17 いつもの平日
白石と過ごした休日も終わり、今日は月曜日だ。
病室の窓から見える景色には、下校や退勤の流れが戻っている。
院内には受付の端末音や配膳ワゴンの金属音が断続的に響いているが、個室の扉が音を遮っているぶん、ここは比較的静かだ。
(……そろそろかな)
時計の針が16時の時刻を指した瞬間、人の気配が近づいてくる。
病室の扉が開くより先に、遠くで軽く響いた足音の調子で白石だと分かった。
昨日よりも速い足取りが一直線に近づき、案の定ノックもなく扉は開かれた。
「く・ろ・せ・くーん!!!」
足音と同じ速さの明るい声と共に、白石が病室に飛び込んでくる。
……と同時に、バッグを投げ捨てて俺に突っ込んできた。
「おい」
「――んぶっ!!」
勢いのまま飛びついてきた白石を、手のひらで制止した(顔面を)。
顔を押さえられたせいで、抱きつくつもりだった手が宙をさまよっている。
「いきなり飛びつくなよ、犬かお前は」
白石がハッとして、ばたばたさせていた手足の力を抜き、慌てて離れた。
「ごっ、ごめんなさい……テンション上がりすぎてつい……」
恥ずかしそうに謝って、指先をもじもじと動かす白石。
……確かに、今日の白石は入ってきたときからいつもと違っていた。
上気した顔で肩を上下させ、息が上がっているのに……声は弾んで、息の中に楽しさが滲んでいる。
「あのね!! 黒瀬くんが言ってくれたとおり、今日は学校からここまでいつもより全力で走ってきたんだけど……なんか私、どんどん足が速くなってる気がするの……!!」
……確かに、今日の到着時間は異常なほど早い。
学校での白石を思い返すと、運動神経はそこまで良くないはずなのに。
やはり、感情だけで動く生き物はエネルギーが凄いのかもしれない。
いや、それだと動物みたいだけど……。
(いや実際犬みたいなもんだし)
……まあそれはともかく、白石はやっぱり凄い。
「はやくあいたい」という気持ちだけで、肉体の制限すら超えてくるのだから。
「……お前は勉強も運動も、興味がないからできなかっただけなのかもな」
「へ?」
――そうだ。よく考えれば苦手だったはずの勉強も、俺が教えたらすんなりできたんだった。
基礎的な能力が低くなかったとしても、一切の興味がなければできないのは当たり前のことだ。
つまるところ白石は、一つのこと以外に興味がないのだろう。
「……」
…………分析していて恥ずかしくなってきた。
これは白石のせいだ。
「ん~、確かに……? そういえば昔から、勉強も運動も熱中できたことなかったかも。
クラスの女の子に話題合わせるために色々趣味も試したけど、どれもそこまでハマらなかったし……」
指先でスカートの端を摘まみながら、白石はどこか遠くを見るように言う。
息はまだ浅く、頬には走ってきた熱が残っている。
「で、初めて熱中した趣味がいじめと」
「あっ……う、うぅ……ごめんなさいその通りです……」
うなだれて視線を落とす白石の髪が、頬の横で小さく揺れた。
声の端が震えていて、久しぶりの反省モードだ。
「相手が俺で良かったな。他の男子にやってたらやり返されてたかもしれないし」
「それはありえないから」
即答で返された。
顔を上げた白石の目は真っ直ぐで、言葉に迷いがない。
「……それに、私は黒瀬くんになら……あの、やり返されてもいいかなって思っていじめたっていうか……そのぉ……」
語尾が小さくなり、両手の指を絡めながらもじもじし始める。
……なるほど。
「お前さては、それが狙いの一つだっただろ」
「ひぅっ!!」
肩を跳ねさせた白石が、机の端にぶつかりそうになって慌てて体勢を立て直す。
耳まで赤く染まっていて、分かりやすいにもほどがある。
「ここに来るようになって分かったけど、お前明らかに……、……うん、明らかにな」
「そ、そこで濁さないでよぉ……なんか余計にみじめな感じになっちゃう!!
……うぅ、そうだよ……黒瀬くんに構ってもらえるならいじめられるのもありだなって……」
「そうか。じゃあ叶って良かったな」
白石は言葉を失い、しばらく俯いたままだった。
目線を机の端に落とし、指先をゆっくり重ね合わせる。
「…………はい」
そして、恥ずかしそうに頷いた。
その声音には――照れだけではなく、どこか満たされたような響きがあった。
恥ずかしそうに頷いた白石を見て、少しだけ息を吐いた俺は――
ふと、あることを思い出した。
「――そういや、最近勉強やってなかったな。毎日教えるって約束したのに」
「あっ、確かに! ごめんね、このあいだ私が『今日はやりたくない』って言ったから……代わりに予習復習はしてて、前より成績は良くなったんだけど……」
白石は話しながら鞄を開け、ノートを取り出すと、途中でこちらを伺うように止まった。
この間少しだけ勉強を教えて、今は一時的に良くなっているかもしれないが……白石のことだ。勉強を頑張れる理由がなくなったら、すぐに戻るだろう。
「今日、久しぶりにやるか?」
「――! うん、やるっ!」
反射のような速さで、顔がぱっと明るくなる。
「なら早く座れ」
「え、えっと……膝の上に……?」
俺の膝に、露骨な期待の視線が向けられる。
……。
俺は視線を逸らしてため息を漏らした。
「なわけあるか。膝の上にいる奴にどうやって勉強教えるんだよ」
「あっ、そうだよね……はい。普通に座ります……」
小さく唇を尖らせて、かなり残念そうに肩を落とす。
それでも結局、素直に横に座ってきた。
髪が揺れて、さっきまでの熱がまだ微かに香る。
机の上にノートと筆箱が並び、久しぶりの勉強の準備が静かに整っていく。
その手際の中に、甘さと平日の日常が同時に戻ってきていた。




