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まことの道

作者: 神井

 悟がその村を訪れたのは、八月の終わりだった。

 大学で郷土文化を専攻する彼は、卒論の題材を探して長崎県の旧跡を巡っていた。たまたま手にした郷土誌に、名前だけ載っていた山中の集落──地図にはあるが訪問記録のほとんどない村──に、奇妙な引力のようなものを感じたのだ。


 バスを降りた時点で、すでに日は傾いていた。舗装の甘い坂道を歩きながら、悟は地図を見て眉をひそめた。

 「……思った以上の田舎だな……」

 携帯電話の電波は届かず、周囲に人の気配もない。泊まる場所もないかもしれない。そんな不安がよぎった頃、畑で草をむしっている初老の女性を見つけた。

 「このあたりに、宿のようなものは……」

 悟の問いに、女性は日焼けした手の甲で額の汗をぬぐいながら言った。

 「宿? ほんなら、うちの息子がやっとる旅館に泊まったらよか。すぐそこばい。古しかけど、すずしかね、風がよか」

 案内された旅館は、杉板張りの木造二階建て。軒先に吊られた風鈴が、風に揺れて小さく鳴っている。柱は古く、扉の滑りも悪いが、どこか品のある建物だった。

 女将は穏やかで、部屋も風呂も清潔だった。夕食には、山菜の天ぷらと煮物、それに焼き魚が出た。田舎の宿にしては、過剰なほど丁寧なもてなしだった。


 夜九時。

 布団に入った悟は、明日の行き先を思案していた。観光ガイドには載っていない土地だが、古地図を調べれば何か手がかりが得られるかもしれない。そう考えながら目を閉じようとしたときだった。

 ……声が聞こえた。

 外から、子供の呟くような声が。途切れ途切れに、しかし律儀に続いていた。

 気になって、悟はそっと障子を開けた。縁側から庭を見下ろすと──月明かりの中に、ひとりの少女がいた。

 白いワンピースを着た、小柄な少女だった。髪は肩のあたりで二つに分けて結ばれている。十二歳ほどだろうか。彼女は地面に何かを並べていた。……貝殻だった。

 ひとつ、またひとつ。少女は小さな手で貝を並べながら、何かを呟いている。

 「……あたしのむね、くるしゅうてなりませぬ……てんにおわす、ぱてる・のすてる……」

 少女は、手のひらに載せた白い貝殻を見つめた。

 「まいにち、ひそかに祈れと……ぱてるの御名によりて、おんめさま、あーめん……」

 悟には、何かの古い唄を口ずさんでいるように聞こえた。

 「……どちりな、きりしたん、われ信ず……くるしみも、いのちも、天の栄えのため……」

 それは遊び歌のようにも聞こえた。だが、どこか調子が整いすぎていた。まるで、何かの祈りのようだった。毎晩同じ手順でこなすことを決められているような、まるでそれに背けば罰でもあるかのような。

 悟は声を立てずに少女を凝視し続けた。ただの子供の遊び……のはずだ。けれど、少女の一挙手一投足には、無意識とは思えない厳かな規律があった。

 ふいに、少女がこちらを向くような気配がして、悟は慌てて障子を閉めた。

 あれは──見てはいけないものだった。そんな感覚が、肌に残った。


 ***


 朝、悟は冷たい空気で目を覚ました。布団は湿っていた。見上げた天井は抜け、柱は崩れかけていた。

 ……昨夜とは、明らかに違う部屋にいた。正確には、同じ場所にあるはずの部屋が変質していた。畳は朽ち、障子は破れ、壁には苔が這っていた。まるで何十年も放置された空き家のようだった。

 旅館の廊下も、同じく荒れていた。昨夜まで確かにいたはずの女将も、スタッフの姿もない。帳場にはホコリが積もり、帳簿も存在しなかった。風呂場の木戸は外れ、脱衣所の籠は朽ちていた。

 悟は逃げるように外へ出た。村の中心まで走り、道路脇にトラックを止めて話していた二人の男に声をかける。

 「すみません、あの、山の方に旅館が……昨夜泊まったんですが……」

 男たちは一瞬だけ顔を見合わせた。そして、どちらともなく笑って言った。

 「……旅館? あんた、夢でも見たとじゃなかと? そんなとこ、この村にはなかよ」

 悟は、彼らの言葉の裏に何かを感じた。嘘をついているのではない。黙っていることを守っているのだ。そんな気配があった。

 村人たちが語らない何か。それを、少女は「遊び」のかたちで今も受け継いでいたのだろう。

 バスは昼に一本しか来なかった。悟はバス停で黙って時間を待ち、エンジンの音に救われるように乗り込んだ。

 車窓の向こうに、あの村の風景がゆっくりと遠ざかっていく。

「……えっ……」

 バスのなかで、手荷物を確認していると見覚えない貝殻が一つ、ナップザックの中に入っていた。それには「Deus(神)」と書かれていた。

『てんにおわす、ぱてる・のすてる……』

 貝殻を並べる白い小さな手とあの無邪気な遊び唄が、悟の脳裏にいつまでも焼きついていた。




fin.

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