その三
冬椿を含む数人の貴族の子女たちが私の元に入内したのは、私がお父様からこの房をもらった頃のこと。お母様が亡くなってあまり経たない頃のことだった。
率直に言って、私は見知らぬ者たちがそばにいることが苦手だ。
確かに、幼い頃からお母様の元に出仕していた女房たちに囲まれてはいる。しかし、その中心にはいつも母がいて、私はそのそばにいれば良かった。彼女たちはあくまで母に仕えている身でしかなかったから、直接私に問うことも私に責任が問われることもない。私はあくまで彼女たちにとって「主の娘」でしかなかったのだ。
しかし、母が亡くなり房を貰ったとなれば今まで通りではいられない。私は、もはやただ守られる小さな子供ではいられず、きちんと立って物事を取り仕切る内親王になることを期待されていた。
気の許せぬ者に囲まれて暮らす、という苦痛。その上、全員が貴族の子女で堅苦しい礼儀や習慣を身につけているとあっては息苦しさもひとしおだ。
母の元で庇護されながら育ち、帝の娘とはいえまだ子どもとして扱われていた私には劇的すぎる変化だった。
悪いことはそれだけで済まない。
彼女たちにとって、私の立場はあまりにも弱く先のないものだった。
母を亡くして決定的な後ろ盾を欠く私。母の死後はしばらく父とも疎遠で、一人放っておかれた。内親王とはいえその境遇では、とても敬う気になれなかったのだろう。
日に日に、彼女たちの私に対する視線が変化するのが分かった。軽んじるられていることに気づいていた。密やかに交わされる悪口や侮蔑の笑み。気づかなければいいのにどうしてか気づいてしまい、精神は蝕まれる。
そんな中で、ただ一人だけそういった行為にかかわらず、しかしにこりともせずに淡々と仕事をこなしていたのが冬椿だ。
その頃の私は冬椿のそばにいることに一番平穏を感じていた。どんなときも態度を崩さないものの側にいれば、自分も強くいられる気がしたのだ。しかしその一方で、彼女が私のことをどう思っているかわからずそばに寄せることもできずにいた。
ある、特に冷え込みの激しい冬の日。
夜の番として、冬椿が私の傍らで起きていた。私は現実から逃避するように物語を読みあさり、冬椿もまた静かに明かりを見たり几帳を見たりと動いていた。
読んでいた物語が少し難しくて顔を上げる。
冬椿がちょうどこちらを見ていて、目が合った。
他のどんな女房に対しても、そんなことはしなかっただろうと思う。ただ、そこにいたのが冬椿だったから。
「ねえ、真菰」
私は、彼女に声をかけた。
そのころ、私は彼女を今の名では呼んでいなくて、しめ縄にも使われるという神聖な植物の名をあだ名としていた。そういうあだ名をつけたくなる程に、彼女は静かで美しい人だったのだ。
「どうなさいました?」
相変わらず平坦な口調で聞き返される。それでも不思議と優しく聞こえた。
彼女は、決して私の言葉を無視しない。他の女房は話しかけても忙しくて聞こえないようなふりをするのに、彼女だけは振り返ってそばまで来てくれた。たったそれだけのことが、当時の私には何より必要だったのだ。
「この歌なのだけど、どういう意味かわかる?」
「拝見します」
冬椿が私から書物を受け取り、のぞき込んだ。そして、驚くべきことが起きた。
私の前で初めて笑ったのだ。
「…真菰…」
「はい?」
「あなた、笑えるの…?」
「私をなんだとお思いですか?姫様にお仕えする女房です。人間ですよ。面白いことがあれば笑います」
思わず問いかけてしまった失礼な質問に、冬椿は可笑しそうにまた笑った。
彼女が笑うのだ、とわかってから、私は彼女のことが一層好きになった。私が積極的に話しかけるようになると、彼女も自分の話を時折してくれるようになった。
実家に、数え切れないほどの本があること。幼い頃から一生懸命読んでいるけれどまだすべて読み切れてはいないこと。幼なじみがいて、その人も本の虫だということ。冬の生まれで白色が好きなこと。反対に、夏は苦手なこと…。
私も、彼女に自分のことをたくさん話した。
幼い頃にしたいたずら、母の読んでくれた本、父がくれた鞠。そして、今まで誰にも話したことのなかった。母が死んで以来ぽっかりと空いてしまった心の内について。
あの頃の私は慣れない環境に置かれた緊張と母を失った喪失感を抱えていた。今考えると、それを埋めようとして冬椿に甘えていたのだとわかる。恥ずかしいけれど、しかし彼女は一切面倒な顔をせず、話を聞いてくれたのだった。
そう、私は幼かった。
ある日、突然冬椿は私に暇を願い出た。
いつになく硬い表情で、微笑んでいた面影も見せず静かに言われて、私は引き留めることができなかった。
彼女が去り、話し相手を失って息が詰まりそうな毎日が戻ってくる。冬椿がいた間は耳に入れずにいられた悪口が、また私の心をむしばむようになった。
そんな中で、偶然にも聞いてしまったのだ。ある女房が、冬椿をあしざまに言うのを。
曰く、「後ろ盾もなく未来のない愚かな姫に、一人すりついて寵愛を得る卑しい女」と。
目の前が真っ赤になって、吐き気がした。腹の中で鞠が踊っているように動悸がやまず、息が浅くて苦しかった。私が苦しみ、崩れ落ちても、助けようとする者はいなかった。
私がおろかだったのだ、と思った。
主が一人を重用すれば、均衡は崩れる。元々私をよく思わぬ者たちだ。直接手を出せぬ私に変わり、冬椿は良い標的だったに違いない。
私が幼かったのだ。私が幼いせいで、冬椿を失ったのだ。
冬椿は人間で、強い人ではあるけれど限界がある。そんなことわかっていたはずなのに。
母の死後、冬椿によって守られていた精神はそこで限界を迎えた。一日中、ずっと寝て過ごすことが増える。食事もとらず弱っていくのを見かねた誰かが医者を呼び、それが父に知られた。
冬椿が去って七日後、父のもとから見舞いの使者が来た。使者は私の房が今どうなっていて私の状況はどうなのか、委細なく父に報告したらしい。実情を知った父によって、仕えていた者たちは皆家に帰されたのだった。
良くなるまでの間、父に仕える古株の女官たちが私の世話に来てくれた。誰も、見知った者たちばかり。暖かく世話され、ずっとこの者たちとここにいたい、と願おうかと、そんなことを思っていたある日。
雪が降った。
春が近いというのにひどく大雪で、寝る前から降り出して、起きてもまだ降っていた。
久々に起き上がり御簾をよけさせると、一面に広がる銀世界。
私はその光景に、冬椿のことを思い出した。
『冬が一番好きなのです。降り積もる雪が、好きなのです』
『どうして?つめたくて外にも出られないのに』
『されど、雪は優しい感じがいたします。私にはそう思えます』
いつかの雪の日に、冬椿と笑い合ったのを思い出した。
私はそのまま、やむまで雪を眺めていた。
雪がやんで、暖かい日差しが指したのを見て私は筆をとり、お父様に手紙を書く。一日、外へ出かけさせて欲しい、と。
冬椿の家は牛車で来てみれば驚くほど近くで、こんなにそばにいたのか、こんなにも簡単に手は届くのか、と肩すかしを食らうような思いだった。とはいえ、めったに宮中を出ない私なので牛車で出かけるのはちょっとした挑戦だったのだが。
父が前もって人を遣り、話を通してくれていた。おかげで冬椿の家の者にはすんなりと招き入れられた。屋敷の中に通されてしばらく待つと、やがて家人に呼ばれて彼女がやってきた。
「…真菰」
「姫様っ…!」
あれほど驚いた顔の彼女は、後にも先にもあれきりだ。
目を見開いて、しかし礼は忘れず私の前に座った冬椿に、なにから話そうかと頭を巡らせる。
結局上手い言葉は見つからずに、思いついたままを話すことにした。
「雪が降ったの」
「雪…先日の、あの…?」
「ええ。それで、貴方を思い出した」
「……」
「真菰、私と共に来て頂戴。私には、貴方が必要なの」
「しかし、私は一度暇をいただいた身…」
「そんなこと、関係ない。私がそばに仕えて欲しいのは…貴方だけなの」
「姫様…」
子供のように駄々をこねた。
どうしても、彼女が自分のそばにいてほしかったのだ。
「おねがい、戻ってきて。今私の世話をしてくれる者は誰もいないの」
「それは…」
私の言葉に、はっとしたように冬椿が顔を上げる。あんなにたくさんいた女房達はどうしたのか、と言外に問いかけられた。
そっと答えを口にする。
「…お父様が、皆に暇を出した」
私は、冬椿がいなくなってから起こったことを短く話した。
冬椿は静かに聞いて、聞くうちにいつもの無表情をゆがめていた。
「申し訳ございません。私などのために姫様を…姫様のお心を、陰らせることになってしまい…」
「申し訳ないと思うなら、お願い。そばにいて」
「はい、私でよろしいのでしたら」
頷いた冬椿の目に、暖かな光がきらめいたのを覚えている。
そうして、冬椿が私の女房として戻ってきた。
帰還を機に、名前を冬椿、と改めることにする。
寒い冬。雪の中に一点咲く椿は、女房達の中で一人私を暖かく包んでくれた彼女にふさわしい名だと思ったのだ。
そうしてしばらく、二人での暮らしが続いた。幸いにも大きな行事や不幸もなく、穏やかで楽しい日々。
そうして一月過ぎたころ、冬椿が意を決したように私へ上奏してきた。
「姫様」
「なに?」
「私の信頼する者を、一人ご紹介してもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん」
冬椿がそう提案してきた理由はわかっていた。女房が足りないのだ。
それほど忙しいわけではない私の日常だが、とはいえ一人の女房で支えるのは難しい。
私も冬椿も、あまり見知らぬ人間をそばに置きたくない、という気持ちは一致していた。だからこれまで女房を増やさずやってきたのだが、さすがに聡い彼女はこの状況の不健全さを是正せねばと思ったらしい。
私としても、冬椿に無用な負担をかけるのは本意ではない。彼女が信頼できる、というならきっと大丈夫だろうと考え、頷いた。
冬椿はほっとしたようにわずかに目尻を下げ、すぐに文を出して呼び寄せる、と言った。
「それで私の元に入内したのが、秋葉」
手で示して見せる。
秋葉は自分の話になるのをきちんと予見していて、にこりと微笑んだ。
「あのときは驚きました。筆無精の幼なじみが突然手紙をよこしたと思ったら、姫様の女房に私を推薦したから来い、ですもの」
「筆無精と言うほど不精では…」
幼馴染の小さな苦言に、冬椿が反論を返す。
「…貴方入内してから、いいえ、ここまでの人生で私に何通、自分から手紙を送ったか覚えていて?」
「いや…」
「たったの五通よ!私は四季折々、面白きことをしたためては数え切れないほど送っているのに!」
「それは、すまん……いや、しかし…」
秋葉に気圧されるように縮こまった冬椿。しかし、すぐに小さく反論して聞きとがめられたらしい。言い合いが始まった。
いつも冷静な顔を保っている彼女だが、秋葉にはずいぶん弱い。反対に、いつも柔らかな雰囲気の秋葉がこれほど感情をあらわに真っすぐ話すのは冬椿だけだ。
春桜も私も、いつものことだと承知しているので何も言わない。落ち着くまで菓子をつまんで待つに限るのだ。
一方の周防はぽかんとしている。
貴族の子女が感情をあらわにするのも、それを咎めない私や春桜にも、驚いたのだろう。
「お二人は幼なじみで、仲良しなのです」
春桜がそうささやいたが、周防はどうしても信じられない様子で目を見張ったままだった。
私は少し考える。いつもは急いで止めるほどのことでもないのでそのまま放置するのだが、今は周防に話をしてやってほしい。
このやり取りが気に入っているのであまり気は進まないながらも、私は声を上げる。
「二人共。今は話を」
言い合っていた二人は、ぱ、と会話をやめた。軽く礼をして、周防に向き直る。
相変わらずの変わり身の早さである。一番貴族らしいといえば、そうかもしれない。
「ここからは私の話ね」
秋葉が笑う。
まだ目を白黒させていた周防だが、問われて少しだけ頷いた。
「私は、ここに来るまでずっと屋敷で書物を読んでたの。人と会うのは嫌いでないし和歌だって面白いけれど…書物のほうがずっと面白かったから」
秋葉は、ここに来るまで最低限の外出しかしてこなかった。代わりに大量の本に囲まれて過ごしていたと言う。それが彼女の幸せで、何より優先したいことだったからだ。
詳しくは知らないが書物とは高価なもの。それを大量に準備できるのは、彼女が高名な貴族で何代か前には天皇家との繋がりもあるような家の出だからである。
「お父様からは結婚して家を出ろといわれていた。だからきっと、結婚してそれで人生が終わるのだと思ってた。でも、冬椿が手紙をくれたの」
娘が家で本を読み暮らしているという事実は、決して彼女の父親にとって好ましいものではなかった。同年代で幼い頃から交流のある冬椿が出仕していることも大きかったのだろう。ならばどこかに嫁にやってしまえ、と考えるのは不思議でない。
彼女の家が高位の貴族であって、ある意味では幸いだった。今までほとんど外に出ず、本を読んでばかりの秋葉では、対面を気にする貴族相手に輿入れ先がなかなか決まらずにいたのだから。
相手が決まって準備が一度始まってしまえば、止めるのは難しい。少なくとも私にとって、秋葉がまだ独り身で出仕できる状態でいたのは幸運だった。
「最初は少し渋ってた。輿入れは嫌だけど…姫様のお世話で本を読めなくなるのも嫌で」
それを聞いて、困った顔の冬椿が相談に来たのを思い出した。
「申し訳ありません、姫様」
秋葉から出仕を断られた、と送られてきた手紙を持ってやってきた冬椿は、見るからに消沈していた。
「何を冬椿が謝ることがあるの?」
「…友をご紹介したのは私です。だのに姫様に助力を願う形になってしまい…」
自分だけでどうにかできると思っていたのに、と肩を落とす冬椿。珍しい姿を意外に思って、つい笑ってしまう。
「貴方がそんな顔をするの、初めて見た」
「え…」
頬に手を当てた彼女を可笑しく見て、それから姿勢を正す。
「そもそも、私のもとに来るのですから私が声をかけるのは道理。気に病まずとも良い」
「ありがたいお言葉でございます…」
「して、あなたの友はどんな方なの?」
「あれは優秀なのですが出不精で…」
苦い顔をする。また、珍しい顔を見た。
私は冬椿が幼馴染に優秀、という言葉を使ったことに気づく。冬椿をして優秀と言わしめるような人なら、是非迎え入れたいと思ったのだ。
冬椿が記憶の中の幼なじみを手繰り寄せるように軽く俯いて、思い出話をこぼす。
「昔から、親同士が親しくてよく遊んでいました。最も、駆け回ったりすることはなくずっと本を読んではその話をするばかりでしたが…」
「彼女が貴族の集まりに来たことは?」
「…いえ、そういうものに出るのを徹底的に嫌っておりまして」
「あら…」
「それも、入内を渋る理由かと思います」
「しかし…冬椿と同年代なのならそろそろ婚姻の話も出るでしょう。ずっと家にいるわけにも行かない…」
「婚姻など…彼女は一番嫌いそうです」
「…なれば」
私は自ら筆を持ち、秋葉に手紙を書いた。
おそらく、彼女にとって一番魅力的な提案をたっぷり盛り込む。入内すれば、最低限の仕事の他は本を読んでいていいし、婚姻の話もすべて断ってやる、と。
私の提案はよほど秋葉の琴線に触れたと見え、今まで数日開けて帰ってきていた返事がそれほど待たずに着いたと冬椿があきれ顔をした。
返事には、入内を承諾する旨が書かれており、最も近い吉日に彼女は晴れて宮中にやってきたのだった。
貴族の娘とは言え、冬椿と感性が合うだけあって身軽な装いで、持ち物もほとんどが本だった。
「ここで初めて秋葉に会ったときのこと、よく覚えている」
「まあ、記憶に残るようなことをいたしましたかしら?」
「お前はなにもせずとも記憶に残る容姿をしておろう」
整った顔立ち、その波打った髪、着慣れないのがよくわかる十二単と身のこなし、それから、私を前に一切の動揺を見せない瞳。
赤い上着を着せかけたその姿を見て、秋の名を与えたのだ。
「冬椿の友人らしいな、と思ったよ」
「どういう意味ですか…」
ため息をつく冬椿と、対照的に楽しそうな秋葉。
二人の話を静かに聞きながら、周防はまだ硬い表情を崩さずにいた。
確かに、経緯が特殊とは言え二人とも力のある貴族の娘。身分を気にする周防には不安な状況だろう。
「春桜」
「はい」
「最後はお前だ。周防にはお前の話が一番興味深いだろう」
春桜は、そう言われるのを予測していたようで大きく頷いて周防に向き直った。
「私、市井の者なのです。先祖を何代辿っても、ここに縁ある家にはたどり着きません」
「え?」
私の女房、春桜は市井の生まれだ。
両親は私が一度も見たことのない街中の家で力仕事をしたり繕い物をしたりして過ごしていたという。その中で生まれ育ち、普通にしていれば決して宮中などと関わるはずのなかった普通の娘。それが春桜だった。
「人が要ります」
「それも早急に」
二人して真剣な顔で冬椿と秋葉がそう言ったのは、冬のさなか。
秋葉が来たときもこんな感じだった、と既視感を感じながら頷く。
「わかった。どのような者にする?また友を連れてくるか?」
「……」
黙ったので、人の見当はついていないのだとわかった。
「…なれば、どこかからつれて参ろう」
「しかし…」
「貴族の娘の入内は…」
冬椿の一件で私はすっかり人の多い生活が苦痛になってしまったし、二人もお互い以外の貴族と上手くやれる気がしない、とこぼしていた。この房に、普通の貴族の子女を入れるのは難しいと全員が承知していた。
「しばし考えよう。お父様にも相談してみる」
「お願いいたします」
「至らず申し訳ありません」
「いや、無理をさせていたのは私だ」
二人。
たったの二人だ。
多くはないとはいえ、華やかな公式行事に出ることも多い私の身辺を整えるのに、あまりにも足りない数。それに二人とも対人関係を得意とするタイプではない。いつも苦心しながら仕えてくれているのは知っていた。
今になって考えれば、ほんの一月とは言え冬椿が一人で私の世話をしていたのは奇跡のようなことなのだ。
話を終えると、二人の女房は忙しそうに辞していった。
人数が多いのもその中で軋轢が生まれるのも考え物だが、このように慌ただしく仕事をさせたいわけではない。秋葉に約束した、本をいくらでも読める環境も与えられているとはいえないだろう。
「さて、どうしたものか…」
脇息にもたれて思案する。
いい案は浮かばず、今度父に相談しようと結論づけた。冬のうちに起こる飢饉や病気で忙しい父にいつものように手紙を送るのははばかられたのだ。
二人の奏上からその数日後、私はお参りに出かけることになっていた。
お参りの目的は、寒い冬に民が飢えず過ごせるように祈ること。お父様がかなりご心痛の様子だったので、一つ参ってありがたい経でもいただいてこようと思っていたのだ。
牛車に乗るのは珍しい。公式行事はほとんどが宮中でもよされるので出かけるような予定は少なく、外に行きたがる女房もいないので遊びに出かけることもない。
秋葉を供に牛車で出かけると、外は寒く雪がうっすらと積もっている。
雪に阻まれ遅くなるやも、と言われていたが、幸い昼には無事参ることができた。日が暮れて寒さが酷くならないうちに戻ろうと牛車を急かすが、雪のせいでままならないようでゆったりと帰り道を行く。
秋葉と会話をしながら揺られていると突然、牛車の動きが止まった。
御者が叫ぶ声がする。
「貴様なにをしている!」
何かに対して声を荒げているようだ。
「秋葉、何事?」
「わかりません…これ!なにごとか?」
秋葉が外へ声をかける。
慌てた様子で御者が返事をよこした。
「申し訳ありません。子どもが飛び出してきて…今道に倒れておりまして…」
「子どもが、倒れている…?」
「姫様、助けに参りとうございます。お許しを!」
「よい、行きなさい」
許可を出すと、秋葉が御簾を跳ね上げて牛車の外へ飛び出した。
小さな子供がこんなに寒い日に道端にいるなど、恐ろしいことだ。しかも飛び出してきたということは死人ではないのだろう。ここで動けなくなったのなら、まだ助けてやれるはずだ。
今日私の供が秋葉だったことに感謝する。
なんせ、彼女が幼いころからとりわけ関心を持って読んでいたのは、大陸からもたらされた医学についての書物なのだ。人を助けるのに、まさに適任である。
秋葉も、己の知識の出るべき場だと理解したのだろう。だからこそ、咄嗟に牛車を飛び出したのだ。
「何をしているのです!」
「しかし…このものは不敬を!」
「それが何です!幼い子どもではないの!」
秋葉が御者と言い合う声がする。
「運んで、牛舎の中へ!」
「しかし…」
「早く!」
私がいるのに、とためらいを見せる御者を急かして、秋葉が戻ってくる。
御簾が少しあげられ、細い体が転がされた。
牛車の中が少し寒くなった。冷気の出所が外なのか、子供なのかわからないほど、その子は冷えていた。
「早う帰して。一刻を争います!」
「姫様が…」
未だ言い募る御者。ある意味当然だ。道端に落ちているものを貴人に近づけて、後でどんなお咎めがあるか分かったものではない。そう考えるのが宮中の人間だ。
秋葉が言い返そうとしたのをそっと制す。
「…左衛門」
「っはい!」
御者の男、左衛門が私に目を向ける。
扇と髪で顔を隠しながら、その目を見返した。
「この子はここで良い。早う、戻せ」
「はいっ!」
御簾が下ろされ、御者が定位置に戻る。すぐに牛車は動き出した。
後であの男に褒美を取らせねば、と思う。このことで罰しない、と示しておかねば、いつまでも恐れていなければならなくなる。それは不憫だろう。
牛車の床に転がされた子どもに目を向ける。どこもかしこも細くて、ろくに食べていないようだった。
宮中で見てきた、ふっくらとしたからだとはまるで違う。
恐ろしくなって秋葉を呼んだ。
「秋葉…」
「おまかせを。体を温めねばなりませんので、御前で失礼します」
秋葉は迷いなく重ねていた着物を何枚か脱ぎ、子どもに着せかけた。子供は力なく、されるがままになっている。胸のあたりがわずかに動いているので死んではいないようだ。
着物から出ている手を中に入れてやろうとして、その冷たさに驚いた。
「こんな風に連れてきて…この子の家族が心配しような…」
「…今は、何より命が大事です。目を覚ましたら話を聞きましょう」
この寒い日に道にうち捨てる訳にもいきますまい、と秋葉が言ったのに頷いた。わざわざ牛車の前で倒れるなど、訳があるのかもしれない。
こうして、私たちは一人の子どもを連れ帰ったのだった。