第十三話「ある日の日常 〜平凡な小競り合い〜」
ギリガリボッワアアバガンゴンッ。
扉が大袈裟に前後する。風に揺られた木製の引き戸は、内臓を引きちぎられた断末魔の叫びをあげ、そして俺はというと睡眠から目が覚めていた。
二時間目の授業の途中から手放していた意識が、俺の脳に意識が返却される。そう脳という郵便受けに。
まあ、つまり目が覚めたのだ。
「う、ぐがあ。ふわ。はぁ。」
ぼーっと靄がかかった視界はだんだんと鮮明になっていく。
ひまわりの種が外の世界へ芽を出すように、俺の視界は外の世界に旅立つ。
(何その比喩。寝起きだったとしても意味不明すぎる。一応、目と芽が欠けてあるぜ。)
詰まるところ視界に蔓延る靄はなくなり、目の前にある鼻を視認できるようになったってことだ。
(え?鼻?)
「35番起きろお〜〜」
「へ、は。ふぅわい!?」
(何なに。何なの。)
俺の視界には大きな鼻が映っていた。
それ以外は全部隠されて映っていないレベルで、俺の目とその大きく見える鼻先は近い。
(これが本当の目と鼻の先かよ。)
「ちょっと何?早く退いて欲しいんですけど。」
俺は言いながら寝ぼけ眼を擦り、背中を引いて、距離を取る。
そうするとあら不思議。俺の視界を覆っていた大きな鼻はなんと人間のお鼻だったらしい。
人間は人間でもそこにいるのは、女教師だ。俺にやたらとまとわりつく優しい先生。
(ゴリラとか、チンパンジーとかの鼻だと思った俺を許して欲しい。ていうか、普通考えられるのはお鼻じゃなくて、お花の方だろう。レンゲソウとかスイレンとか。起きたら目の前に大きな人間の鼻があるとか、何そのホラー映画。)
「ごめんね、でも君が悪いんだよ。」
おそらく彼女は、俺が授業中に寝ていたのを怒るのだろう。俺は高校生で大人の階段を登っている段階なので、小学生のようなことは言わない。だから優しく聞いてあげるのだ。
「すいません俺、何かしましたっけ?」
俺がもし小学生の頃だったら、こう返していただろう。
あなたが何回泣いて怒って叫んで、何回この世界に絶望した時のことですか?
あなたが俺に叱る意味はあるんですか?
それをわざわざ言って、世界はより良くなるんですか?
ただのあなたの自己満足ですよね?
言っとくけど、こんなのはあなたの成長になりません。
わかります?この低脳が。早くどっか行け。
これは小学生の俺がするだろう返答だ。
きっと小学校の先生はこれを言われて、何?この小学生のチビ。青二歳でもない、青マイナス十歳のくせに調子乗んなよ。とか思うでしょう。
その後、その先生はその子を無視するようになりました。
そう、これ実体験。これ実際の俺の過去なんだよなぁ。
俺どんだけ嫌な奴なんだよ。
そうしみじみと、悲しげな様子で物思いに耽っていると、先ほどの俺の疑問に対して、予想通りの返答が返ってきた。
「あ〜もう。授業、寝てたらダメでしょ。あなたは指定校推薦受けたいんでしょ。ならもっと頑張らないと。」
(やっぱそれについて怒るよね〜。見え透いてるんですよ、そんな言葉。)
予想済みの回答には準備済みの返しが最適だ。俺はこの説教の立場をひっくり返すため、練りに練った回答を告げる。
(さあ、屈せよ。これでラストだ。発動!『定められしanswer』!!)
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「確かにそうですね。けど先生は、哲学杯の参加と引き換えに、内申は期待してくれと言いましたよね?」
俺の差し迫った言及に先生の顔はこわばる。まるで、親から隠そうと鷲掴みにされた0点のテストのように。
(っふ、これで決まりだな。立場逆転だぜ。畳み掛けるか。)
「えっと、もしかして忘れてたんですか?先生っていつもそうですよね。最初の時も、生徒である僕に机を運ばせたり。おてんばとか天然とかって、バカって意味なんですよ。わかってます?」
先程まで子猫のように強張っていた彼女の顔は、俺の追求を聞くと同時に口角が上がる。その底知れぬ笑みが俺の精神を崩壊させる。
(何?墓穴を掘ったのか?まさか、この俺が?)
(ねえ、35番。私の必殺技受けてくれる?お前のその答えを待っていた、発動!『仕組まれし漆黒の布石』!)
彼女がそう言った気がした。
(何だよその必殺技。)
案の定、彼女は不適な笑顔で俺に問う。
「でも初めて出会った時、君は私のこと同級生だって勘違いしてたよね?君、お馬鹿さんだよね。だから授業中爆睡していても内申は大丈夫とか、頭の悪いことを信じてたんだよね?ねぇ。どっちの方が馬鹿なのかな?」
ふふんっと彼女は勝気な顔で俺を見下しながらそう罵った。
(なん…だと…?)
「え、あ、えと…。ごめんなピャい。」
俺はこれ以上追求されて精神崩壊してしまうのを避けようと早々に戦線を放棄する。
「ほんと、わかったらいいのよ。今度からは気をつけてね。」
「は、はあ。すいません。」
(けど、俺は馬鹿じゃねえ。馬と鹿さんに謝れよ。馬鹿は動物だ。俺は動物じゃない。だから俺はバカの方が似合いますよ。)
(何その自己嫌悪。とは言っても、俺をここまで言いくるめたこの代償は高くつくぞ!)
来るべき復讐のゴングを待ち遠しくしながら、俺はルンルンとステップを踏んで去っていく女教師の背中を睨む。
と、休み時間の終わりを告げる終焉のチャイムが鳴り響いた。
バーンコーン、バーンコーン。
(晩婚、晩婚って。これ放送してる人はアラサーへの恨みがあるのか?)
女教師は教室を出ていき、教室と廊下の壁に嵌められた窓から彼女の横顔が映る。
明らかに楽しそうにスキップしていた。まるで無垢な少女のよう。
その無邪気さに俺の頬は緩んで、一つの実感が湧く。
「やはり先生は悪い人じゃない。」
俺の実感は確かに俺の実感だ。
他の誰の実感でもない。そう俺は実感した。