その一
夜だから大した人の目もない、と略式にした十二単が、それでも重くてため息が出る。いっそ脱ぎ捨ててやろうか、なんて馬鹿なことを考えながら、月明かりと所々に灯された明かりを頼りに歩く。
こうして歩くのは珍しくない。どころか習慣ですらあるのだが、この重量を背負ってそれなりの距離を歩くのは決して愛せる類のものではなかった。
「梅…」
渡殿に差し掛かった時、ふと甘い香りがして顔を上げる。視線の先、つい先日まで硬くつぼみを結んでいた梅の花が、ゆっくりとほころび始めているのが見えた。
最近は日中の日差しも段々と暖かくなり、春の気配が迫っているのを感じる。
開き始めた花と、上から降るようなその香り。一瞬、自分がどこにいるのか忘れるような、甘い空気。
つい止めてしまっていた足に気づく。呼ばれているのを思い出して足を速めた。清涼殿へ行くには、自分の住む襲芳舎を出て梅壺と藤壺の前を通り抜けなければいけない。時の帝にして私の父がすむ清涼殿は、私の房から少し遠い。
藤壺には今、中宮位にある條子という后が住んでいる。一番清涼殿に近いそこを与えられているのは彼女の寵愛故だと、あの房の女たちは信じて疑わない。
寵愛。そんなものが彼女に向けられてるわけがない。そこに居を許されているのはひとえに政治的な思惑あってのことと、私は知っている。條子は、彼女の父である右大臣を味方につけ、帝の権威をより盤石なものとするための布石だ。
藤壺の隣、清涼殿に2番目に近いのが梅壺。私がかつて幼少期を過ごし、父が今尚最も愛する房。今は主を失った、静かな場所。
父から折りに触れ、梅壺に移ってはどうかという内容の文を受け取っては断っているのを思い出し、陰鬱な気持ちになった。
梅壺にひとりで住むなど、想像するだけでひどい苦痛を伴う。
あまり考えない様にするため、足早に通り過ぎてしまおうと思った。なのに、梅壺から香ってくる匂いは結局また私の足を止めてしまう。
「お母さま…」
生の梅とは全く違う、練り上げられた梅の香り。持ち主不在の今なお色濃く香るそれは、今は亡き母、梅花の女房が愛用していたものだ。
梅花の女御、すなわち私の母は、今上天皇の寵愛を受けて梅壺を賜り、幼い娘をおいて儚くなった。
梅壺には、母の思い出がありすぎる。
久々に嗅いだ梅の香りのせいで、ずいぶん時間がかかってしまった。夜が深まったせいで、清涼殿から見る月がいつもよりはっきりとしている。
御簾をくぐり、足取り軽く清涼殿を奥まで進んだ。
父が寝所としている部屋。そこに置かれた、梅の刺繍がついた几帳が定位置だった。
「お父様」
「尭子、来たか」
几帳の向こうで、父が身を起こす気配がする。
尭子と書いてタカイコと読む。これが私の名前だが、この名で呼ぶのは肉親である父ぐらいのもの。大抵の者は、私が住んでいる襲芳舎が雷鳴壺という別名を持つことに由来して、私のことを雷舎の宮と呼ぶ。
気安く名を呼ぶことも、名を明かすこともはしたないとされる宮中。その中で育ってきた私は、だからこそ、気安く名前を呼ばれるこの空間がとても大事なものに思える。
「入ってきなさい。新しい書物をいくつか手に入れたから、持っていくといい」
「はい」
几帳を回り、父のもとに行く。
巷の常識では、成長した女性はたとえ家族が相手でも顔を見せないものだ。しかし、私たちは違う。
不調や変化に気づけるよう、父は私の顔を見たがる。私もまた、あらゆるしがらみを抜けて楽に話せる場を必要としていた。
きっと本来なら母がいて果たすべき役割を、父は代わりにこなそうとしてくれている。
父の手元には何冊かの書物があった。新しいものとはそれらだろう。どれも見たことのない題名のものばかりで、胸が躍る。
「お前のところの、書物に詳しい女房に見せるといい。何か解説を添えてくれるだろう」
私は、自分の殿で帰りを待っているはずの三人の女房のうち、一番背の高くて色の白い女を思い出した。見たところ物語のようなので、彼女はきっと気に入るだろう。喜んで他の書物との関連性や作者についての解説もくれると思う。
「冬椿ですね。はい、見せてみます」
「…それで、だ」
「はい」
「今宵のうち、一つ話したいことがある」
父にしては珍しく、すっきりとしない言い方だった。いつもなら、ここでさっと本題に入るのに。
切り出し方を迷うような話。さては婚姻か、と身構える。
「…一人、新しい女房をそなたにつける」
全く別の方向から、思いがけない話が飛んできた。
私の女房のことなど、いつもの父は口を出すようなことではないのに。
「女房はこれ以上必要ない、と申したはずです」
確かに、私の女房はたったの三人だ。これは、帝の娘として生きる私にとってありえないほど少ない数だし、そのことはよくわかっている。
それでも、あまり多くの女房を抱えるのは気が進まなかった。知らないものに囲まれて生きていかざるを得ないこの宮中で、せめて自分の側にいるものだけは信頼できるものを選びたかったのだ。
人数が増えれば、不和も増える。
私との相性だけではない。女房同士のいさかいや妬み嫉みを生みたくはなかった。そういうことが容易に起きると、私はよく知っている。
幸い、今自分のもとにいる三人は優秀で、人の出来た者たちばかりだ。知りうる限り仲はよく、人数の少なさを感じさせぬ働きを見せてくれている。皆、私が様々な折りに見出し、言葉を交わして選んだ者たちだ。これ以上を望む気持ちはない。まして見知らぬ者を帝のお達しとはいえ自分の房に迎え入れるなど、あり得ないことだった。
父もそのことは知っているはずなのに、なぜ今更そんなことを、といぶかしく思う。怪訝な顔をしたのがわかったようで、聞くまでもなく理由が振ってきた。
「右の推薦だ。そなた付の女房が少ないのは周知の事実。しかもあれの立場は仮にも中宮だ。断れぬ」
右、とは條子の事だ。
父親が右大臣であることにちなんで名付けられた「右の方」という條子のあだ名。父親の権威あっての地位だと揶揄する気持ちを含んでつけられたのを皆知っている。そういう由来だから、中宮の名として品がいいとは言えず表立って呼ぶ人はいない。父も公の場では決して呼ばないが、彼女とその父親の存在を苦々しく思うのは同じらしい。私の前ではそれをさらに縮め、右、とだけ言って彼女を指すことが多かった。右大臣が聞いたら顔を真っ赤にして怒り出すこと必至である。
それで、なぜ私の女房の話に條子が関わってくるのか。
「なぜ、私の女房に中宮様が口出しなさるのですか」
「仮にもお前の母代わりだ」
「母などでは、ございません…!」
思いがけず大きな声が出た。
條子は母よりも私に年が近いはずだ。母代わりになれるほど経験豊かではないし、心のこもった交流をした覚えもない。彼女は私にとって単に父の后、否、政治の駆け引きのために父が動かす駒程度の認識しかなかった。
それが、母親顔で意見してくるとは。
いやな日だ。やけに母の不在を強く感じる。
「もちろん私も、あれをそなたの母だとも、自分の真の后だとも思ってはおらん」
父の声が、わずかに怒りと悲しみを湛えているのがわかった。
頭に上っていた血が、一気に冷える。
私はまだ、母を失った喪失感を克服できずにいた。しかしそれは父も同じ事。寧ろ、立場上心境を素直に吐露できない父の方がよほど、母の死が堪えているようにも思えた。
「だが、あれは私の后でそなたが娘だ。傍から見れば母代わりとも思われる」
傍から見れば母に見える、そんな人間が自分の女房を私に差し出すと言う。見た目は、娘をおもんばかる母。私と條子に血のつながりがない以上、條子の温情とも捉えられる。
これを断れば、私は母親の気持ちがわからぬ幼い娘扱い。しかも、右大臣からの心証が悪くなること間違いなしだ。
「…どうにも、ならぬようですね」
「ならん」
父が、呻くように言った。
私ももう癇癪を起こすような子供ではない。父のせいでないことなどわかりきっている。ただ、この現実が少し不快だった。自分の身の回りのことでさえ、最低限守ろうとしたその場所さえ、こうやってかき乱されるのだ。
「私の殿に人を。女房の誰かに迎えを頼んでくださいませ」
今一人きりであの梅が香る場所を通り過ぎられる気がしなかった。
父が、御簾ごしに控えていた者へ使いを命じる。しばしやり取りがあって、またすぐに静かになった。
何かを命じられた彼が御簾を離れたようなので、すぐに迎えが来るだろう。
「…お父様」
「なんだ」
「どのような者が来るのでしょう」
私が條子の元からやってくる「敵」に対峙するつもりなのを感じ取ったのだろう。父は口の端をつり上げて笑った。
流石というか何というか、帝という立場で宮中を渡り歩いてきただけあって父には老獪なところがある。私が好戦的な構えを見せるとやけによろこぶのだ。
「長く、右に仕えている者らしい」
「それは…単なる善意とは、受け止めきれませぬな」
「ああ。なんぞ謀りあってのことだろう」
私の存在を右大臣家が日ごろから疎ましく思っているのは知っている。
現状、父は私以外にも何人か子を持っているが、どの子も女であるはずだ。
右大臣の力もあって中宮の位を得た條子は現在身重。初の男児が誕生すれば確実に東宮となり、次代の帝として遇されるのは間違いない。
そんな状況でも尚、母親が不在の哀れな身の上とはいえ父の関心が私に過剰なほど向いているのは明らかである。條子が父の関心を引く上で一番邪魔なのはどう考えても私である。
帝のもとには條子からの誘いの手紙か、右大臣からの誘いの手紙かのどちらかが二日と開けずに届くという。一方で私に対して何かしてきたことはなかったのだが。
私に、旧知の女房を渡す。それは今まで、帝の関心を引くことにとどまっていた計略が、ついに私を直接妨害するに至ったことを示しているのではないか。
「お父様。この話、誠に断れぬ事でしょうか?」
「なにが言いたい」
「…意地の悪い」
父のとぼけた顔を見て、呆れとも怒りともつかない感情が沸く。
仮にも帝だ。右大臣の力がどんなに強大だとしてもその気になれば断れるはず。それに、普段宮中の均衡を重んじる父にしては、実の娘のもとへ后に仕える女房を引き渡すなど、右大臣家を特別視するような対応を突っぱねないのは珍しい。
「…断らずとも、そなたならうまくやれる。自分の駒に加えるのもよかろう」
やはり、断らなかったのはわざとのようだ。
うまくやれる、と父に評価されるのはうれしいが、だからと言ってむやみに面倒ごとを押し付けて欲しくはない。
「私にこれ以上の駒などいりませぬ」
「なかなかに切れるようだ。何度か私のもとにも右の使者として来たが、使者とはいえ一切の動揺なく帝の前で話せる女人など何人いる?」
「私の女房たちは皆しゃべれます」
「春桜など、最初は酷かったではないか」
引き合いに出された女房、春桜のはじめのころ。
確かに、春桜は酷いものだった。言葉遣いはめちゃくちゃ、あがりきってろくに伝言を伝えられずにいたのだ。丸い大きな瞳に涙をためていたのを思い出す。
しかし彼女は、この宮中においてかなり珍しい出自のものである。貴族の子女として育てられ、あわよくば帝の心を得よとすら言われているであろう他の女房たちと一緒にしてほしくない。
「それに、そなたの女房は四人のほうがよかろう」
言いつつ、にやりと口角を上げる。
「春桜、秋葉、冬椿…夏の席がまだ残っておろうが」
「そういうつもりでつけたのではございません」
確かに、そういう名づけをしたのは自分だ。
でもそれは、四人女房を入れることを想定したのではない。あくまでそれぞれの雰囲気にあった名をつけていて、どうせなら春夏秋冬から取れば雅か、と考えたせいだ。
暖かな春の日差しを思わせる春桜、艶やかな秋の印象を持つ秋葉、冷えた冬の真っ白い静けさをたたえる冬椿。
皆上品であれ、と言われている宮中で、夏の似合う女房とは逆にどのようなものか、見てみたいぐらいだ。
「わかっておる。だが…」
そこまで話して、不自然に言葉が切れる。
心配だ、とその目が言った。
新しい女房に害されることが、ではない。私の手勢が少なく、いざというとき頼れるような有力な貴族が後ろ盾にいないことが、心配だ、と。
ここは政治闘争の場である。いくら帝の娘という肩書があっても、それは決して安寧を意味しない。秋頃に生まれる條子の子どもが男児であれば、私は簡単に追い落とされ適当な貴族に降嫁する事となるだろう。
確かに、父の心配はもっともである。
「…夏の名を、考えておきます」
「その書物の中に、植物に関する物もあったはずだ」
最初に渡されてから横によけていた数冊の書物に目をやり、父が微笑む。
「無理はせぬよう」
「させているのは誰ですか…」
「私だな」
からりと笑って、父が私の頭を撫でた。
子ども扱いに反抗しようとした私を制し、何かに気づいた父が顔を上げた。
「ほら、迎えだ。今宵はここまでにしよう」
振り返ると、御簾ごしに使いが戻っている。迎えを呼んで戻ってきたのだろう。
書物をまとめて立ち上がった。
「おやすみなさいまし」
「ああ、お休み」
礼をして下がる。父は見えなくなるまで私を見ていた。
清涼殿から私の房へ出る方の御簾。そのすぐ内側に秋葉が迎えに来ていた。
「秋葉が来るなんて、珍しい」
「迎えを所望されることこそ珍しゅうございます。お体の加減が優れぬのかと思い、私が」
確かに、病人の迎えに医療の心得がある秋葉は正しい選択だ。残念ながら、すぐれないのは体でなく心だが。
「ありがとう。体調は大丈夫。ただ…」
「ただ?」
「…一人で戻るのが心細い心持になった」
「…では、お供致します」
「ありがとう」
弱音を笑わず、ただそばにいて供をする、と言ってくれる者の存在に安堵する。
秋葉と連れだって歩きながら、来るという女房が夏の名が似合う者であればいいと、そんなことを思った。