第六章「箱庭に花」
私は本当に祥助様との結婚を心待ちにしていたのです。
そうすることが父や松江叔母様のお顔を立てることでもありましたし、何より私に誠実であろうとする祥助様のお心が大変に嬉しかったのです。お会いするたびに顔を真っ赤にして俯いて、口ごもってしまう私を、少しも疎むことなく支えてくださる、そんな私でも良いのだと…そう仰った祥助様の優しさが身に染みたのでした。
本来なら先日の伊集院家でのやり取りも、喜ぶべきはずのものだったのでしょう。御母堂様のお言葉に真正面から対峙してくださっていたのですから、私が一切合財に絶望する必要はないと分かってはいたのです。それでも刃は未だ抜けぬまま、私は祥助様にお会いすることに怯えておりました。
祥助様は大変にお優しい方ですから、私があの庭で全てを聞いたのだとお知りになったら、きっとご自分を責めてしまうと思ったのです。私はそんな祥助様のお顔を拝見するのが、とても怖くて仕方がありませんでした。いつかお越しになることを想像するだけで、胸が張り裂けるような思いだったのです。そしてそう思ったまま、私はまた庭で佇むほかなかったのでした。
そう…今までと同じ、何も変わらない。
あの時見合いの相手が自分だと言い出せなかった私と、何一つ違ってはいないのです。
気遣う心は、実際に気遣うことができてこそ意味のあるもの。いくら臆病な私が携えたところで宝の持ち腐れに過ぎないと、そう思わざるを得ませんでした。
けれど…
椿は綺麗に咲きますよ
そうおっしゃった良太郎さんのお言葉が、今の私を支えてくださっていました。そして思い出すたびに疼くこの心にも、十分に気がついておりました。
それは祥助様を想う時と同じ痛みでありながら、ずっと落ち着き払っていて心地よいもの。暖かくて柔和な陽の光。
あの帰り道でのことを思うと気まずいものもあるというのに、私はむしろ良太郎さんにはお会いしたい気持ちでいっぱいでした。良太郎さんも大変にお優しい方、あの帰り道でのことでお気になさることもございましょう。ですから〝私の気持ちは何とか落ち着きましたから大丈夫です〟と、一言御礼を申し上げたかったのです。
そうしたならば、あぁ…良太郎さんはどんな微笑みをお浮かべになることでしょうか。私は何度も想像してみたのです。
月日がまた少し経って、世間は桜がちらほらと咲き始めた弥生の終わりとなりました。
私はあの帰り道で「桜が羨ましい」と呟いたことを思い返して、桜を見上げておりました。小さな花が大樹にたくさん咲き誇っています。
それぞれが皆、違う思いで咲いてくる花だというのなら、美しくあろうと思って咲く花と、あるがままに自由に咲く花とでは、一体どちらが栄えるのでしょうか。…どちらが幸せなのでしょうか。
そんな答えは出ないまま、私は一人悶々としていたのです。
「…その答えは〝どちらも〟じゃないですかね」
七枝屋の弟子として再び藤宮を訪れていた良太郎さんは、私の問いにあまりにも簡単にそうお答えになりました。
「〝どちらも〟…ですか?私はてっきり、良太郎さんは後者をお選びになるのだと思いました」
「ははは、そうですね。どちらかといえば、そんな花の方が好きですけど」
良太郎さんは剪定の手を緩めながら、まるで子供のように朗らかに笑いました。
段々と暖かくなる日和、腕まくりをして作業する良太郎さんの背中を、私はただ見つめておりました。
単身痩躯の小柄な体も、木々を見つめるその時には大きなものに感じます。良太郎さんにとって庭の草花は、わが子のようであって、恋人のようであって、両親のようであって…。だからこそ、私は植木職人としての良太郎さんの眼差しを大変好んだものだったのです。
良太郎さんはあえてあの時のことを、一言だに口にはしませんでした。折よく数日会わなかったことで、落ち着いて互いを見ることができたからなのでしょう。
「あの時の椿はどうなりましたか」、そんな問い掛けでさりげなく話をするつもりでいたのですが、私はそんな良太郎さんのお気遣いに甘えて、何もなかったかのように振る舞いました。本当は少し痛みを思い出してでも、御礼を申し上げなければならないと感じていながら。
「何故どちらも綺麗とお思いなんですの?」
私はゆっくりとした口調で尋ね返しました。
瞳は未だ背中の「七」の文字を見つめたまま、次に切る枝を見極めている良太郎さんの邪魔にならないようにと。良太郎さんはまた小さく唸って、パチンと枝を一本切り落とします。
「そうですね…。美しくありたいと思うのも、あるがままにと思うのも、花の自由だからですかね。自由に伸び伸びとした植生の花ほど、美しいものはありやせん。勿論それには少しの犠牲も必要ですけど」
そしてまた一本、枝が木から落ちました。
少しの犠牲…私が払わなければならない犠牲とはどのようなものなのでしょう。せめて誰の心も傷つけないものであれば良いのですが。
「親方がこの庭を〝見事〟と言ったのがよく分かります。梅に桜に杜若、それに椿に金木犀…様々な花が互いの邪魔をすることなく、健やかに花を咲かせています」
良太郎さんは一度手を止めて、不意に庭を見渡しながらおっしゃいました。
「全て実母の手によるもの、ですわ。実母は大変に花を好きで、植生をよく知っていたのだと女中が申しておりました。実母に愛されて咲いた花ですから、それでより美しく栄えるのでしょう」
私はどこか他人事のようにそう言って、良太郎さんと同じように庭全体を見渡しました。
実母のいた頃の庭を、私もまだ覚えております。それはそれは見事なもので、絵にして永久に保存できたならどんなにか良いだろうと、幼心にも思わせるものでした。
けれどそんな実母は早世してしまって、花をあまり好きでない継母・総子さんと、それから私。花が限りを尽くしてしまうのではないかと思うこともありました。それでも誇れるほどに梅や他の花が咲くのは、偏に花を愛でる七枝屋の職人たちと、実母を偲ぶヨネがいてこそ。
しかし私がそれを口にすると、良太郎さんは「それだけじゃないですよ」とおっしゃるのです。
「花の美しさは伝播するんでさ。一人が美しいと、自然と周りも咲き誇る…そういうもんです」
「一人?」
「えぇ」
良太郎さんはいつにも増して真剣に、剪定の枝を見つめたままこちらを振り向きませんでしたが、私は良太郎さんの物言いに人知れず微笑みました。顔がほんのりと赤くなるのを覚えて、暖かな気持ちが心を満たしていきます。
「…僕が住み込みをしている七枝屋の庭は、まるで箱庭のように小さくて、親方が仕入れた苗を並べるとすぐにいっぱいになってしまうんですけど…」
「…え?」
剪定の手を止めて、それでも尚振り向かず、良太郎さんは不意に口火を切りました。幸せな心持ちにひたっていた私は、何故良太郎さんがそうおっしゃったのか分からないまま、ただ一言問い返しました。
今日の良太郎さんはどこかいつもと違います。何を考えておいでなのか、ふと趣旨が少し異なる話をなさるのです。
剪定が花にとって非常に大事なもので、切る場所を間違っては逆に悪い影響を与えてしまうのだということは知っていました。
しかしそれにしても、何かにとらわれて心がここにないような、とても大切なことに傾倒しすぎているような、そんな雰囲気さえ受けるのです。しかし良太郎さんはそれを承知していてか、尚も言葉を続けます。
「それでも今年、親方の許しをもらって花を植えようと思うんです」
「…まぁ…何の花を?」
私は良太郎さんの真意を探りながらも、とにかく尋ね返しました。良太郎さんがそうして欲しいのだということだけはわかったのです。すると良太郎さんは、今日の仕事のうちで初めてこちらに向き直って言いました。
「たった一本、椿の花を」
その顔にいつもの柔和な笑みはなく、初めて見るといえるほどに真面目な表情を浮かべていらっしゃいました。
私は良太郎さんが何のことをおっしゃったのかすぐには分からず、その真剣な眼差しを見つめ返すばかりでした。しかしややあって良太郎さんの真意がそれと分かって、私の顔が火の付いたように赤くなるのを感じました。
〝花を小さな箱庭に…〟それは、その心は…。
すると一瞬にして頭がぐらりと揺れたのです。天と地が分からなくなるほど、鼓動はドクドクとゆっくり大きく打ち鳴ります。
本当はそのまま良太郎さんのお言葉に、「はい」と大きく返事をしたかったのです。心がそうしたがっているが、とてもよく分かったのです。けれど喉の手前まで言葉が浮かんできたかと思うと、踏み止まって吸い込んだ息を止めてしまいました。
分かっています…分かっているのです。私には祥助様の元へ嫁ぐ以外にないのだと。
けれどいつの時も私の心を和ませて下さったこの方の、そんな言葉を耳にしては、心が大きく揺らいでしまうのです。今何もかもを忘れて良太郎さんの言葉に頷けたら、どんなにか救われることでしょう。
しかしどうして私に祥助様を裏切ることができるでしょうか。あの誠実な心根の、精悍な眼差し。全てを委ねたいと思ったことに偽りなどないのです。
それなのに…!
「…すんません、お嬢さん」
不意に良太郎さんはいつもの微笑みを取り戻して、枝切り鋏を帯にねじ込むと、落とした枝を拾い集めました。
その笑顔が…再び背を向けた仕草がどこか哀しげで、私の心を締め付けます。
私はそんな良太郎さんに何も言うことができませんでした。飲み込んだ言葉に呼吸はいまだ止まったままで、疼く心に目には涙が滲むのです。良太郎さんはそんな私を少しも責めることなく、ただいつものように剪定の後片付けを進めています。そして集めた枝を拾い上げて小脇に抱えると、そのまま振り返ることなく…言葉を発することもなく、私の前を後にしようとなさいました。
「待って…待ってください!良太郎さん…!」
私は思わず良太郎さんを引き留めてしまいました。掛ける言葉など何一つ携えてなどおりませんでしたのに。
しかし良太郎さんは私の言葉に踏み出した足を一歩でとどめると、ややあって口火を切りました。
「そういえば…」
良太郎さんはゆっくりと目線をこちらに向けます。私は未だ鼓動が大きいまま、泣きそうな気持ちを抑えることができません。
「あの椿の花は、元気に育っていますよ」
いつもと変わらない柔和な笑みを浮かべて、良太郎さんはさりげなくそう仰いました。
〝だから大丈夫ですよ〟と良太郎さんが再び背を押してくださったのだと思うと、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、「ありがとうございます」と涙ながらに呟くばかりでございました。
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しがらみが家にあるのだと思うと、あれほど張り詰めるような気持ちだった女学校は、打って変わって気の休まる場所のように思われました。私の結婚は皆の知るところではありましたが、いかんせん祥助様を知ってはいても、良太郎さんを知らぬ学友たちでしたから、その純粋な羨望の眼差しに、自分の恵まれていることを再確認する毎日でした。
痛む心も贅沢品と思えば、これ以上の慰めはないでしょう。
思えばあの宇治十帖の浮船も、同じような心持でいたのでしょうか。非の打ちどころのない、全く異なる性質の薫大将と匂宮の間で揺れ動いていた、ふらふら惑う小さな船。さしずめ私は咲くのを躊躇ったまま、風に吹かれる小さな蕾といったところなのでしょう。
あの日、私の心を初めて高鳴らせてくださったのは祥助様でした。私は本当に…本当に嬉しかったのです。あの甘く疼く心を愛しいとすら感じました。しかし今をもって、私の心の多くを預けてしまったのは、他の誰でもない良太郎さんなのです。
まったく雰囲気の異なるお二人と、それから私。
宇治十帖の浮船は誰をも選べず身を投げて、助かった後も決して愛しい二人に逢瀬の橋を渡らせなかったといいます。…それはまさに夢の浮橋。
あぁけれど、私は一体どうしたら良いというのでしょう。浮船のように、私はどこへも行けないのです。
私は蕾、椿の蕾。
このまま枝から離れてしまったら、二度と咲くことはできないのです。現状は八方塞がりのように思えました。いっそ今すぐ種となって、どこの庭にでも行けたなら、こんな私でもまた違った花を咲かせることができるのでしょうか。
私はそれを思いながら、重い足取りで女学校から帰っていたのでした。
「椿さん…!」
そんな風に心ここにないままに歩いていた私の耳に、不意にあの時と同じ声が聞こえて参りました。
遠くから近付いてくる足音と、低く響く美しいお声。間違うことなく祥助様…途端に足のすくむ思いがして、私はその場から微動だにすることができなくなりました。呼吸はひどく浅く早いものになります。
「良かった…やっとお会いできました」
そう言って走り寄る祥助様に、私は一瞬にして救われた気がしました。詰まりそうだった呼吸はふっと楽になって、徐々に視点も元に戻っていきます。これほどまでに懸命に会いに来て下さったことに、祥助様の変わらぬ御心を拝見したと思ったのです。
けれどそんな思いに反して、私はぱっと目を逸らしてしまいました。先日の御母堂様のお言葉がありありと私の頭に甦ってきたのです。
頭の中から響いてくる声は、どのようにして遮るものなのでしょう。耳をふさいでは逆に大きく反響してしまいそうで、かといって頭を振っても出ていくことを知りません。ここ数日、私はその良い方法を探しては頭を垂れておりました。
忘れたくとも、どうしても忘れることができません。祥助様はそんな私をご覧になって、全てを察してしまったのでしょう。とても哀しそうなお声で「…申し訳ありませんでした」と呟きました。
あぁ…違うのです、そうではないのです。
私は祥助様のそのようなお言葉を聞きたいとは、露ほどにも思っておりませんでしたのに。
それならばいっそのこと、あの時の何もかもをなかったことにして、いつものように優しく精悍な微笑みを見せていただきたいものでした。そうしたならば、この重い気持ちの全てを忘れることもできたでしょうに。
「…今更母を許してくださいとは申しません」
祥助様は未だ低い声を保ったままおっしゃいました。
「けれどあれも、決して意地の悪い女ではないのです」
「…分かっております」
分かってはおるのです。あの御母堂様の言葉の真意は、決して私個人を疎むものなどではなく、偏に祥助様を思うが故であったことは。
どうして子を思う母の大きな愛情に、私が敵うことができましょう。元より私にはそれに勝るものなど持ち合わせてはいないのです。
私はそう思うと、ひどく悲しい気持ちになりました。そしてこのように悲観的に考える自分に嫌気がさしてしまいました。
ヨネはよく〝謙虚と卑屈は全く違うものだ〟と申しておりました。謙虚は美徳だけれども、卑屈は相手を困らせただ自らを小さくしてしまう悪いことだと、常々私に言って聞かせておりました。どうせいつかは散るものと、タカをくくって咲く花よりも、散ることを知っていて尚、一時でも美しく咲こうとする花の方が、ずっと大きな実をつけるのだと言うのです。昔から消極的に考える私を、ヨネはずっと危ぶんでいたのでしょう。
あの日祥助様とお会いして大きく高鳴った胸に実ったものを、私は今自らの手で潰してしまっているのだと感じて、ひどく締め付けられるほど心が痛んだのでした。その実の種が落ちて息づき、再び芽を出すのだとして、また同じ庭に実りたいと願うものでしょうか。
私にはその答えが分かりませんでした。いえ、祥助様ならばその種をお拾いになって、再び花の咲くよう世話をしてくださるとは分かっていたのです。
分からないのは私の心。恥ずかしい話、私は自分の望むものを見出だすことが出来ずにいるのです。
私はあまりの情けなさに溢れ出ようとする涙を、必死になって堪えました。ここで泣き出しては、芯の弱い女と思われます。あの雄々しい庭を持つ伊集院家には、そんな女はきっと不要のものでしょう。ですから強くありたかったのです。私は泣きたくなどなかったのです。
それなのに…
「伊集院の庭は…」
不意に私から目を一瞬だけ伏して、祥助様は呟くようにほつりと口にしました。その言葉に私も怖ず怖ずと顔をあげ、祥助様を見遣ります。涙こらえる眉間に、強くしわを寄せながら。
「伊集院の庭は、とても武骨で華やかさに欠けていましたでしょう?」
思えばそのお言葉どおり、祥助様の家のお庭は松や竹といった常緑の、雄々しい木々で溢れておりました。おそらく武運を祈ってのことなのでしょう。枯れることのない常緑の葉は、武家に常勝をもたらすのです。
これこそ日本庭園の神髄と思わせるほどに完璧な、花のない庭に僅かな違和感を覚えつつも、或いはそんな庭も好きになれるものと思っておりました。私のような者が好きになっても良いものと。
けれど椿を拒む庭に、どうして芽吹くことができましょう。花は咲く場所を選ぶのです。選ぶからこそ、咲けない庭もあるものと知りながら。
「一寸の狂いもなく、常に同じくあり続ける堅い庭…けれど、そんな箱庭のような出来合いの我が家の庭にも今年、花が必要だと思ったのです」
ふと期せずして良太郎さんと同じような言葉を聞き、私は俯きかけた顔をもう一度上げました。この瞳に映るのは、未だ少し哀しげな、けれどその中にも優しさを秘めた祥助様。
私は祥助様の言わんとするところが分かりつつも、あえて同じように震える声を律しながら問いかけました。
「どのような花が…ですか?」
私にとってはそれが精いっぱいの言葉でした。すると祥助様は少し躊躇いがちに、慎重に言葉を選んでいるのが分かるようにおっしゃいます。
「そうですね…出来れば藤宮のお庭から頂戴できませんか?梅の香りのする、たった一本の美しい花を」
それを聞いた途端に、私の胸は強く締め付けられるものを感じました。
以前私に梅の香りをあててくださった、あの時の祥助様のお言葉が蘇ってきます。決して「椿」という名称を上げずとも、その意味合いが良太郎さんのおっしゃったことと寸分も違わぬものだとは分かっておりました。そしてあえて椿の花を引き合いにださなかったことが、私と御母堂様の両方を気遣う祥助様の御心なのだと。
御母堂様があのようにおっしゃってさえ、尚私を伊集院家に迎え入れて下さろうということが、とても嬉しかったのも確かなことではあったのです。けれどそれを思えば思うほど、良太郎さんの言葉の方が何度も胸中で繰り返されて、私は何も言うことができませんでした。
そしてもうあれきり泣きたくないと思っていたにもかかわらず、またぽろぽろと涙が零れ出たのでした。