その二
「周防でございます」
翌朝正式な文が届いて了承の返事を返したところ、昼には件の女房がやってきた。
いままで周防、と名乗っていたらしく、そのように自己紹介される。
静かな声に隙のない装い。敵意のないにこやかな表情をしているが、どことなく影がある。決して陰鬱なわけではないのに、どことなく不吉を感じてしまうのは右大臣家が背後にいると知っているからか、それとも私の直感なのか。
春夏秋冬のどこにも当てはまらない、暗い印象の女だった。
頭が痛むような気配を感じながら、冬椿を呼んだ。
「冬椿、昨日話した通り、この周防が今日からこの殿で仕えてくれる。ここの案内を」
「御意。周防殿、冬椿と申します」
「周防と申します。よろしくお願いいたします」
「では、こちらへ」
現れた冬椿が、特段なんの反応も見せずしとやかに案内していく。貴族然としたその後ろ姿を見送って、軽くもたれていた脇息に今度こそしなだれかかった。
「姫様、大丈夫ですか?」
春桜がお菓子をのせた盆を運んでくる。差し出されたので、遠慮なく一つ取って口に入れた。甘味が口に広がり、無意識に入っていた肩の力がほんの少し抜ける。
「ここで挨拶をして仕えだした女房など、冬椿しかいないから…慣れない」
「冬椿とて、慣例の一つのようなものだったと聞いております。このように人が増えるのは、初めてのことでございますね」
私を気遣う春桜の表情もどことなく硬かった。
三人の女房たちには、昨夜秋葉と共にここへ戻ってから、簡単に説明をしてある。
新しく女房が右大臣家から来る、と伝えたときの反応は三者三様で、今思い出しても興味深いものだった。
はっきり嫌だ、と顔に出したのは春桜。彼女は出自が原因で貴族になじまないので、未知の存在に拒否反応を見せた。完全に外から、しかも私に対して敵意を持つであろう集団からやってくる貴族の女がどうしても怖いようだ。主の決定である以上表立って騒ぐことはなかったが、顔がさ、と青くなったのを見た。
対して、貴族出身の秋葉と冬椿は、片や面倒くさそうに、片や好戦的な顔で頷いた。
秋葉は、貴族出身ではあるが生まれを毛嫌いしているところがある。しかし春桜程慣れないわけでもなし、私の女房として日々を過ごすうちある程度の処世術は身についている。女房がいつまでの3人というわけにはいかないと薄々感づいてもいたのだろう。単に、今まで楽に過ごせていた場にわずかな緊張感が混じることへの面倒くささだけを顔に滲ませた。
好戦的な顔をした冬椿は、三人のうちでは一番貴族らしいといえるかもしれない。見た目の静かな印象からは想像できぬほどその性格が情熱的であることは、この房の者にとって周知の事実だ。私に仕えている歴が長いせいもあってか、私が害されることにかなり敏感な質である。右大臣家から来て、十中八九私の頭痛の種になるであろう女房の存在に、つい炎が燃え上がった、とでも言いたげな笑顔だった。
とにかく、それぞれにそれぞれの反応をした後、これが決定事項であることを皆理解して覚悟を決めてくれたようだ。一番心配だった春桜も、今は私の隣でお菓子を食べている。
とはいえ、秋葉以外の二人はあまり周防と二人にはしたくないが。
菓子を食べながら、また別のことを思い出してついため息が漏れた。
「夏、という感じでもないのよな」
「夏…でございますか?」
「ああ。御上から、春夏秋冬のうち夏の座が空いておるのだからそこに入れればよかろう、とお言葉をいただいた」
「しかし、あの方は周防殿では?そう名乗られています」
首を傾げた春桜に、頷いて見せる。
女房の名というのは本名とは違う。ここにいる間の単なるあだ名だ。通常は親の役職に因んだり主の趣味で付けられたりして決まる。たいていの女房は主がそのまま変わらないので、仕えるのをやめるまでその名で呼ばれ続けることになる。
周防の場合はどうすればいいのか。はっきり言って判断がつかない。血縁でもなんでもない間柄で女房を受け渡すなど、前代未聞だ。
特段名前に執着はないので、彼女が楽ならそのままの名前でいいのではないか、というのがひとまずの私の考えである。
「彼女がなんと呼んでもいい、というなら考えておいた名を与えたが…本人がのぞまぬなら無理にはすまい」
「名をお考えに?」
「夏橘、と。そうつけるつもりだった」
父から貰った書物をめくり、一文字で響きのいいものを選んだのだ。
橘。我ながら良い音を選んだと思うのだが。
「よいお名前です」
「ありがとう。だが、使うものがなければ始まらん」
「さようでございますね。姫様は、周防殿に夏を名乗ってほしいとお思いですか?」
丸い瞳に射貫かれて、少し返答に詰まる。
名乗ってほしくない、と言えば嘘になるだろう。
「…少し、期待していた。だが彼女はどうも夏という感じではないし、もうよい」
「私たちには名をくださったのに」
「それは、そなたたちが皆初めての出仕で、名を持たなかったからだ。幸い、それぞれに似合う季節の違う顔だったからそうつけたまでのこと」
「…それでも、うれしゅうございました」
「春桜…」
嬉しそうに微笑む彼女の姿に、その名の通り「春」を感じる。この少女にこの名を与えてよかったと、心底そう思った。
「周防殿のお名前は、中宮様がお考えになったのでしょうかね」
「さあ、わからぬ」
かたくなに名を名乗るということは、さぞ大事なのだろうと思う。條子につけてもらった名前なら大事だろう。そうでなくても、今まで長い間名乗ってきた名前なら愛着もあるに違いない。
「よい。周防がここでの生活に慣れるよう、手助けしてやってくれ」
「はい」
春桜がそういって、ようやくいつも通りに笑った。ずっと物憂げな顔をしていたので気がかりだったのだ。
ほっとしていると、几帳の奥から何やら物音がした。
反射的に身を起こす。次の瞬間、几帳の隙間から秋葉が出てきた。
「姫様!」
「秋葉、何事だ」
慌てた様子の秋葉は珍しい。
彼女がこんな風に取り乱す要因は大体見当がつくが。
「…冬椿が、新しい女房に喧嘩を…」
「売ったか」
「買ったのかもしれません。二人とも笑顔なんですが、なんだか怖くて」
「よい、行こう」
「有難く存じます」
立ち上がって奥へ向かいかけて、一度足を止める。
「秋葉」
「はい」
「新しい女房は、名を周防という。覚えておけ」
「夏の名をお与えになるのでは?」
「まだ、わからぬ。詳しい話は春桜から聞いてくれ。私は仲裁に行く」
「はい」
二人を置いて、几帳をくぐる。
冬椿が喧嘩を、と秋葉が困った様子で呼びに来る場面は想像していたものだった。おとなしい顔をして一番はっきりものを言うのは冬椿だろうし、彼女にとって周防の名を頑なに名乗る敵側から来た女は受け入れがたいものだとわかっていたからだ。
現実になるとも、こんなに早いとも思わなかったが。
几帳の奥。普段は踏み入れない女房たちの場としている方へ歩みを進める。
静かな房の中で、たった二人の気配は探し回らなくてもよくわかる。
几帳の前、おそらくこれを挟んだ向こうで二人が話している。几帳に触れないぎりぎりまで近づいてから、腰を下ろした。
几帳越しに言い合う声が聞こえる。腰を下ろして几帳の陰から言い争いに耳を傾けた。
「なぜ、名を周防のままにするのです」
「あなたに言われる筋合いはございません」
「ここは姫様の房で、私たちは姫様にお仕えしているのです。しかるべき態度がありましょう」
「そのように言われましても、私は今日、それも今来たばかりの新参。わかれと言われてもわかりませぬ」
「このっ…」
冬椿が耐えかねたような声を出す。
いよいよ危ないかもしれない、と思い立ち上がった。
思えば、冬椿にとってもこんな形で人がそばに増えるのは慣れないことなのだ。ずっと心許せる者たちと一緒にいたのに、突然外から人が来たとなれば身構えもするだろう。もう少し気にかけてやればよかった、と今更ながら悔やむ。
その忠義心と情熱的な性格を考えれば今の状態の冬椿は、手の一つも上げる可能性がある。周防にけがをさせてはここぞとばかりに右大臣家が黙っていないだろうし、冬椿がけがをすれば私が黙っていられない。
直接手を出す前に解決したい、と几帳に手をかけたとき、冬椿の怒号が降った。
「貴方の態度は、どちらを主としても不誠実だっ!」
思わず、伸ばしかけていた手を止める。
周防の方もびっくりしたようで、沈黙が落ちた。
その沈黙を逃すまい、と冬椿が続ける。
「藤の御方に義理立てなさるにしても、姫に忠義を誓うにしても、この場でかような態度を取るのは得策でない。私達に警戒されて良いことなどありませんでしょうに…名を変えるぐらい何です?主が変われば立場も変わる。貴方に合った立ち位置を用意してくださるのを最初から拒否しては、皆貴方を敵と見るでしょう」
「…私の、主は…」
「…ここには私以外誰もおりません。真の心はどなたのもとにあるのです?」
「……」
藤の、とすぐに続くものだと思っていた。周防は條子を唯一の主とし、彼女を藤の御方と誉めそやして尊ぶ女房達の一人だとすっかり思っていたのだ。だから、思いがけず落ちた沈黙に驚く。
「…私、藤の御方を主と思ったことが…ない、のです…」
「貴方は藤の御方が入内なさる前からお仕えしている身と聞きましたが…?」
「母の紹介です。ただ、どうにも肌に合わず…此度この殿へ来ることに決まったのも、それを察しての判断であるかと…」
「…肌に合わぬ、とは…?」
「…私の家は決して血筋の良いわけではありません。貴族とはいえ末席で、家に仕えているものも数える程度。衣も…これを除いては皆様にお見せできるようなものがないのです…藤の御方の元には、身分も高く私のような者を面白がられる方も多くいらっしゃって…」
「……」
冬椿が暫し黙り、何事か動いて着物の裾が音を立てる。
はて、と思っていると眼の前の几帳が揺れた。
「姫様、お聞きになりましたか?」
問いかけとともに几帳が取り払われる。どうやら、冬椿に半ば利用される形になったようだ。私を見下ろす冬椿の向こうに、口をあんぐりと開けた周防が見えた。
「…冬椿、声の掛け方が手荒すぎる。驚くでないの」
「そう言いつつ一筋の乱れも見せぬ姫様、お流石でございます」
一切悪びれず飄々と言い放った冬椿にため息をついて見せる。それから、傍らで未だ驚いている周防に向きなおった。
「周防」
「っ、はい」
「冬椿が、自分以外誰もいないから話せ、と言って貴方を謀ったこと、主として謝罪します。ごめんなさい」
「あ…いえ…」
ぺこりと頭を下げる。
「几帳の裏で話は聞かせていただきました。私、貴方はここにぴったりの方だと思うのだけど」
「え…」
思いがけないことを言われた、という顔をする。
「あ、その…私は…姫様にお仕えできるような身分では…」
「そんなもの、私が望めばどうとでもなる」
立ち上がって周防を手招く。
「来て。ここにいるのがどういう者たちなのか、聞きなさい」
身分が足らない、と嘆く彼女には、ここ以上にふさわしい場はないはずだ。その確信が私にも、そしてきっと冬椿にもあった。
ふたりを伴って戻る。穏やかに菓子を食べながら談笑する春桜と秋葉の姿があった。
「そこにお座り。2人とも、周防たちに菓子を分けておあげ」
「はい」
「周防殿、お好きな菓子はありますか?」
春桜にわくわくとした顔で問われて、困惑しているのが分かる。
「あ、の……」
「周防、悪いようにせぬ。答えよ、菓子は好きか?どのようなものを好む?」
「…菓子は、好き、です……」
ちょっと恥ずかしそうに俯いてから、周防が微笑む。
「果物の味が強いものを、好んで…食べます」
「素敵!私も好きです」
春桜が声を上げて笑った。
秋葉と冬椿もそばに寄り、並べられた菓子をのぞき込む。
「ふむ…季節でないせいか、周防殿の好むようなものがなくて残念だな」
「秋になれば大いに実るでしょ。姫様、秋には果物をたくさん用意いたしましょう?」
「ああ、そうしよう」
頷いて、忘れないよう心のなかに留める。
美味しいものに関する約束は、違えると怖いのだ。
「して、周防」
「…はい」
「そなた、ここにいるには身分が足りぬと申したな」
「……はい」
その顔から笑みが消えた。物憂げな表情に、側にいた春桜が心配そうな顔をする。春桜の身の上を考えれば、一番周防の気持ちが分かるのだろう。
「であれば、ここに来たのは運命の巡り合わせであろう」
「え……?」
「皆、周防にここへ来るまでの話を語ってやりなさい」
女房たちを見回すと、皆理解した様子で頷いた。
何が始まるのかと目を白黒させる周防。3人は彼女ににっこりといたずらっぽく微笑みかける。
「…では、私から」
冬椿が進み出て、語りだす。
「私は、姫様にお仕えするために入内致しました。まだ姫様が幼い頃です。今から…5年ほど前の冬でございました。」