16 「俺が決めること」
あれから一度回診の時間を挟んで、その間白石には部屋の外に出てもらっていた。
膝から降りるときは案の定不満そうにしていたが、約束だからと渋々ながらも一度病室を出ていった。
時間通りに回診に来た看護師の女性(いつもは男性だが今日は臨時らしい)が、ノックの後に入室してくる。
…………そう、これが普通だ。
病室にノックもせず飛び込んでくる人間を――俺は白石以外に一人も知らない。
そんなことを考えていると、看護師が微笑みながら声をかけてくる。
「彼女さん、いつも来られてますね。
いつもは学校の帰りに来てたみたいだけど、休みの日まで朝からおめかしして会いに来るなんてほんとに愛されてるんですね……ふふっ」
……。
「……そうですね、かなりヘビーです」
――厳密には白石は彼女ではないが、あえて否定する理由も特にないのでそこはスルーしておく。
……というか。万が一、何かしらで病室内の光景を見られていたとしたら……否定したところで信憑性がなさすぎる。
それに否定して、白石がお見舞いにくる名目として「彼女です」とか名乗ってたとしたらややこしくなる。……うん、あいつならやりかねない。
「ふふ。一途なのはいいことですから、大切にしてあげてくださいね」
「……はい。そうですね」
そんな短い会話とカウンセリングだけがあって、回診はすぐに終わった。
そもそも病院側は俺の事情を完全に理解しているので、毎日の回診にそう時間はかからない。
看護師は最後に軽く会釈をすると、そのまま病室を出た。
……その直後だった。
ほとんど間もなく――いや、というか扉が閉まりきる前に白石が入ってきた。
(……どうせ近くで待ってるとは思ってたけど……それにしたって早くないか?)
……一体、どこで待機していたらこの速度で入室できるのか。
まあ、もう白石の奇行に慣れすぎて何も思わなくなってるが。
「おかえり」
「た、ただいま……」
――帰ってきた白石が、なにやらもじもじとしている。
それも、頭から蒸気が出そうなくらいに全身を赤く紅潮させながら。
(…………ん?? 一体なんだこの反応は……)
いや、そもそも何に対しての反応だ。
今回ばかりは本当に白石の感情が分からない……。
白石はそのまま、俺に目も合わせず病室の隅っこまで歩いていくと、壁のほうを向いてしゃがみこんでしまった。
……………………。
(えっ、えっ、扉少しだけ開けて聞き耳立ててたからうっすら聞こえてたけど!!! 黒瀬くん、さっき看護師さんに私のこと〝彼女〟って言われても否定してなかったよね……っ!? いや今朝看護師さんに関係聞かれてつい『彼女です』って言っちゃったから、犯人は私なんだけど!! それ以外の会話は聞こえなかったし、女の看護師さんが入っていったときはまた嫉妬でおかしくなるかと思ったけど……嬉しすぎてそれも吹っ飛んじゃったよぉ……っ)
白石は壁に向かってしゃがんだまま、ひたすら体をくねくね動かしている。
……よし、さっき思ったことは撤回しよう。白石の奇行に慣れたと思ったのは、俺の勘違いだったかもしれない。
「何してんだ本当に……。早くこっち来い、どうせ今日も弁当作ってきたんだろ」
俺がそう言った瞬間、白石の動きがぴたりと止まった。
「……え。今日も食べてくれるの……?」
「何言ってんだ。毎回ちゃんと食べてるだろ」
白石が少し止まって、そのあとゆっくりと立ち上がる。
「えへへ……そんな当たり前みたいに食べてくれるんだ……」
振り返った白石は、顔の赤さは一切引いていないのに、驚くほど満面の笑みだった。
ぱっと目を細め、口角を上げ……音にしてまさに〝にっこり〟だ。
何がそこまで嬉しかったのかは分からないが、まあ、喜んでるならいいだろう。
近づいてきた白石は、まだもじもじとした空気を少し残しながらも、鞄の中に入っていた大きめの弁当箱を出して差し出してくる。
「あのね、今日は、昨日とも前とも全然違う内容にしてみたの……明日からまた学校で準備する時間も減っちゃうし、せっかくだから全部手作りで…………ど、どうかな? お口に合うといいんだけど」
俺が弁当を開ける様子を見ながら、今日の弁当に対する意気込みを伝えてくる白石。
白石の期待と不安を浴びながらも、俺は弁当の中を見る。
――まずはメインのサンドイッチ。片方は照り焼きチキンとたまごサラダのサンド。片方はフルーツサンドで、沢山のフルーツと生クリームが挟まれている。
サイドを見ると、サラダの代わりに野菜のマリネが入っていて、味や見栄えだけでなく健康にも気遣ってくれているのが分かる。
他にも……可愛いミニカップに入ったポテトグラタンは、焦げ目の付き方だけでも手作りだと分かる。
デザートには――
(――え、なんかマカロン入ってるんだけど。いや、女子力高い白石なら作れそうだけど……こんな日常の弁当に手作りのマカロンが入ってくることあるか??)
……しかも、マカロンは三種類入っている。
マカロンだけでも数時間かかることは間違いないだろうに……いったいこの弁当だけでどれだけ時間をかけたのだろう。
他の料理も手のかかる料理ばかりだ。サンドイッチの中の具材もカットや調理が必要なものばかりだし、野菜もわざわざサラダより大変なマリネになっている。グラタンも、サイドに用意するためにわざわざオーブンで焼いたのだろう。
「――」
こんな手の込んだ弁当を「食べてくれるかな」なんて思いながら早起きで作ったと思うと――意味もなく胸が締め付けられる。
(俺からしたら食べるに決まってるけど、こいつは食べてもらえる確証もないのに……ほんと、どんだけなんだよこいつの感情は……)
――俺は、そんな頭の中を白石に悟られないよう、顔が見えづらい角度に体を曲げてから、弁当を食べ始める。
たまごサラダは粒の食感が残っていて、舌の上でほどけるのが心地良い食感だ。
照り焼きの味が良いのはもちろん、タレがパンの内側に少し染みていて、噛むたびに甘辛の香りが立つ。
全体をレタスが受け止めて、くどさも一切ない。
フルーツサンドには、いちごとキウイ、それにバナナが入っていた。
キウイのほどよい酸味に、甘すぎない手作りの生クリームが文句なしの相性だ。
いちごの瑞々しさがその隙間を通り抜け、最後にバナナの柔らかい甘さで落ち着く。
野菜のマリネには、パプリカ、にんじん、紫玉ねぎが入っていて――野菜の主張に押されていたオリーブオイルが、喉に落ちる瞬間に香る。
味付けは濃すぎず、他の料理を引き立てる副菜として申し分ない。
ポテトグラタンは、表面のチーズが薄く焦げて、スプーンを入れて持ち上げると冷めていても少しだけ伸びた。
下のマッシュポテトには牛乳の甘さが残っていて、塩味を少し優しくしている。
ほんのり香る黒胡椒が、ホワイトソースのまろやかさをまとめるスパイスとして役立っている。
そして、デザートのマカロン。
一口齧って初めて分かるその味は、ピスタチオに、ショコラに、ラズベリーだ。
ピスタチオはナッツの香りが立って、淡い甘さと香ばしさのバランスがよく仕上がっている。
ショコラはほろ苦い甘さで、カカオの苦みが口の中の甘みのまとまりを良くする。
ラズベリーは強い甘みの中に確かな果実の酸味があって、最後の「デザート」として最適だ。
あれだけボリュームがあった弁当が、気づけばもうなくなっていた。
食べている間、俺の表情を伺おうとする白石の視線がずっと突き刺さっていたが……それが気にならないくらいには、味わうことに集中していた。
「……すまん、心の中で感想言ってたら食べ終わってた。全部美味しかったよ」
「いいの、顔で分かるもん……それに無言になるくらい真剣に食べてくれたのが嬉しいし……♡
……うぅ、黒瀬くんのお口に合ってよかった……」
やはり、これだけ頑張ったのだから美味しいと思われるか不安だったのだろう。
……全く、これだけ手間と気持ちをかけておいて――それが俺にとって美味くないはずがないのだから、杞憂でしかない。
「昨日は私が寝たせいで置いて帰っちゃったから、今日は目の前で食べてくれて嬉しいな……。
……えへへ、昨日のお弁当もこんな綺麗に食べてくれたけど」
白石が空の弁当箱を手に取って嬉しそうに眺める。
…………。
最初は女の子らしい表情で喜んでいたのに……空の弁当を眺めている白石の息が「はあはあ」とだんだん荒くなってくる。
……なんか、良い感じにまとまりかけてたのに。台無しだ。
「……せめて家でやれよ……俺が見てるところで凄い根性だなお前……」
呆れた口調で白石にツッコミを入れる。
「……はっ!! っ、ご、ごめんなさい……!」
白石が肩をびくっと震わせ、急いで弁当箱を顔から離す。
……なるほど、無意識だったらしい。
(こいつ、あのまま放置してたら俺の目の前で何をしでかすつもりだったんだ……)
恥ずかしそうにいつもと同じく顔を真っ赤にして俯く白石だが、なんだか今日はいつも以上に幸せそうだ。
こんないつもと変わらないやりとりをしながら、気づけば時間は過ぎていった。
☆★
日が落ち始め、病室の窓から入る光が薄暗くなってきた頃。
「……今日も、そろそろ帰る時間だな」
時間を見て、いつものように声をかけた。
「……あ……」
白石の口から、萎んだような声が落ちる。
彼女が帰りの時間に慣れることはないのだとここ数日で理解しているが、それでも「明日も会えるから」と我慢していたのに――
今日の白石は、いつもより明らかに落ち込んでいた。
「……どうしたんだ?」
声を出したきり黙っていた白石が俺の声に反応すると、元気のない動きで顔を上げ、俺の顔を見る。
白石の表情には……少しも隠せていない、ある感情が表れていた。
「……さみしい」
その気持ちは、少しも飾らず、隠さず、そのままの言葉で発せられた。
「……寂しい? ……いや、いつもそう思ってるのは分かってるけど……なんで今日だけそんなに?」
昨日今日と、連日長く一緒にいたからかな、とは思った。
一緒にいればいるだけ、離れる反動も大きくなる。
けれど、それだけにしては明らかに落ち込みすぎな気がして。
俺は白石の気持ちを知ろうと――質問の形で言葉を口にした。
――白石が何かを躊躇うように黙ったあと、口を開く。
「……いつもだって我慢してるだけで泣きそうなくらい寂しいもん。けど……明日から、また平日になっちゃうから。
昨日も今日も、ずっと一緒に過ごせていっぱい嬉しかったから……学校が終わってからじゃ、こんなに長くいられないから……っ」
言葉の途中で、白石の瞳から涙がこぼれる。
…………。
きっと、ずっと抑えていただけで。いま、それが溢れただけなんだろう。
白石は言葉を続ける。
「わがままばっかり言ってごめんなさい……っ、ぐすっ、黒瀬くんはこんな私にずっと優しくしてくれてるのに……それなのに、困らせてばっかりで……ぅ、ひっ、く……ごめっ、ごめんなさっ……嫌いに、ならないで……っ」
――溢れだした言葉と共に、白石の涙が止まらなくなる。
「……」
――俺はこれまで、理解したつもりでいただけで。
きっと、白石の気持ちの強さをまだ完全には分かってあげられていなかったんだ。
それなのに、白石の想いを勝手に小さく見積もって――かけるべき言葉を忘れていたんだ。
「……白石」
俺はベッドから立ち上がり、嗚咽をこらえて泣いている白石のもとに近づく。
そのまま、白石の体を抱き寄せて……力加減など気にせず、抱きしめた。
「っ……!? く、くろせくん…………?」
白石が涙を流したまま、突然の抱擁に驚いた声を上げる。
俺はそんな白石を抱きしめたまま、頭を撫でて……そのまま、言葉を。本心を、繋げる。
「お前のわがままなんて今に始まったことじゃないだろ、学校でも――病室でも。
……けど、俺は一度でもお前のことを面倒だと言ったか? 言った覚えも思った記憶もないし、今後言うつもりもない。
お前が毎日ここに来ることを許したのと同じで、お前の重さをどう感じるかは俺だけが決めることだ。――俺の感情を、勝手に決めるな」
「――! ……ぁ」
胸元の白石から、声にならない声が漏れる。
白石は胸に顔を埋めたまま震え、少しの沈黙が流れる。
そして突然。
白石が俺の体を押し離して――涙が溢れ続ける瞳で、俺の瞳をまっすぐに捉えて。
「……好き。好き。好き、大好き……! 好きなの!! 好き、好き……っ!」
抑えていた全てが、涙と共に溢れだすように――気持ちを伝えてくれた。
白石の言葉は、ただ真っ直ぐに。溢れることなく、俺の心に届く。
「――ああ、よく知ってるよ」
俺もただ、それを真っ直ぐに受け入れて――白石をもう一度、抱きしめた。
☆★
白石が「すん」と鼻をすすって、ティッシュでかんだあとの鼻を可愛く鳴らす。
結局、あれから白石が落ち着くまで抱きしめ続け、かなりの時間が経っていた。
白石は離れるつもりがなかったし、俺も白石が落ち着くまで離す気はなかった。
前にもこんなことがあったが、白石の親は娘の行動に理解があるほうで、時々であれば車で帰りを迎えに来てくれるようだから大きな問題はない。
泣き腫らした顔の白石に手を添えて撫でる。
「んっ……ごめんね、迷惑……じゃなかった、心配かけて。だいすき」
泣いて気持ちを吐き出したあとだからか、今の白石は言葉も表情も子供のように幼く見える。
それでも、「迷惑」という言葉を自分で訂正したところを見れば、さっきの話をちゃんと理解したことが分かる。
(よし)
偉いのでご褒美にしっかりと撫でる。撫でながら、言おうと思っていた言葉を伝えるため口を開く。
「ん。あと、時間を増やしたいと思うなら放課後はもっと速く走ってこい。
……それに、土日なんてこれから何回だって来るんだから」
白石が、俺の言葉に顔を赤くして目を見開く。
「……!! ――うんっ……!!」
白石はまた、最高の笑顔とはっきりとした意思で答えた。
そんな会話が、白石の親が病院に到着するまでの間ぽつぽつと続いた。
白石は病室を出るとき、最後まで名残惜しそうに、でも子どもみたいに素直に手を振って――今日も病室を出た。
扉が閉まる音がして、静かな空気が病室に戻る。
俺はベッドに腰を下ろして、弁当の味を思い出していた。
触れた胸、そして胸の奥に、熱が長く残り続けている。
短すぎる休日が終わって、次に会うのは明日の放課後だ。
明日はいつもより速く走ってくるらしい誰かを――俺はきっと、もう待っている。




