日も頑張って作ったから……食べてくださいっ!」
「ありがとな」
「……うんっ」
白石から弁当箱を受け取る。
その瞬間、互いの指先がほんの少しだけ触れた。
「~~っ」
白石の手が、分かりやすく跳ねる。
弁当箱から離れたあとも、その指を胸元へ引き寄せて、じっと見つめている。
「……どうした?」
「えっ!? な、なんでもないよっ……!?」
「いや、かなり挙動不審だけど。指、火傷でもしたのか?」
「ち、違うの! 大丈夫、大丈夫だから……!」
白石は明らかに動揺した様子で答えると、両手を背中に隠した。
……いったい、なんなんだろうか。
弁当箱に熱いものが入っている様子もないし、火傷したわけではなさそうだ。
さっき一瞬見えた指先はいつも通り綺麗で、怪我をした様子でもない。
白石はそのまま俺の隣へ座ったが、やはり落ち着きがない。
膝の上で両手を握ったり開いたりしながら、何度もこちらを見てくる。
「……?」
「……」
「なんだよ本当に……」
「ひゃっ!? な、なにもないです……!」
目が合った途端、白石は勢いよく顔を逸らした。
しかし、少しするとまたこちらをちらちら見てくる。
正確には――俺の顔ではなく、弁当箱を持っている手を。いつも俺の顔ばかりを見てくるからか、その違いはあまりに分かりやすかった。
(……手?)
そういえば、さっき指が触れた時に一番妙な反応をしていた。
……さらに思い返してみると、昨日の添い寝でも、白石は俺の手に自分の手を重ねていた。
あの時はただ触れていただけだったが、白石にとってはそれだけでも相当なことだったらしい。
帰る直前まで顔を赤くして、何度も自分の手を見ていたのを覚えている。
(……なるほど、そういうことか)
大体分かった気がする。
「……」
けれど、本人が何も言わないうちから叶えてやるのも面白くない。
これまでならともかく、今の白石は少しずつ自分から甘えられるようになっているし。
……そう、これは意地悪ではない。
せっかくなので、ちゃんと言葉にしてもらおうと思っただけだ。
「なぁ、白石」
「は、はいっ!? なんでしょう黒瀬くん……っ!?」
「さっきから、俺の手ばっかり見てるけど」
「うぇっ!?」
言うなり、白石の体が固まった。
顔が耳まで赤くなり、口が何度か開閉する。
「みっ……ミテナイ、ヨ……?」
「見てただろ。片言になってるし」
「っ、ち、違うの! 見てたっていうか、その……そう、たまたま視界に入ってただけで……!!」
「ふーん。俺の手を視界に入れるために、わざわざ顔を動かしてた気がするけど」
「う……!」
図星を突かれたのか、すぐに言い逃れを諦めて俯く白石。
膝の上で指を絡め、何かを言おうとしては……止める。
「何かしてほしいことがあるなら、言ったらどうだ?」
「えっ……」
白石が恐る恐る顔を上げる。
「い、いいの……?」
「まあ、そりゃ内容によるけど。聞く前から駄目とは言わない」
「……っ」
その言葉に勇気を得たのか、白石は一度だけ大きく息を吸って……いや、三度くらい吸ってから、続けた。
「あ、あのね……昨日……添い寝した時に……」
「うん」
「私、黒瀬くんの手に……自分の手、重ねたでしょ……?」
「ああ、重ねたな」
「くっ、繰り返さないでよぉ……! ……それが、その……すごく、嬉しくて……」
白石はそこで一度言葉を止めた。
頬を真っ赤にしながら、何度もこちらと自分の手を見比べている。
「それでね、家に帰ってからも、それをずっと思い出してて……お風呂に入ってる時も、ご飯食べてる時も、ベッドに入ってからも……ずっと、黒瀬くんの手のこと考えてて……大きかったなぁとか、意外とゴツゴツしてて、頼もしかったなとか……」
「なるほど、一日中俺の手のこと考えてたのか。風呂でもベッドでも」
「~~っ、そんな言い方しないでよぉ……っ! なんか私、すごく変な人みたいじゃん……!!」
「違うのか?」
「ちがっ……わない、かもしれないけど……だって、黒瀬くんのことだから仕方ないもん……」
……こいつ、何でも俺を理由にすれば許されると思っていないだろうか。
まあ、実際今のところは全部許しているので、俺も白石のことは言えないけど。
「それで?」
「うぅ……はい。だから、その……昨日は、ただ手を重ねただけだったから……」
白石の声が徐々に小さくなっていく。
最後には聞き取れないほどになり、完全に俯いてしまった。
「聞こえない」
「~~っ」
「白石」
「わ、分かってるよぉ……! いま言おうとしてるの……!!」
白石が真っ赤な顔で抗議する。
そして何度か深呼吸を繰り返したあと、意を決したように顔を上げた。
「く、黒瀬くんと……手を……」
また言葉が止まる。
白石の顔は、既に限界まで赤い。
しかし、逃げることはせず、震える唇で言葉を紡いだ。
「手を、繋ぎたい……です……っ!」
言い切った瞬間、白石は両手で顔を覆った。
「~~~っ、言っちゃった……! うぅ、恥ずかしい……っ!」
……。
……えぇ?
「いや、今さら手を繋ぐくらいでそんな恥ずかしがるか??」
「は、恥ずかしいよぉ!! だって、黒瀬くんと……大好きな人と手を繋ぐんだよ!?」
「この前、俺の膝の上で抱きついたまま寝てただろ」
「あれとこれとは違うの!! あれも恥ずかしくて幸せだったけど、だからって手繋ぎが恥ずかしくないわけじゃないの!!」
「添い寝もしたよな」
「それも違うもんっ!!」
「耳も散々――」
「それはもっと違うからぁ!!」
白石が顔を覆ったまま叫ぶ。
俺には、その違いがよく分からないけど……接触の度合いだけで言えば、手を繋ぐ方が圧倒的に軽いはずなのだが。
「……それに、手を繋ぐのって……なんか、特別っていうか……」
指の隙間から、白石がこちらを見る。
「こ、こい…………好きな人とすること、って感じがするから……」
「へえ。じゃあ俺は、白石の好きな人なんだ」
「えっ!? な、なんで今さらそこ確認するの!?」
「いや、言わせたいだけだけど」
「~~っ、もー!! 好き!! 大好きなの! 黒瀬くん以外の人と手を繋ぎたいなんて一回も思ったことないもんっ!」
恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、白石が一気にまくし立てる。
病室へ来て間もない頃なら、このあと自分の発言を思い返してさらに悶えていただろう。
しかし今は、顔を赤くしながらも俺の目を逸らさず、続きを待っている。
……本当に、少しずつ素直になったものだ。
「知ってるよ」
「うぅ、ずるい……だったらいじわるしないでよぉ……」
……いつもなら「ならもう意地悪はやめようか?」なんて追撃を加えるところだが……今日はもう、十分頑張っただろう。
「けど、ちゃんと言えたな。偉いよ」
「……っ」
白石が目を見開く。
そして、すぐに嬉しそうに表情を緩めた。
「……うん。言えた……」
「じゃあ、はい」
俺はずっと持っていた弁当箱を机へ置き、白石の前へ右手を差し出した。
手のひらを上へ向け、白石が取りやすい位置で止める。
「…………えっ?」
「繋ぎたいんだろ?」
「い、今……!?」
「今じゃなきゃいつするんだよ」
「そ、そうだけど……っ、こ、心の準備が……!」
「さっきからずっと準備してただろ」
「言うための準備と、実際に繋ぐための準備は別なのぉ……!! むしろ言っただけでもとっくに限界を迎えてて……っ」
白石は差し出された手を前に、明らかに混乱していた。
手を伸ばしかけては引っ込める。
俺の手と顔を何度も見比べ、そのたびに顔を赤くする。
…………。
「……じゃあ、やめるの?」
「やっ、やめない!!」
これには即答だった。顔をぶんぶん振りながら、必死に俺の目を見つめて訴えてくる。
「絶対やめないから、そのままにしてて……!」
「……はいはい」
俺は差し出した手を動かさずに待つ。
白石は自分のスカートで何度か手のひらを拭いたあと、また慌てたようにその手を確認する。
「ま、待って……手汗かいてないかな……? 私の手、変じゃない……?」
「汗くらい別に気にしないけど」
「黒瀬くんが気にしなくても私が気にするの……! ……けど、気にしないって言ってくれた……」
今度は鞄からハンカチを取り出し、念入りに手を拭き始めた。
……一体、手を繋ぐだけでどれだけ準備するつもりなのだろうか。
それからしばらくして、ようやく覚悟が決まったらしい。
白石の右手が、ゆっくりと俺の手へ近づいてくる。
「あ……っ」
最初に、指先だけが触れた。
触れた瞬間、白石の肩がびくっと跳ねる。
それでも今度は手を引かず、恐る恐る指を進めてきた。
指先から、手のひらへ。
白石の小さな手が、俺の手の上に重なる。
昨日とほとんど同じ形。
けれど、昨日はただ触れていただけだ。
俺は重なった白石の手を包み込むように、指を閉じた。
「――っ」
白石の息が止まる。
こちらから軽く握ると、白石の指が反射的に俺の手を掴んだ。
いわゆる恋人繋ぎではなく、ごく普通の手の繋ぎ方だ。
それでも白石は、まるでとんでもないことをしているかのように固まっていた。
「……繋いだぞ、これでいいか?」
「…………うん」
「感想は?」
「かっ、感想……!?」
「だって、ずっとしたかったんだろ? 一日中考えるくらい」
「うぅ、そうだけど……いま聞くの……?」
「うん、今繋いでるし」
「うぅ……」
白石は繋いだ手へ目を落とした。
何度か自分の指を動かし、本当に俺と手を繋いでいることを確かめている。
「……あったかい」
「そう? 多分、お前の手が冷たいんだよ」
「ちがうもん、黒瀬くんの手があったかいの……」
小さく反論して、繋いだ手へもう一度視線を落とす。
白石の指先には、確かに少し冷たさが残っていた。
学校からここまで走ってきて、あんなやり取りをした後なのだから、身体自体は温まっているはずなのだが。
「もしかして、緊張すると手冷たくなるタイプか?」
「わっ、分かんない……でも、いまは緊張してる……すごく」
「そんなに?」
「だって、黒瀬くんと初めて手を繋いでるんだよ……私の心臓の音、聞こえたりしてないかな……??」
「いや、さすがに。近づけば聞こえるだろうけど」
「そ、そっか……よかった。でも、ほんとにすごいの……触ってみる……?」
白石が空いている方の手で、自分の胸元を指す。
…………。
数秒遅れて、自分が何を提案したのか理解したらしい。
「――っ!? ち、違っ!! いまのはそういう意味じゃなくて!! 心臓が速いのを伝えようとしただけで、胸を触ってほしいって意味じゃ……いや、黒瀬くんなら嫌じゃないっていうかむしろ触ってほしいくらいだけど、でも今は手を繋ぐだけで精一杯っていうか……っ!!」
「分かったから一回落ち着け」
「うぅぅ……っ! はしたない子でごめんなさい……」
白石が真っ赤になって俯く。
しかし、どれだけ慌てても、繋いだ手だけは絶対に離そうとしない。
むしろ、恥ずかしさを誤魔化すためか、握る力が強くなっている。
「……でも」
しばらくして、白石が小さく口を開いた。
「?」
「黒瀬くんとこうしてたら……だんだん、あったかくなってきたかも……」
白石の言う通り、最初は冷たかった指先に少しずつ熱が移っていた。
それが嬉しいのか、繋いだ手を見つめる白石の表情は、柔らかく緩んでいる。
「……えへへ」
「満足した?」
「うん……すごく満足。幸せ……」
答えたあと、白石は少し考えるように黙った。
そして、遠慮がちに俺の肩へ頭を預けてくる。
「でも……まだ、離したくないかも」
「まだって、繋いでから数分しか経ってないだろ」
「だって、やっと繋げたんだもん……。今日帰るまで、ずっとこのままがいい……」
「弁当食べる時とか勉強する時はどうするんだ……」
「うー……お互い片手で頑張ろ……?」
「そこまでして離したくないのか……」
「うん、ぜったい離さない」
白石は肩に頭を乗せたまま、こちらへ少しだけ体を寄せてくる。
「……ダメ?」
繋いだ手を、きゅっと握られる。
その声には不安もあったが、それ以上に、離したくないという強い気持ちが込められていた。
「……いいよ、別に」
「……っ、ほんと……!?」
「白石が本当に片手で全部できるならな」
「できる! 絶対できますっ!! ご飯も勉強も、なんなら黒瀬くんにお弁当食べさせてあげることだってできるから……!!」
「それは絶対お前がしたいだけだろ」
「……はい。したいです……」
白石は幸せそうに笑うと、繋いだ手を自分の膝の上へ置く。
そして、その上から空いている手まで重ねて、大事なものを守るように包み込んだ。
「……黒瀬くん」
「ん?」
「だいすき」
そう言って、白石はまた俺の肩へ頬を寄せる。
手のひらを通して伝わってくる白石の体温は、もう冷たくなかった。
……どうやら今日の俺は、白石が帰るまで片手だけで過ごすことになりそうだった。




