10 追憶(1)
朝の回診が終わると、病室の中はまた静かになった。
規則正しい足音が遠のいていく中、自分だけが取り残された颯太は、ふと、頭の中の時間が切り替わるのを感じた。
指先にかすかに残る耳の感触は──颯太に当時のことを思い出させるには、ちょうどいい熱量だった。
★★
あの頃、俺は確かにいじめられていた。
嫌がらせの内容は暴力や暴言だけに留まらず、物を隠されたり嘘の噂を流されることもあったから、あれを「いじめ」以外の言葉で形容するほうが難しいだろう。
例えそれらが内側に違う意味を抱えていた行為だとしても、周りから見ればそれなりに過激な内容のいじめに映っていたと思う。
俺をいじめていたのは、ご存じの通り白石柚奈という女だ。
彼女は入学してから間もなく俺に目をつけ、嫌がらせは一年もの間続いた。
きっかけはあったはずだが──それだけが、よく思い出せない。
逆に言えば俺に嫌がらせをしていたのは彼女一人で、他のクラスメイトに何かをされたことはない。
というか、元々俺はクラス内でそれなりに人気者だった。
男女ともに分け隔てなく交流していたし、誰かに嫌われていたという記憶も特にはない。
しかし、白石のいじめが始まってから、その日常はガラッと変わった。
白石が流した嘘の噂によって俺はクラスから完全に孤立し、気づいた頃には誰とも話さなくなっていた。
……それこそ、当時俺が関わっていたのは、白石だけだったんじゃないかと思う。
俺が当時のことをどう思っていたのかは、きっと記憶を辿っていく中で分かるだろう。
これから話すのは──俺が高校一年生の頃、白石にいじめられていた時の話だ。
★★
授業が終わって、俺が教室から出ようとすると、いきなり手首を掴まれ引っ張られることがよくあった。
犯人は、もちろん白石柚奈。
当時の彼女は俺に対してやりたい放題で、なんというか、全てが強引だった。
「なんで勝手に出ていくの? 私の許可なしに行かないでって言ったよね」
白石は腕をきつく掴んだまま俺をにらみ、不機嫌な口調でそう口にする。
「いや、トイレ行こうとしただけなんだけど」
「は? そんなの関係ないし、いいからこっち来て」
白石に掴まれた腕を無理やり引かれ、廊下を早足で歩かされる。
(漏れそうなんだけど……)
と思いつつも、選択肢がない俺はそのまま足を進めた。
そのまま歩き、階段の陰まで連れていかれると、白石は階段下の壁に俺を押し付け、口を開いた。
「ねえ、さっき隣の席の子に話しかけられてたけどあれは何? 何の話してたのかなー?」
白石が手首を掴む力を強め、さらに壁に押し付けてくる。
そこには何かしらの負の感情が込められていて、掴む力も押し付ける力も容赦がない。
白石は非力なほうだが、きっとこの時の俺が本気を出したところであれは振り払えなかっただろう(俺は力が強いほう)。
(……教科書見せてって言われただけなんだけど)
そう思いつつも、俺は何も言わない。
白石は俺が答えないのを見ると、さらに力を強め、目の色が濁っていった。
「……ふーん、言えないことなんだ。そうなんだなるほどね」
白石の表情が笑顔に変わる。
しかしそれは笑顔と言っても、裏で激しい怒り(?)が蜷局を巻いたような、かなり不気味な笑顔だ。
白石は俺の手首を掴んでいた手の片方を離すと──そのまま、本気で俺の腕をつねってきた。
「痛っ!」
反射的に顔が歪み、声が出てしまう。
それを聞いた白石は、一切表情を変えず、緩めることもなく、そのままつねる力も強めてくる。
俺はこの時、つねられた腕の痛みよりも、笑顔のままなことのほうが数百倍怖かった。
白石はようやく力を緩め、かと思うとそのまま再度俺の手首を掴んで壁に押し付けた。
「ねえ、黒瀬くん?」
「いてて……なに?」
「私、勝手にクラスの人と喋るなって何回も言ってるよね?」
白石がさっきまでと同じ笑顔で問い詰めてくる。
……確かに、俺は普段から白石にそう何度も言われていた。
学校である以上どう考えても無理難題だし、普通に考えたら言うことを聞く義理もない。
……が、俺にそう答える気はなかった。
「いや、そうしてるつもりなんだけど。話しかけられたからさ」
俺がそう答えると、白石の表情が変わる。
今度はなぜか、さっきより柔らかくなった。
「……ふーん、聞いてくれる気はあるんだ。ふーん……」
白石は少し俯き加減にそう呟くと、少し黙った。
イマイチ感情が分からないが、俺はとりあえず白石の言葉を待つ。
「……けど」
突然、白石がそう短く呟き、顔を上げる。
同時に、壁に押し付けた俺のほうへ体を近づけ──
「次誰かと話したらもっと痛いことするから」
耳元で、そう囁いてきた。
「!?」
唐突に耳元に囁かれ、さすがに驚く。
白石はそんな俺の様子を見て満足そうな顔をすると、ようやく腕を離してくれた。
……今思えば、似たような出来事はよくあったような気がする。
昼休み、他の女子に勉強のことを質問されただけで呼び出され、ノートでぺしぺしと叩かれ。
放課後、仲のいい男子に一緒に帰ろうと言われた時は、返事をする前に腕を引っ張られ、連れていかれた教室で胸ぐらをつかまれた。
今でこそ、その時の白石の行動原理を理解できたが……当時は、あまりの奇怪な行動に度々困惑していたものだ。
……そういえば、あの時も。
白石の奇怪な行動(嫌がらせ?)で、特に印象に残っているものがあった気がする。
★★
ある日の昼休み、それは体育の後のことだった。
俺はいつも通り白石に呼び出され、クラスとは別の階の空き教室に来ていた。
その日は体育の教師に授業後の雑務を手伝わされていた関係で、俺だけ体育着のまま着替えられていなかった。
それ故、俺は昼休みに着替えをしなくてはいけなかったのだが……白石はあろうことかそんな俺を呼び出し、着替えを妨害してくるという嫌がらせに出てきたのだ。
……が、そこまでは良かった(良くないけど)。
白石が、問題の奇怪な行動をしてくるのはこの後のことである。
この時の白石はなぜか終始息が荒く、熱でもあるんじゃないかと思うほど異様な様子だった。
白石が俺を壁際に立たせ、これまたいつものように腕を押さえつけてくると──
何故か、俺の胸元に顔を近づけてきた。
そして──
「…………すぅーーーーーーーーーーーーーーーーっ…………、…………はぁーっ……」
──。
…………。
(…………………っ!?)
白石は鼻が体育着につくほどに顔を密着させると……そのまま、深く息を吸い込み始めた。
俺があまりの予想外の行動に硬直し絶句していると、白石はそれをいいことにその奇行(吸引)を続けた。
「すんすん……くんくん……すぅーーっ、はぁーっ……すぅ、はぁ……っ」
……。
もうなんていうか、嗅ぐのは百歩譲っていいとしても、吸い方に遠慮がない。
いや、途中可愛らしい嗅ぎ方が混ざっていたような気もするが、すぐに戻ってしまった。
……そして、吸う時のほうが吐く時よりも時間が長いのは何故なんだ。
「ふーっ、ふーっ…………っ、ふぅ……」
白石が俺の体育着(胸)に顔をうずめたまま、息を整え始める。
息が整い落ち着いた白石は、何かに気づいたようにはっとすると、
「……っ……、くんっ……はぁ……っ」
……と、最後に一吸いだけすると、いきなりぱっと距離をとって、
「…………あ、汗くさ。ほんと最悪……」
真っ赤な顔、はぁはぁと荒い息のまま、取ってつけたような謎の暴言を吐いた白石は早足で去っていってしまった。
(…………えぇ……?)
……事が起きているとき、特に抵抗はしなかったが……この時の俺は、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。
──この時の白石の行動は、未だに正しく理解できている自信がない。
★★
病院の壁時計が、針をひとつ進めた。
枕に頬を戻すと、指の熱はもう落ち着いている。
扉の向こうで鳴った人の靴音が耳に届いて、意識がはっきりと今に戻る感覚を覚える。
──時計を見ると、時刻は朝九時を回っている。
彼女の性格を考えれば、ここにやってくる時間はそう遠くないだろう。
先ほど思い返した記憶と直近の記憶を頭の中に並べてみる。
自分の頬がふっと緩むのを感じて、俺は静かに瞼を閉じた。