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Nierって開会式で流れるくらい評価されてたんですね。正直意外です。
かつて、”花の都”だの、”芸術の都”だのと、なにかと特別視されてきたパリで一昨日、オリンピックの開会式が行われた。が、私自身、東京五輪がつい最近のものに感じていたり、昨年のWBCで歓喜したりして、割とお腹いっぱいだったので、特段今回のパリ五輪に興味があるわけでもなかった。(かつ、セ・リーグ特に中日の動向を追っかけていて、オリンピックの存在を半ば忘れていた)しかし、人類として、古代ギリシャで争いの代替として作られたオリンピア、そしてその意思を継承したクーベルタン伯爵が”世界平和”を目標に世界規模で再開催したオリンピックである、開会式くらいは目を通しとかないとという使命感に駆られ、まあ見てきたのだ。各々思うところはあるらしいが、まあ僕個人の意見を語ろうかとも思ったが、見ていない人もいると思うので、どんな物だったのかを説明しながらやっていく。(なお文字で理解するのが難しいという場合には、youtubeの感想動画でも視聴すれば良い)
今回初の試みである、スタジアム外からの最初に映されたのはパリの象徴ともいわしめしセーヌ川である。世界遺産でパリ周囲の遺産(ルーヴル美術館など)がパリのセーヌ河岸としてまとまっていたり、与謝野晶子が歌にしたり、現地人より観光者を魅了してきた川と言える。(なお、僕は商いだったらドナウ川とチャオプラヤー川、綺麗度で言ったら、四万十川推しなので、既にセーヌ川風情と張り合う覚悟ができている)このセーヌ川は今回トライアスロンなどの競技場としても使われるというのだ。選手たちにとって、セーヌ川というシンボルで競技に励むなど、さぞかし嬉しい事だろう。一方でこのセーヌ川、現地人には釣果がないことで有名らしい。彼らはこの川を「汚い川」、「油が浮いてる川」などと言われ、競技をやる上での水質基準に満たない事も少なくないそうだ。急ピッチに汚水の流入を防ぐ貯水施設などを増設したりしているが、我らが日本の下水処理場とは精度が雲泥の差なようで、第三者視点からすると効果的には思えなかったりする。
このセーヌ川に書けられた橋をゆっくりと選手らを乗せた船はくぐり抜ける。それと同時に舞台装置による赤と白と青の煙、こればっかりは一本取られたな。と思った。視聴者をはっとさせる視覚効果。さすがフランスと言ったところだ。しかし、僕らは開会直前、TGVを狙った放火テロが仕掛けられたという事を忘れてはならない。国情の不安定さが露呈した瞬間である。日本とフランス、隣国ではないが、G7の構成国の2つである。我々も多少の危機感を憶えなくては…と思ったり、思わなかったり。
この後は、フランス革命パート。マリー・アントワネットの処刑をオマージュしながら、ゴジラの演奏とオペラ歌手による血生臭いパフォーマンス。きっと多くの人々はなぜ?と混乱状態のことだろう。僕もその類の者だ。(なお、ロック好きとしてゴジラの演奏自体はとても良かったと彼らの名誉の為言っておく)ただ、自然と納得はいくのだ。明治維新など生ぬるい。きっとあれこそが真の革命なのだ。平民が国へ反逆する唯一の行動なのだ。命を犠牲に国家を変える決断。それはグロいと表せる程度なものではない。きっと国民にしたら、栄誉ある血しぶきなのだ。だからこれらは、我々異国人が評価できない。そういうものだったんだ。程度に流せば良いと思う。第一、あの程度でグロいなんて言ってたら、中学生の義務教育の一つとまあ革命行為が起こる国なんて、そもそも褒められた国情ではない気がするが。
そして、最後にドラァグクイーンらによる意味分からんダンスだった。こればっかりは僕も謎と言わざる負えない。少し、意見としては趣旨が外れるが、映画・ドラマその他様々な芸術作品において、世情が何かとポリコレを重視す流れが来ている。(ティンカーベルが黒人になるくらいには)だが、実際それらを扱って成功した作品は上げて、グレイテスト・ショーマンくらいしかまともなのがないのだ。というか
芸術的かどうか以前に、このような風潮を僕は許容できる気がしない。。。なぜか。不自然だからである。だってオネエの孫悟空はカッコ悪いし、黒人の霞ヶ丘詩羽に僕は萌えることはない。差別云々以前に、場面に即した正しい作品を作るべきなのだ。全ては視聴者が違和感を憶えないようにだ。つまり、いくら脚本が良くても、演技がうまくても引っ掛かりの性で、間違った評価が下されることを避けるためである。現状、国内外問わず高い評価を受けている日本の製作界隈が、数年後この流行に乗じないことを願うばかりである。
(追記:最後にディオニューソスオマージュ(スマーフおじさん)及びポリコレ満載の最後の晩餐を見て、奇抜≠芸術である。引き算の美学という言葉があるように。きっと特別な物は適当な付加価値とか試行回数の暴力によって特別なるのではなく、なるべくして特別なのだろうとか思ったりした。)
最後、IOCが韓国=北朝鮮と間違えたり、イスラエルの選手にブーイングしたり、なんか紛争とかデモの火種になりそうな開会式で、”平和”とは何ぞやと問いかけられた気がした。第一開会式は勝者と敗者が決まっていなく、誰もが希望に満ちている一番綺麗な瞬間なはずだ。しかし、今回別方面の問題が色々あり、少し霞んで見えてしまったというのが正直な所だ。ただ、僕は映像で見ていただけなので、今回出場する選手達からしたら、それはそれは綺麗に見えたのかも知れない。彼らの検討により、この大会の評価が上がることをただ願うばかりである。
関係ないですが、呪術廻戦の虎杖の領域展開についての独自考察を述べておきます。
(前提として1,文脈から電車内でのバトルはあり得ないものとする。2,地蔵菩薩印を結んでいることから宿儺の伏魔御厨子と意味上何かしら対のものとする。3,宿儺が驚いていることから、新しいカテゴリの領域とする。)
1,つまんない版
五条とか鹿紫雲のような宿儺の走馬灯説。
虎杖が死んでいるかどうかはこの際どうでもいい。はっきり言って、これはみんなの想定内というかとにかくつまらない。まあ空港とか荒野とかの流れから分からなくはないが、ちょっと怪しい事が2つくらいある。まずあの魂を捉えた打撃を応用した領域展開程度で反転術式を使える宿儺が即瀕死になるか?もう一つは、宿儺が瀕死に追い込まれるような領域展開は伏魔御厨子と本当に対のものになるのか?です。
1つ目、単純にパワーバランスの問題。無量空所を耐え抜いた宿儺が弱点といえど小僧の領域展開くらいで即死になるとは考えにくい。←虎杖がなぜ習得済みの領域展開をこれまで使わなかったのかが問題になってくる。
2つ目、宿儺という最強キャラに打ち勝つというのは、王道展開ではあるが、割と無理がある行為。というか、宿儺の解、捌、御厨子と虎杖の解、御厨子が対となっているとは言い難い。第一、術式同士の打ち合いに打ち勝ったとして地蔵菩薩印の掌印を結ぶ意味がない。
だからやはり、あれが彼らの走馬灯とは僕には思えないのだ。
ということなので前提条件4として、虎杖の領域である。ということを追加したいと思う。
私の考察
虎杖の領域展開はただ宿儺と話合うための領域である。つまりは、対象(宿儺)との戦闘を強制的に中断する領域である。ということだ。
これは私の予測だが、あれはシンエヴァオマージュである。257話で宿儺と虎杖が実質親子関係であることは明言されたし。完全なるシンジとゲンドウの関係を真似たと言える。しかもこの説が正しいとなると諸々当てはまるのだ。
まず、シンエヴァの流れから簡単に。
シンジとゲンドウの親子喧嘩→”必要なのは戦いではなく対話であると気づく”→電車で対話による過去回想→ゲンドウがユイの居場所に気づく→ゲンドウの魂の解放→ガイウス到着→シンジが残る魂の解放
となる。これを呪術廻戦に落とし込む。
宿儺と虎杖による親子喧嘩→薄々宿儺を力で倒せるとは思えなくなり、対話が必要であると気づく→電車内で対話による過去回想→片割れが虎杖の中に眠っていた事に気づく→ヤコブの梯子到着→虎杖が伏黒を解放
→虎杖が大勢の前で静かに息を引き取る
まあこれのように完全オマージュとはならないと思うが、結構なありそうな展開な気がしないか。エヴァ好きらしいし。
最後に、宿儺は食べる人として描かれてきた。食べるの反対語ってなんだろうか?飲むである。考えてみると、虎杖が冒頭宿儺の指を飲み込んでから物語は始まった。彼は最終的に宿儺の魂全てを飲み込むのでは?とか考えたりしている。