第七章「椿の咲く場所」
最後の一本の花を生け終わると、私は小さくため息をつきました。
「花の目前で憂きため息はよしなんし、椿さん」
池上先生はそう私を窘めて、「せっかく生けた花も枯れてしまいます」と釘を刺しました。
良太郎さんと祥助様から同じようなお言葉を聞いてから数日、麗らかな花散る季節とは裏腹に、私の心は沈みがちでございました。
継母の総子さんは、何もおっしゃってはくださいません。ただいつものように毅然としていらっしゃるばかりです。このような折、実母ならばどのようにしてくださったのでしょう。そんな叶わぬ夢に虚しさが益々募ります。
「…花はまこと正直なものでありんすな」
ややあって池上先生は呟くようにおっしゃいました。
「ぱっと仄かに咲きほころびたかと思えば、もう舞い降り始めてしまって。お天道様も恵みの雨も、何を断たれたわけでもないのに」
〝そうでしょう?〟と問い掛けるように、池上先生は小首を傾げてこちらをご覧になります。
「…先生、同じ季節に花は二度咲きますでしょうか?」
私は未だ心の晴れぬまま、池上先生に尋ね返しました。花が落ちきってしまえば、桜は葉桜へと姿を変えます。落ちた花は二度と戻らず、また次の春を待って新たな花が咲くのです。同じ枝先には戻れぬものと知るならば、花はどのような気持ちで散っているというのでしょう。
「まぁ、おかしなこと」
そんな私の気持ちに反して、先生はにこやかに微笑みました。
「私にはまだ、花は枯れていないように見えます。むしろ、よく見れば未だ咲いていない遅咲きの蕾がありましょう?」
「遅咲きの…蕾、でございますか?」
艶やかな花びらに控えてはいても、ひっそりと蕾は隠されているもの。よくよく見れば、庭の満開を過ぎたはずの桜にも、丸い小さな蕾はあるのです。
唖然とした私に向かって、池上先生は優しく胸に手をお当てになりました。すると私の目にその古傷の残る小指が止まりました。
ずっと尋ねることを躊躇ってきた、その小指の傷痕。今なら聞けるでしょうか。私は一瞬目を伏せてから、ぐっと気持に勢いをつけて口火を切りました。
「池上先生、私…お聞きしてもよろしいでしょうか?その…先生の小指の…」
「…ああ、これですか?」
池上先生は胸に充てた手を持ち上げて、流れるような目線でご自身の小指をご覧になりました。
「椿さんは花魁の指切りをご存じでありんしたか?」
「はい…昔、小耳にはさんだことがありました」
最初にその傷に気がついたとき、私は何も知らないままヨネに尋ねたのです。するとヨネは手招きをして私の顔を寄らせると、そっと花魁の指切りの話を耳打ちしたのでした。
「そうですね。今の椿さんになら、お聞かせしたくもござりんす」
そう仰ってまた優雅に微笑みになると、池上先生はさらにきちっと座りなおりました。
「この指…私がどなたに捧げようとしたのか、椿さん、想像できますか?」
池上先生がそう仰るので、私はしばし考えましたが、先生が元花魁だったことを踏まえれば、その答えは実に容易いものに思えました。
後に「花魁」と呼ばれるようになった、太夫という位。それは大変に高いもので、その呼び名の発祥が朝廷での五位朝臣の別称にあやかったことも含めると、一般の客にはどうやっても手の届かないものに違いないのです。
教養高く、和歌・連歌・碁や琴にも精通していた太夫。
池上先生はかつてその位の花魁でいらしたのですから、それに見合うだけの財と力を持った方だと考えたのです。
しかし池上先生にそれを申し上げると、先生は微笑みを絶やさぬままゆっくりと首を横に振りました。
「遊郭に妓夫という身分の働き手がいたことはご存じでしたか?」
「妓夫…ですか?」
「えぇ、女を買うことなく、ただひたすらに遊郭で働く男性たちがいたのですよ。…私がこの指を捧げたかったのは、そんな妓夫の中のお一人でありんした」
そしてしみじみとした表情で大事そうにご自身の指を見遣ると、池上先生は次のように当時のことをお話しになりました。
***************************************
今からもう四十年ほど昔の話になりましょうか。私は吉原で池芳太夫と呼ばれ花柳界を闊歩しておりました。
幼いころは、それはそれは貧しく苦しい生活をして、その上で飛び込まざるを得なかった花柳界ではありんしたが、華々しく豪華な世界は私にとって最後の居所のように思われました。世の女性の中には夜伽で身を売る花魁を蔑む人もあったでしょうが、花魁にはそれぞれ気高い誇りがあったのです。
花柳界において花魁はただの人であってはならないとは、遣手婆様に初めに言われた言葉でござりんした。花魁は俗世に生きる人に非ず、花魁は宵の夢に咲く花であれ…、そのことがいかに難しくまた、そのようになれた時にいかに女が美しくなるものか、それは花柳界に身を置いていなければ分からないこと。
私もその世界に生きる女でしたから、たとえ吉原という限られた狭い世界でも、太夫という地位に登りつめて世を謳歌していることが大変に誇らしいことでした。挙句の果てには、世の男性など私を輝かせるための道具にすぎないとさえ、おこがましくも思うようになっていたのです。
けれど…逢瀬をともにしたこともない一人の男性が、そんな私を変えたのです。
武骨で仏頂面、無口で何を考えているのか分からず、笑うことが苦手な…一人の不器用な妓夫。他の花魁たちは、そんな妓夫をさも無いものであるかのようにあしらいましたが、私はその妓夫が心に留まって仕方がありいせんでした。
世の女性が花魁を蔑むように、世の男性はいかに美しい容姿であっても、何人のも男と関係を持つ花魁を純粋に女として愛することは稀でしょう。
花魁は花魁、体の関係があってこそ愛してくれる…宵の花になると決めた以上、私はそれでも構わないと思っておりました。
しかしあの妓夫だけはそのようなことはありいせんでした。私が毎夜どのように過ごしているかを知っていても、それでも一途に私に仕えてくれたのです。いつも多言一つせず、私の体ではなく私の目をいつも強く見つめてくれました。
ああ、一体いつからそのまっすぐな眼差しをいとおしいと思うようになったのでしょう。
私はこの生涯変わりようのない想いを妓夫に伝えたくて、ある夜小刀を手に妓夫のもとを訪れたのです。どのような身分の違いがあってさえ、想う心に間違いはないのだと、妓夫に指切りをしようと思ったのです。
それなのに…
「…なりやせん!池芳太夫、それだけはなりやせんぞ!」
妓夫の声のするあたりは、既に小指の骨に当たるまで刃を突き立てた私の血によって、赤く染まっておりました。
「どうそ…どうそお止めにならないでくださいましな…!この私の心、分かっては下さいませんか?!」
痛みを堪えながら、涙ながらに私は懇願しました。しかし妓夫は私の持つ小刀をはたき落して、その濡れた手を握りしめました。
「いけません!貴女は花魁…その意味が分かりませんか?!」
「身分が…この身分が邪魔と仰るなら、私は捨てる覚悟で…」
「いいや、そうではございやせん、太夫」
妓夫はさらに強く手を握り締めて、大きく首を横に振りました。
「花魁は〝花の魁〟…この吉原で何よりも先だって美しくあらねばならん花が、その花びら1枚だに無暗に落としてはならんでしょう」
「花はいつか花びらを落とし、枯れていくものでありんす…!」
「いいえ、太夫。確かに花はいずれ花弁を落とすもの。けれど…」
一度言葉に詰まってから、妓夫は私の瞳の奥を覗き込むほどに強く目線を合わせていいました。
「太夫、私は土です。花を支える土に他なりません。土は其処ら中に沢山あるもので、汚れておるのです。泥となって飛び跳ねれば、綺麗な着物をも台無しにいたします。花の魁は、そんな土の上に花弁を落としちゃなりません。どなたかの掌の中に舞い降りるべきなのですよ」
そう言って、とうとう妓夫は泣き崩れる私から指切りを受け取ることなく、きつくさらしを巻いてその場を後にしたのでした。…
「…私はあの時、あれほど愛したはずの妓夫を大変に恨みました。太夫という地位にあって、沢山の殿方から引く手あまたの毎日でしたから、私は自尊心を傷つけられた思いでいっぱいになったのです」
池上先生は目をお伏せになって、さぞかし胸の痛む思いを抱えてそう仰いました。
「すると程なくして、その妓夫が病気で死んだと聞いたのです。途端に私の小指の付け根からプツンと音がして、それきり動かなくなってしまいました。妓夫はすでに自分が先の短い命だと知っていたのでありんしょう。それで私の指切りをお受取りにならなかったのです。私がすぐに未亡人となって、返り花になるのを引き留めたかったに違いありいせん。私はひどく自分を諫めました。まさかそんな優しい思いでいた人を恨むだなんて、愚かしいにもほどがあると」
涙滲む目元に手をおやりになって、それを静かに拭うと、池上先生はいつものやさしい眼差しで私をご覧になりました。しかし私はその視線にお応えして、何か気の利いた言葉を言うことすらままなりませんでした。
「この動かぬ小指は戒めなのです。いえ、もしかしたらあの時やっと指切りを交わせたのかもしれません。この指だけはきっと、既にこの世にないものになっているのでありんしょう」
それからすぐに、私は遊郭を去りました…池上先生はそよ風が花を少し揺らしたような儚いお声で話を閉めました。
花の魁は役目を終えて、人知れずひっそりと散ったのです…と。
「池上先生…」
私は思いを馳せながら、ただ一言添えました。
恋多きといわれた花魁の、燃えるようなたった一つの恋の花。
その証が古い傷となって残るものなら、私には何を残せるというのでしょう。できるなら、私にもそういったものが欲しかったのです。この思いを目に見えるものにできる、何らかの方法があるのなら。
「…けれど、椿さんが同じことをする必要はありいせんよ」
池上先生は私の気持ちを先読みしてか、はっきりと言い切りました。
「わ、私は…ですか?」
「だって、椿さんは花の魁ではないでしょう?貴女はきっと遅咲きの花なのです。まだ蕾の、これから咲く花でありんす」
そう言葉にしながら、先生はゆっくりと庭の方をご覧になりました。その目に葉桜になりつつある桜の木が映っております。
「葉に囲まれて咲く小さな花は、その形も鮮明に分かるほど美しく栄えるのです。私にはその姿がまた格別に愛らしゅう感じられます。咲くのを躊躇う花も可愛らしいものでありんす」
池上先生はまた上品な笑みをお浮かべになって、優しく私におっしゃいました。〝ですから貴女はそのままで、背伸びをする必要はないのですよ〟と、池上先生の切れ長の瞳はそう語りかけておいででした。
私は胸に暖かいものを感じてなりませんでした。実母が生きていたなら掛けて下さったであろう言葉を、池上先生は遠回しにおっしゃったのです。
花にまだ咲く余地があるように、道も断たれてなどいないのでしょう。道があるからこそ歩かねばならぬものを、もう駄目だと諦めて立ち止まってしまっては、いつまでも同じ場所から変わらないだけ。あの日あの時、何も出来ずにうずくまっていた私から、何一つ脱却することなど出来ないのです。
祥助様にも良太郎さんにも、私の方から歩み寄らなければなりません。枝を剪定しなければ良い花は咲かないように、花を摘まなければ生けることができないように、この胸の蕾は痛みをなくしては再び実をつけることなどないのでしょう。
「蕾はまた少し膨らんだようでありんす」
先生はとても嬉しそうにそうおっしゃいました。私は「ありがとうございます」と深々と頭を下げて御礼を申し上げたのでございました。
***********************************************
たった一本、椿の花を。
あの時良太郎さんが率直にそうおっしゃったことが、私にはこの上なく嬉しい事でございました。
それまで結婚とは〝藤宮の娘〟としてするものであって、〝椿〟ではないのだと思い込んでおりました。いえ、それが正しいことだとは今も変わらぬ思いでおります。〝藤宮の娘〟として嫁ぐことが、父や松江叔母様、ひいては藤宮家全体にとってどれだけ重要なことなのかは、子供の私とて察するところなのです。その上相手の方が祥助様とあって、それ以上を望むのは贅沢、そもそもそれより上などあるわけもないはずでした。
けれど、柔らかな笑顔…ざんぎりの猫っ毛。
いつの日も、泣き出しそうな私の心を慰めてくださったのは良太郎さんでした。その方がたった一本の椿の花を望んで下さったのです。あの心持ちをいかに表現いたしましょう。あれに勝るものなど、本当に見つからないのです。
「お嬢様」
ヨネは相変わらず静かに庭に佇んでいた私に歩み寄って、微かに私を呼びました。私は目に滲む涙が引くのを少しばかり待って、ゆっくりとヨネに向き直ります。
「…なんでしょう、ヨネ?」
「お嬢様、花は咲く場所を選ぶこともできますよ」
そう言うと、ヨネはふと目線を庭の隅へと向けました。私を実の孫娘のように思ってくれるヨネが何故そのように申したのか、私は彼女の言葉を不可解に思いながらも、その目線の先を追いました。
「良太郎さん…」
思いがけず胸に秘めていた方の姿をとらえて、私の足は自然と彼の元へ急ぎました。
何かを決意したわけではありませんでした。ただ心が私を良太郎さんの元へと急かすのです。私はヨネに言葉を返すことすら忘れていました。ヨネが言った言葉の真意すら探ることもできないまま、この胸は張り裂けんほどに切ない気持ちで溢れていました。
「良太郎さん…!」
私が息を切らして名を呼ぶと、良太郎さんは相変わらず眩しい笑みで「こんにちは、お嬢さん」とおっしゃいました。まるで先日の何もかもがなかったかのように、いつもと変わらぬ柔和な微笑み。
あぁどうか、そんなお顔をなさらないで下さいな。
せめてその微笑みに影の一つだに落としては下さいませんか。
私は忘れたくなどないのです。あの時のお言葉を、私は……
「良太郎さん…あの、私っ…先日の…」
途切れ途切れに続ける私の言葉に、良太郎さんは少し首をかしげるようにしてただ優しく微笑みます。その胸中に一体何を思っておいでなのでしょう。私がすべてを言いきらないうちに、「あの時の椿の花ですか」と落ち着いた声でおっしゃいました。
「あれは恙無く育っていますよ。今は無理でも、いずれ花を咲かせやしょう」
「い、いえ…違うのです…!」
私は顔をくしゃくしゃにしながら首を横に振ります。
胸からこの辛い思いがこんなにもあふれ出てしまいそうですのに、言葉はそれに反して喉の奥で止まってしまうのです。喉はまるで押しつぶされそうなほどに痛みます。私はそれを堪えながら、必死の思いで口火を切りました。
「良太郎さん……いけませんか?!あの……、あの私…っ…!」
〝私と良太郎さんとではいけませんか〟、そう続けるつもりでいながら、再び口は紡がれてしまいました。
どうして…どうしてその先を言えないのでしょう?!
歯痒い思いに体の奮えさえ感じます。
「心配には及びやせんぜ。あの椿はお嬢さんのものですから、必ず返しますんでさ」
「り…良太郎さん…」
もはやこれ以上何を申しましょう。はっきりと分かりました…、良太郎さんは先日のご自身の言葉に次ぐ私の返事を拒んでいらっしゃるのです。
良太郎さんはきっと、何もかも分かっておいでなのでしょう。私の思いも、私の立場も。すべてを踏まえた上で拒むのです。
財閥の一人娘と、まだ駆け出しの植木屋の弟子。
この溝がどれだけ深いものだというのでしょう。風に舞う花びらなら、どのような高い生垣も風に乗って越えていくというのに。
「…すんません、お嬢さん」
何も言えなくなってしまった私の耳に、ふとあの言葉と同じくらい神妙な良太郎さんの声が聞こえてきました。
「お嬢さんの大事な花を、僕が預かることになってしまって…」
私は思わず真っ赤な顔をあげました。とても哀しげで、とても柔らかな声が、私の頑なな心に染み渡ってきます。
「本当は…花の咲く前にお返しするつもりでした。花が咲いてしまうと、手放せなくなってしまうから…」
良太郎さんは自嘲的にほつりほつりと呟くと、そのまま天を仰ぎました。
つがいの小鳥が、その目線の先を楽しげに飛んでいきます。それを見ると良太郎さんは少しだけ微笑んで、もう一度私を見てくださいました。いつもと変わらぬ柔和な笑みが、私の心を締め付けます。
「…ごめんなさい……ごめんなさい、良太郎さん…」
こんなになってまで、貴方を選ぶことが出来ない私で。
いっそしがらみを全て捨て去って、ただの椿の花となれたなら、どんなに幸せだったことでしょう。
私は涙を滲ませて、胸の辺りで重ねた両手を固く握りしめました。もはや心はボロボロで、傷付いて傷付けて、一体何が正しいのかさえ分からなくなってしまいました。自由を好む良太郎さんがおっしゃったように、私も自由になれたなら…
「お嬢さん、以前僕は自由に咲く花が美しいと言いました」
良太郎さんはそんな私から一瞬目を離して、優しい声ではっきりとおっしゃいました。私はそのお声に、固く閉じていた目を開けます。
「だからお嬢さんが、今ここで伊集院の若旦那を選ぶのも、僕は一つの自由なんだと思いますよ」
その変わらぬ思いを示すように、良太郎さんは私に向き直って今まで以上に優しい満面の笑みを浮かべました。
私はそのお言葉に何もかも救われたような気持ちがして、どっと涙が溢れたのを感じました。しかしそんな大粒の涙に反して私の心は大変に穏やかで、口元にはうっすら笑みさえ浮かぶのです。
私は「終わった…」と思っておりました。あぁ、これで良太郎さんへの想いは最後なのだと。
けれどそう思ってさえ、尚笑みを浮かべることができたのは、良太郎さんがどのような決断をしたとしても私を美しいと言ってくださったからでした。私もそんな良太郎さんの自由なお志を、生涯忘れることはありません。
この世に常世の花があったとしたなら、それはきっと互いの心に咲いた変わらぬ思いのことを言うのでしょう。
良太郎さんはそんな私を見ると、安心したようにまた微笑みになって、何もおっしゃらないまま片付けた枝を抱えてその場を後にしようとなさいました。互いに少し俯いて、その顔を見合せないように。
けれど良太郎さんがすれ違ってすぐに、不意にばらばらと枝の落ちる音を聞いたかと思うと、背後からふわりと体を包み込まれました。あまり背の高くない良太郎さんの猫っ毛の先が、私の耳をくすぐります。袖をまくった腕が私の前で交差して、暖かな掌が両肩をしかと抱いています。
私は驚きのあまり、直立不動のまま何も言うことができませんでした。
「お幸せに、お嬢さん」
そう小さく呟いて今一度強く私の体を引き寄せますと、それからすっと離れていってしまいました。
良太郎さんが落ちた枝をもう一度拾いあげて藤宮の門まで歩いて行った後にも、私は体に残る暖かな感覚に、暫く微動だにすることもできなかったのです。
*******************************************
美しく咲けども花の、むじょうにも散るらむ。
無常だからこそ、花は何度でも美しく咲き誇ることが出来るのです。もし花があのまま常にあったなら、私の涙はこうして止むことはなかったでしょう。無常とは守りたいものであると同時に、自由そのものでもあるのです。
私はお二人のあの言葉を同時に噛み締めて、我が家の庭で祥助様をお待ち申し上げておりました。卯月の今は下旬となって、ぽかぽかと暖かな初夏の陽気に心が和みます。私の心は大変に落ち着いておりました。先日まであれほど祥助様にお会いすることを恐れていたことが、まるで嘘のように晴々としています。
〝花は咲く場所を選ぶこともできる〟…あの日ヨネが示してくれた別の道に首を振って、あるべき庭を選んだことに、後悔は微塵もありませんでした。ヨネもそれを察しているのでしょう。ただ何も言わずに、私の傍らに控えています。
「…お嬢様、お見えになりました」
ややあって掛けられた言葉に、私はゆっくりと振り返ります。葉桜の下、未だハラハラと舞い落ちる花びらの向こうに、待ち望んだ方の姿がありました。
「祥助様」
私がお呼びしますと、祥助様は緊張した面持ちでこちらに歩み寄りました。祥助様のお考えになっていることは少しだけ、私にも分かります。ですから私は祥助様に微笑んで見せました。いつの日も私を気遣って下さった祥助様に、私も同じようにして差し上げたかったのです。
「こんにちは、椿さん」
「こんにちは、祥助様。今日は突然に御呼び立てして申し訳ありません」
「いえ、滅相もない。またこのように庭園にお招き頂いて、とても嬉しく思います」
そう言って祥助様は、少しだけ弱々しい笑みをお浮かべになりました。そんな上背のある祥助様を覗き込むように、私はまっすぐに見つめました。
「本来なら桜の満開の頃に、この庭にお招きしたいものでした。今はもう葉桜になってしまいましたが、このような桜もお好きですか?」
「そうですね…、これもまたおつなものと感じます」
そのお言葉に私はにこりと笑みを浮かべて、「少し庭を歩きましょう」と申し出ました。ヨネは私たちを送り出すように、そのままの位置で深々と頭を下げました。
思えばこの庭を、祥助様と一緒にこんなに落ち着いていられるのは、初めてのことでした。花はこれほど美しかったものを、見上げずにいたことが大変に惜しく感じられます。
けれど来年もその次の年にも花は咲くもの。この次の折には心行くまで見上げようと思うなら、今は花の赴くまま、散らしてやるのが優しさというものでしょう。
「花の咲く頃は、祥助様とお会いした日のことを思い出します」
私は来年の満開の桜をまぶたの裏に描きながら、そう申しました。
それは梅の香に私を重ねて下さったことと同じように、花の咲く胸躍る様が祥助様を思い起こさせるのです。
まだありありと覚えています。あの高鳴る胸の感覚を、最初に感じたのは間違いなく祥助様でした。そしてそれを思い出させてくださったのは良太郎さん。
お二人との出会いがどれだけ大切なものであったか、今更ながら再確認するのです。
「覚えておいでですか?あの日、祥助様がお尋ねになったこと」
「えぇ、勿論です」
「私はあの時、結婚とは女の幸せだと申し上げました。それは今も変わらぬ思いでおります」
そしてそうであって欲しいと強く望むのです。花が何の束縛を受けずに、自由に咲き誇るように。
「けれどあれは私の言葉ではありませんでした。あの言葉は女中のヨネが私に言って聞かせたもの。私は言葉の意味を何も分かってはいなかったのです。〝結婚〟が女の幸せなら相手は二の次で構わないと、きっと心のどこかで思っていたのでしょう。とかく私も薄情な女だったのです。しかし…」
たった一本、椿の花を。
〝結婚〟という言葉にとらわれて現を抜かしていた私に、良太郎さんは真に人を想うことを教えてくださいました。今を以って尚、そんな良太郎さんを思うと胸が締め付けられます。どこかぽっかりと欠落したものを感じるのも確かなのです。しかしそれを失ってさえ、多くのものを得たと考える私がいるのでした。
「あの方は…良太郎さんは、純粋に〝椿〟としての私を好いてくださいました。私はその時初めて、人を一途に想うことを知ったのです。それまでの私がいかに小さなものであったか…、あの方にお会いしなければ今も分からないままだったでしょう」
あるがままを受け入れて、自由であることが美しいと、いつも微笑んでいらっしゃいました。いずこの庭を選んでも、花は花、少しも変わりはしないのだと強く請け負ってくださいました。
そんな良太郎さんを想う気持ちを、私は生涯忘れることはないでしょう。
「…行くのですか?あの…植木屋の青年のもとへ」
祥助様は躊躇いつつも、核心をついてお尋ねになりました。哀しげな切れ長の瞳が私をまっすぐに見つめます。
「いいえ」
私はゆっくりと、そのお言葉に首を振りました。
「いいえ、私はそんな良太郎さんを知ったからこそ、同じような心で祥助様に一生を添い遂げたいと、そう思ったのです」
私は揺るぎない瞳で、同じように祥助様を見つめ返しました。
最高の幸せなど、この世には存在しません。けれどこれこそが私にとって、円満の幸せなのです。
どうして誰かの幸せを奪っておきながら、自身に幸福が訪れましょう。それは私にも、祥助様にも、良太郎さんにさえ等しく言えることなのです。
良太郎さんはちゃんと分かっておいでだったのでしょう。自らは身を引いて、相手の幸せを感じることもまた一つの幸せなのだと。その上で私の背をそっと押してくださったのです。
私はそんな良太郎さんの優しさを胸に抱いて、いかなる時も私にまっすぐな祥助様の誠実なお心に応えることが、真の幸せなのだと思わずにはいられませんでした。
あぁ、そのことの何と有り難いことでしょうか。
普通の人がどちらかを無くしてしまうものを、私は二つとも手にすることが出来たのです。もしも一方が祥助様でなかったら、或いは良太郎さんでなかったら、有り得ぬ幸せだったことでしょう。
「…よろしいのですか?我が庭は椿の花を咲かせずにいた土地」
辛い思いをさせてしまうくらいなら、最初から植えぬことを望むのです。
「何をおっしゃいます。あれは言葉のあやと、そうおっしゃったではありませんか」
私はあの時は辛く聞こえたお言葉を、希望を添えて口にしました。祥助様は未だ不安の面持ちでしたが、次第にそれも晴れていくように見えます。いずこの庭でも花は花、そう…自由に咲くことが出来るなら。
「だから…椿でなくてもいいんです。藤の花でも梅の木でも、桜でもよいのです。あの剛健なお庭に、藤宮の花を一輪、添わせては頂けませんか?」
どうぞそのおそばに、「椿」という名の花を召しませ。
そう祥助様にお答えを委ねますと、小首を傾げるように祥助様のお言葉を待ちました。
今までいつも心に抱えていた「所詮…」などという卑屈な気持ちは微塵もありません。清々しい思いが心いっぱいに広がっているのです。
祥助様もそれがお分かりになってか、最初は呆気にとられた表情をなさりながらも、段々とそれを綻ばせていきます。
「是非そう致しましょう。椿さん、貴女に似合う庭になるように」
祥助様は安心したように、いつもの精悍な微笑みを取り戻しますと、私の手をそっと取ってくださいました。私も「はい」と確かなお返事を返して、祥助様の瞳の奥を見つめます。
それは葉桜の名残花がはらはらと散る卯月の終わり、この年一番の麗らかな日のことでございました。