その一
夏がやってきた。
強い日差しがくっきりと美しい影を作り、御簾の中からそれを眺めるだけで楽しく日中を過ごせてしまう。人前に出られるように重ねた着物で太陽の下に出れば、きっと溶けてしまう。
暑さがマシになる夜には度々管弦の遊びやら星見の宴やらが催された。内親王の立場もあり、私もいくつか招かれて参加した。
この時期の宴は日中の憂さを晴らすかのように贅がこらされて美しい。こういう物に触れる機会が多いのは宮中に生まれてよかったと思える数少ない機会の一つだ。
数多い宴のおかげで、女房に作法を教えたりふさわしい着物を用意したりとなんだかんだ日中も忙しい。今年の宴にはこういった事に不慣れな春桜と、内親王の女房という立場では初の参加となる夏橘を交互に伴って出ることにしている。参加できない秋葉と冬椿は世話好きな性格もあって心配が募るらしく、あれこれと細かく教えていた。学ぶ春桜と夏橘に負担でなければいいが、と伺うが、2人もそれなりに楽しそうにしているので安心する。
そんな夏のはじめ、夏橘を伴って出た初めての宴で父に側へ呼び寄せられた。
公の場なので、御簾の中で几帳を挟み礼を取る。
「ご機嫌麗しゅうございます、御上」
「ああ。そなたも壮健で何よりだ」
几帳越しにも、にこやかに笑ったのがわかる。夏の暑さや庭に咲く果実などの和やかな話が振られ、こちら側からもゆったりと返した。
しばらくそうやって話したあと、不意に父の視線が私の後ろに動いた。
「して、そなたが夏か?」
「は、はい…!」
なるほど、このために呼んだのかと合点がいく。おそらく、ずっと直接話をする機会を伺っていたのだろう。
思いがけず帝から声掛けを受けた夏橘が緊張した様子を見せる。今まで、條子の代理に立って話したことはあっても、個人として声かけを受けるのは初めてらしい。
対する父は余裕の笑みを返した。
「よく、励め」
「はいっ…」
恐縮し、体を低くする夏橘。その様子をじっくりと眺める父。
夏橘が女房に決まったタイミングで、誠心誠意私に仕えてくれることになった、とは言っておいたのだが。大方信用していなかったのだろう。まあ、気持ちは分かる。なんせ今一番父が警戒しているであろう右大臣方から送り込まれてきた女房だ。私が直に話して信頼することにしたとはいえ、人を見る目が父にかなうはずもない。
父は夏橘を試すように眺めて、それからふっと顔を緩めた。どうやらお眼鏡にかなったらしい。
今まで宮中の苛烈な人間模様をより分けてきた父が太鼓判を押したのなら安心である。
夏橘の鑑定を終えた父は、私に目を向けた。
「時に、娘よ」
「なんでございましょう」
「お前も成長して丈に合わぬ着物もあろう。近く、新しい夏の着物を送ろうと思っている。夏の終わり、右大臣が一際盛大にやろうとしている宴があろう?そこに着て参上せよ」
私の着物に気を配るなど、まったく父らしくない所業だ。ましてその着物をどこに着ていくか指定するなど。
間違いなく何かある、と直感する。
「ありがたく存じますが…なぜ、突然?」
「単なる親心だ」
信じられない。
よりにもよってこの父から、「単なる親心」などというもので指示付きの贈り物が届けられることなどありえない。
「…真に?」
「届けばわかる。しばし待て」
にやりとした父の表情に、嫌な予感がする。しかし、話さないと一度決めた父を問い詰めたところで、返事が返ってくるはずもない。宴の席でいつものように砕けた調子で真意を問うことも難しい。
仕方なく私は会話を切り上げ、夏橘と顔を見合わせたのだった。
「何であろうな」
「何でございましょうね?」
「…とてつもなく嫌な予感がする。戻ったら三人にも知らせておけ」
「はい」
堅い顔で夏橘が頷いた。
一部始終は夏橘も見ていた。同じ女房として、3人には私よりよほど上手く説明してくれるはずなので一旦よしとする。
父のために、楽しい宴を重苦しく感じるのも癪だ。それに、こんなことで重苦しい顔をする自分でいたくもない。
その夜は、気がかりを心にしまい込んで宴を楽しんだのだった。
かくして、予感は的中する。
宴の翌日。話した時点で既に準備してあったのだろう。品質に対してあり得ない早さで届けられた贈り物を前に、私は絶句した。
「…ひ、姫様っ!」
「夏橘、落ち着け」
贈り物から目を離せぬまま、指示を請うように小さく叫ぶ夏橘を制す。
「しかしっ…」
「そこにものが存在する以上、慌ててもどうにもならん」
目の前には開けられた桐の箱。右には開けた蓋を抱えたまま慌てる夏橘。
「姫様、文を?」
「いや…秋葉を呼んでくれ」
この場ですら冷静な冬椿も、声音に若干の焦りが感じられる。気持ちは分かる。私も同感だ。1人でも多くの意見を得るため、ひとまずこの場にいない秋葉を呼ぶよう冬椿に命じた。
父はこの状況など、きっと想定済みだ。むやみに文を出しても、笑って流されるだけだろう。それに、気軽に文を出して聞ける類のものでもない。
貴族の事情に詳しい者が必要だ。秋葉と冬椿、長く中宮に仕えていた夏橘が頼りになる。
春桜は自分の出る幕ではないと察したようだ。
「私は、菓子の準備をいたしますね」
「頼む、春桜」
貴族出身でないせいか、意外にも一番落ち着いているのは春桜だった。自分の役目を心得た立ち回りを見せられ、こちらも落ち着かねばと思う。
さらりと出ちあがったその背を見送って、桐の箱に向きなおった。
春桜のおかげで落ち着いてはきたが、やはりため息は出てしまう。
「また、やっかいなことを…」
箱の中に入った着物は、上質な布らしくつややかに輝いている。いっそ憎らしいほど美しいその光沢に、思わず物騒な独り言をつぶやいてしまった。
「いっそ、燃やせぬか…」
「な、なりませぬ…!」
未だ箱の蓋を抱えたまま、ぶるぶると夏橘が首を振った。不敬だ、と非難するのをこらえる視線に、思わず笑いが漏れた。
そうして緊張がほぐれてきたところで、秋葉がやってきた。
「姫様、お呼びと聞きました」
どうなさいました、と問われて桐の箱を指す。
「着物が届いた」
「はい、主上から届くと仰っていたものですね」
普段私の着物を管理しているのは春桜だが、こういった特別な品目については秋葉に一度目を通すよう頼んでいる。着物や反物の贈り物は、受け取るだけでなくお返しにも気を遣うからだ。
こういったいわゆる「貴族」らしい部分に一番秀でているのは、以外にも秋葉だった。曰く、実家で過ごしているとき母親や姉の手伝いをたっぷりさせられたのが効いているらしい。
「品は良い。色が問題だ」
「夏にそぐわぬものでしたか?」
「…見てみろ」
開いたままの箱。
遠巻きにする夏橘の様子を不思議そうに見やりながら秋葉が近寄っていく。中身を確認し困惑したようにこちらを振り返った。
「姫様、これは…」
「黄丹の着物だ」
秋葉の顔がさ、と曇る。やはり、と口が動いた。
黄丹、それは東宮の色。次代の帝となる者の色である。この色を帝から賜ったとなれば、それすなわち東宮を指定したのと同義なのだ。
つまり、今の状況を客観視すると、私が次代の帝として父に指名されたと言うことになる。これは宮中の様相を一変させる大問題なのだ。
ひとまず、と冬椿と夏橘も側に寄せ、春桜が用意してくれた菓子をつまみながら着物を眺める。皆で遠巻きにするせいで、思いがけず花見ならぬ衣見のような形になった。
唯一、会話に入っていなかった春桜も、私たちの重たい空気にただ事でないと察したらしい。とりあえず真似しておこうとでも思ったのか、真剣な表情で衣を見ながら菓子をつまむので可笑しくなって笑いが漏れた。
「それで、主上からは何かお聞きに…?」
「何も、だ。夏の衣を、と言われて開けてみたらこれだった」
秋葉の問いに、私はため息をつきながら首を振った。
別に、贈られること自体は問題ない。表に出さなければなかったことにできる。ただ、今回の問題は、この着物を着て宴に出るように、と明確に言われてしまっていることだ。
この色を身につけて公の場に出ること、それは自らが東宮に立つという決断の表明に他ならない。
「主上は姫様を東宮に、とお望みなのですか?」
「そうと言われたことはない。どことなく私を値踏みするような節はいつもあるが…」
そう、いつもだ。
ずっと私の一挙手一投足を品定めするような雰囲気はあって、でもそれは単に私が内親王という立場にふさわしいか測るためだけのものだと思っていたのに。
「しかも…この着物で出る宴は、右大臣家のものなのですよね…」
そして何よりも厄介なのはそこである。
右大臣家。現中宮の生家であり宮中で天皇に次ぐ権力を持つと言って過言でない家。次代の帝を自分たちの家から、と勇んでいるであろう彼らの宴にこの色を着ていったらどうなるか。想像に難くない。
その上條子は今身重なのだ。彼女から男児が生まれる可能性は十分にある。右大臣家が描いている筋書きは、その子供が男児であること。そして東宮の座につき、いずれ帝となることだろう。つまり、この衣は右大臣が喉から手が出るほど欲しがっているものなのである。
私と、中宮の男児。
後ろ立ても、性別のことを考えても、優遇されるのは間違いなくあちらだ。
誰もがそう考え、右大臣家の繁栄を確実なものと見ている。
「…何にせよ、お父様に意図を聞かねば始まらぬな」
ため息をついてみせると、三人の女房たちは皆それぞれに頷いた。
宴の席ではぐらかされ、何の文もつけずに着物が送られてきた。乗り込んでもなにか聞き出せるとは思えないが、一方で父を無視して進めていい話でもないだろう。
冬椿に頼んで、父の元へ都合をつけて欲しいと文を書き、一旦衣はしまわれたのだった。