その四
夏の終わり、という曖昧な言葉はしかし、貴族の間で明確に一つの宴を指していた。
右大臣家で開かれる夏に別れを告げる宴は、右大臣の命と言われるほど盛大に毎年開かれる。家の威信をかけた、と言って過言でないその宴には條子のツテで父や私も招かれ、もはや公式行事に等しいものだ。
当の右大臣は、自分の家の宴がそう呼ばれることに大層喜んで年々内容を派手にしていた。
去年は、庭に紙でできた桜を1本立てて驚く客の姿に気をよくしていたと聞く。
「今年は何が飛び出すのやら」
「去年の桜に及ぶものは、もう出せぬのではと思いますが…」
「そう言われるのを見越して、一層張り切る男だろう、あいつは」
宴当日の昼。自分の房で着付けをされながら春桜と言葉を交わす。
去年の宴には春桜を同行させた。春桜、という呼び名だから、というだけではないと思うが彼女は桜が好きだ。昨年の紙桜を見てうっとりとしていたのを覚えている。
「あのときの枝、まだ持っているのか?」
「もちろんです!あんな見事なもの、そうそう捨てられません」
宴の翌日には潰してしまうようだったので、帰りに一枝手折らせてくれるように言って春桜にあげたのだ。喜びようは大層なもので、泣きだしそうなほどだった。
「今年も、何かきれいな花があったらもらってこよう」
「本当ですか?」
ぱ、とうれしそうに目を輝かせる春桜。しかし、さすがに無礼と思ったのかすぐに顔を引き締め直した。
「あ...もちろん、ご無理のない範囲で...」
「もちろん」
お早いお帰りをお待ちしています、とごにょごにょ言う春桜がかわいくて、つい笑みがこぼれた。
顔を赤くしたままの春桜が、しかし手付きだけは確かに装束を整えはじめる。そこへ、立てた几帳の裏から声がかかった。
「姫様、準備整いました」
「ここへ」
応えると、冬椿にもろもろ整えられた秋葉があらわれる。
つい、ほうっとため息が漏れた。
「お前が好まないのは承知しているが、つくづく着飾るのが似合うな」
私の言葉に複雑な顔になった秋葉は今、夏の重ねに美しい紅の着物を仕込んでいる。晩夏の夜にふさわしい、どことなく秋を感じさせる装いだ。私の装束にも同じ紅が仕込まれている。赤みがかって少し波打った秋葉の髪も丹念に櫛でとかされ艶めいていた。
「秋葉様は本当に、強い色が似合われます」
「春桜の見立てが良いのでしょう。私には衣の色など選べませんもの」
少し恥ずかしそうに言う秋葉がなんだか珍しく、微笑ましい。こういうときの秋葉には年上だと知ってはいるが、撫で回したくなるようなかわいさがある。
滅多に見られない、恥ずかしがる美人をほほえましく眺めていると、再度几帳の裏から声がかかった。
「そろそろおいでになる時間ですが、お支度の具合はいかがでしょうか?」
「もう終わります!」
春桜が袴の紐から着物の裾までくるくると動いて点検し、うなずく。
「仕上がったようだ。几帳を退けてくれ」
「はい」
外には声をかけてくれた夏橘だけでなく、冬椿も控えていた。
さっと避けられた几帳を抜けて、表にでる。外はもう夕方で、赤と青が繊細に混じりあった空が美しい。
「こちらを」
夏橘が、扇を手渡してくれる。
「晩夏の宴にはお前を、と話していたのに、すまぬな」
「いえ...秋葉さまのお気持ちもわかりますし、私もまだ右大臣邸に何事もない顔で入る覚悟はできていないようです」
秋葉がいくときいて少しほっとしたのだ、と弱く笑った夏橘の手を握る。
「いつか、お前を伴っていきたい。私の席から見る晩夏の宴はとても美しいから、一度見せたいのだ」
「...はい、いつか」
驚いたように目を開き、それから笑った夏橘。その手からそっと、扇を受け取った。
牛車に乗って到着した右大臣邸は、すでににぎわっていた。案内を受けて通された先には、とりわけ豪奢な几帳がおかれ、正面の御簾からは庭が見える。どこからともなく音楽が流れ、しかし静かに押さえられている。
「右大臣の、宴を取り仕切る技量だけは心から尊敬できるところだ」
「姫様取り仕切られる宴もこの上なく思いますが...」
「いや、豪奢さと騒々しさの中庸をこれほどまで完璧に取るのは無理だ。」
私も姫という立場上、面目のためもあって時折宴を催す。が、行うのはいつも冬だ。
理由のひとつには、こもりがちで沈みがちな皆の心持ちを上向けたいと願う気持ちもある。だが、夏の暑さをそのまま原動力にしたような賑やかな宴を催す勇気がないと言うのも大きいのだ。
「私は、室内で各々が持ちよった絵巻物や書を寄せ合い、あれこれと話すような宴しか開けない」
もちろん、趣向は凝らす。様々に場を飾り立てもする。しかし、この晩夏の宴のように人を呼ぶ場所もツテも理由もなく、宮中の女性を集めて語り合う面が強い。それに、條子は一度も私のもよす宴に来ないのだ。技量が足りないとしか言えない。
もし、私が東宮に、その後帝になるのなら。人を集めて宴をすることもあるだろう。
「秋のうちに一度ぐらい、宴を催そうか」
「ご随意に」
人手や様式をどうするか、とぼんやり考えはじめた私に、秋葉が耳打ちする。
「姫様、主上がおいでになりました」
顔を上げると、御簾の向こうを父が歩いていくところだった。
父の姿は流石の一言で、秋を強く意識した赤い衣は燃えるようだ。あちこちに金で刺繍がほどこされ為政者の威厳を醸し出している。
父は、私のいる御簾の前を通る際にチラリと視線をおとした。その視線の先には、私がわざと出した着物の裾。その色は、夏を惜しんで淡い青。
そう。私が羽織っているのは黄丹ではなく、青の着物だった。
見た父の瞳のおくが、一瞬大きく揺れた。
主賓である父の着席を合図に、宴が始まった。
父の前で奏上される歌、踊り、贅を凝らした品々。そのどれもをにこやかに受け取りながら、しかし父の瞳は笑っていない。私の今日の装いに原因があるのは明白だった。
父への披露が一段落したところで、右大臣が父の前で礼を取った。
「今年も、主上に宴へのご臨席を賜り、恐悦至極に存じます」
「右大臣家の晩夏の宴は、この時期の恒例。毎年、今年はいかなる宴を催すのかと言い交わす声はよう聞いておる」
「誠にありがたいことでございます」
「それで、今年は何を見せてくれるのだ?」
期待していいのだろうな、と父が問う。威圧感たっぷりのその声に、しかし右大臣は引くどころか誇らしげな顔で応じた。
「中宮様のご懐妊近く、めでたき日の近きこの宴にふさわしきものを、と準備いたしました」
そういって、脇に控えていたものたちを見やる。彼らは視線を受けて、黒塗りの大きな箱を持ってきた。
「中宮となり、国母とならんとしていても、あれは右大臣家の娘。心配する親心は深いものです」
右大臣の前に捧げ持たれた黒塗りの箱。その蓋が開かれ、まばゆい金色が目に飛び込んだ。
「姫様、あれは...」
「ほんに、夏橘をつれてこなくてよかった」
右大臣が箱の中に手を突っ込み取り出したのは、金の衣だった。
あの日、桐の箱から黄丹の衣が取り出されるのを見たのとよく似た光景。
「未来の東宮に、ふさわしい装束をお贈りいたします」
満足げな様子で右大臣が衣を父の前まで持ってくる。
横目で伺った父は、見たこともないほど不機嫌で眉間に深いシワを寄せていた。
「秋葉、扇を」
「はい」
扇を受けとり、御簾の境目に差し込む。袖で顔を隠しながら、一気に開け放った。
右大臣が驚きと、後に怒りの表情で私をみた。政治の世界を何も知らぬ、うしろだてもない小娘が何を、と思っているのがわかる。
私は彼を無視して、父の前に礼を取った。
「御前、失礼いたします」
「許す」
「私からも、夏の衣をお贈りしたく存じます」
私は、一番上に来ていた衣を脱ぐ。夏の色である青色が脱ぎ捨てられ、その下に来ていた黄色が顔を出した。
「併せて、謹んで東宮位への指名をお受けいたします」
右大臣が大きく息を呑んだのが分かった。側に歩み寄り、その手から衣を受ける。
声を出せ、と強く自分に命じる。右大臣だけでは足りない。全員に、刻み付けるように。
「東宮としての前途にこれほどまでご期待いただけていること、ありがたく存じます」
右大臣は、呆然としていた。
なにが起きたのか分からない、という顔。まるで見えない場所から指された、と言うような驚愕がその目に浮かんでいた。
右大臣から目を離し、振り返る。
父は静かに、御簾の向こうから私を見つめていた。
「ここへ」
御簾の隙間から差し出された扇に呼ばれて、側まで行く。
腰を落ち着けると、静かな小さい声が私だけに問うた。
「本当に、いいのだな」
「はい、後悔いたしませぬ」
「よし」
父が静かに、しかし確かに嬉しそうな声で言ったのが聞こえた。