男とネコ
『男とネコ』
男は、新宿の高層ビルに囲まれたホテルのベッドで女を抱いている。抱くのは別に女じゃなくてもいい、猫だって。男にとって猫と女の違いはセックス処理だけだ。猫の気まぐれさは男に通じるものがある。人に媚びたりはせず、かといって時として擦り寄るテクニックを持ち合わせている。男は事が済んだとばかりシャワーを浴び、女に軽くキスをする。
「じゃあ、先に出るよ。あなたは少し休んでからにしたほうがいい」
昼間にホテルで、ある大企業の専務の妻と堂々と不倫する。堂々としていられるのは仕事の一環だからだ。依頼主は専務。これだから男が結婚不信に陥るのも無理はない。男の仕事は警察のご厄介になること以外、何でも引き受ける。かといって探偵でもないし、便利屋でもない。この気まぐれ男に仕事を引き受けさせるには、条件がなかなか難しい。その一番の条件は男の気分、金は二の次、ひょっとすると仕事は男の趣味でもあるかもしれない。
長身の男は優男に見えるが文武両道で侮れない。広尾の高層マンション最上階に女の影はなく、ネコという名の猫と暮らしている。ネコは捨て猫だったので歳は分からないが、老猫であることは間違いないだろう。一日の大半を、とてつもない広さのリビングからのんびりと下界を見下ろしている。
男の仕事専用のスマホが静かに震えた。
「はい」
男は名乗らず、相手の言うことを黙って聞く。相手は依頼内容を一方的に話し、引き受ける用意がある場合は、ある店の個室で会う。この日の依頼に男は、この件がかなりヤバイのではないかと直感的に思う。で、あるがゆえ気まぐれ心が刺激される。結果、男は新宿南口にある小さな中華料理店を指定した。この店の奥にある一室は防音壁で遮音された完全な密室となっており、情報が漏洩されることのない男の事務所だ。
依頼者は中年男、会ったときから警察関係者らしい雰囲気を身に纏っていた。威圧的ではなく、存在そのものを消し去り、尾行する才に長けているように見える。男は相手のことを詮索しない、勿論名前を聞くこともしない。依頼内容さえ納得すれば、商談成立となる。
中年男は黙って胸ポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。写真の古さは色焼けだけでなく、くたびれた印画紙が語っている。そこには、若い三人の男女が写っていた。その中の一人の男は、今ではかなり老けてはいるが間違いなく政界のドンと言われている男だ。
男は写真を手に取った。
「少し確認させていただきたいが、この真ん中に写っている人物は政界のドンと呼ばれている人物ですか?」
中年男は黙って頷いた。
「ここに写っている二人の男女が、二ヶ月前に相次いで死亡している。殺人事件の被害者と加害者として。しかし、私はこの事件が男女間のもつれが原因の死亡ではないと睨んでいるんです」
中年男は鋭い眼光でテーブルの上に置いた写真を凝視した。男は再び写真を手に取ると、今度はじっくりと見た。背景は足元に大小の石が転がり、その奥に川が流れ、遠くに結構高い山が霞んでいる。ありふれた川原のようで、場所を特定するのに時間がかかりそうだ。三人はリュックを背負っており、仲良し三人組でハイキングに来て、川原で写真をパチリ。そんな他愛無い写真に見えた。
中年男はやおら手帳を開き、しっかりとした口調で言った。
「二ヶ月前の三月十日、この写真の右端の男が交通事故で死んだ。深夜、関越自動車道の川越インターチェンジを下りる直前、防音壁に激突した。単独事故だ。車を調べたが故意に仕掛けられた形跡はないし、本人はお酒はもとより、薬の類も検出されなかった。然るに本人の運転ミスと判断された。もう一人、その事故の三日後、写真の女がアパートで絞殺されているのを発見された。検視の結果、死亡推定日時は交通事故と同日である可能性が高いと判断された。女のアパートには事故死した男の指紋がベタベタと付いていた。二人は高校時代交際していたが、女は別の男と結婚。しかし、夫が病死した後、事故死した男と再会し、付き合いだした。結婚はしていない。女は友達に結婚はこりごり、今は夫の保険金で暮らしていると言っていたらしい。ただ、それも底を付いてきたのを、女の貯金通帳が示している。このように付き合っていたのだから指紋があって当然なのだが、これにより警察は事故死した男が女を殺害し、自殺を図ったか、あるいは逃げようとしたが殺人を犯したことで気が動転し、事故に繋がったと最終的に結論付け、被疑者死亡で送検され一連の事件は決着をみた。しかし、女の首を絞めたとされる絹のネクタイが発見されていない。絹のネクタイが凶器と断定したのは、首の線状痕に微量の絹の繊維が付着していたからです。この繊維の鑑定から、あるメーカーのネクタイだと判明した。しかし、事故死した男はトラック運転手で、絹のネクタイなど見たことがないと同僚が証言している。さらに運転歴は長く、事故を起こすような男ではないと言う。だが、これらの証言はことごとく却下された。絹のネクタイを持っていなかったとの証拠はなく、逃げる途中で捨てたのだろうと。運転歴が長く、運転が上手かったとしても、殺人を犯した後では、平常心でいられるはずがないと。なんとなく上の意向が働いて、この件を早く片付けたとの印象を持っているのです。私としては納得できないでいるが、一人ではどうしょうもない」
男は黙って聞きながら、改めて写真に目を落とした。
「警察は男女間のもつれが原因と見ているわけですね。勿論、裏取りもしたでしょうから、疑問を挟む余地はないと思いますが、あなたがわざわざ私に調査を依頼するからには、単なる殺人事件ではないとの何かしらの根拠がおありなんですね。私はプロではないが、絹のネクタイは兎も角、事故死を殺人とするには、どうやったのかを解明しなければ、警察は一度決着をみた事件を覆すことはありませんよ。失礼、これは釈迦に説法でしたね」
男は中年男に真っ直ぐ向き合って言った。
「はっきりとした根拠と言われても、勘みたいなもので物的証拠があるわけではないし、事故死を殺人だとする根拠も、まだ掴んでいないんです。ドンは以前から黒い噂が絶えず、私も長年追いかけていたが、これといったものが見つからなかった。私は今度のことにドンが関与している可能性が高いとみています。何故なら、この件を早く処理するようにと上の方へ圧力がかかったらしいとの情報を得たからです。私は、この件を突破口にドンを追い詰めたいと思っています。私は三人の間で秘密の共有があったのではないかと考えているが、勘だけでは動くことはできないし。
実は昔、相棒と組んでドンを追い詰めたことがあるんです。あと一歩というところで相棒が事故死した。ドンがと疑いを持ちましたが、その時も証拠がなく、またドンに確固たるアリバイがありました。確固たるアリバイも疑いましたが、それを崩すだけの証拠を見つけ出せなかった。ドンに固執するのは、相棒のことがあるからです。あなたは事件など素人だけど、プロには及ばない力があると聞いたことがあります。ただ、あなたに危険が及ぶかもしれないので、受けるかどうかはじっくりと考慮していただきたい。後日、連絡致します」
中年男は緊張した面持ちで言った。
「分かりました。私のことを危惧するということは、あなた自身にも当てはまることですね。くれぐれもお気をつけて下さい。連絡をお待ちしております」
中年男は写真を残して帰って行った。そして、その夜、男が危惧していたことが起きた。十一時のテレビニュースで男の水死体が見つかったと報じられた。顔写真は中年男の顔で、酔って川に落ちたという。テレビで、中年男は所轄の交通課の刑事と紹介されていたが、確か長いことドンを追いかけていると言っていた。ひょっとすると、うるさいハエを嫌がるドンによって移動させられたこともありうる。男はこれは事故ではなく殺人だと確信した。あの実直そうな中年男の顔を思い出した時、それは男の琴線に触れた。
男は二ヶ月前に起きた殺人事件と自殺と処理された事故について、男が持つ特別のネットワークを駆使して調べた。男が持つ特別のネットワークは政界、警察、極道など多岐に渡る。政界では当然ドンを排除したがる会派があり、警察内部では縄張り意識、極道に至っては末端を掌握するなど出来ていない。それらの歪みから漏れてくる情報をうまく繋いでいく、まるでパズルのように。
ドンが事故死した男から強請られていたのではないかとの情報が炙り出されてきたのは政界関係者からで、事故死した男がにやにや笑いながらドンに話しかけていたのを見たと。また、その時のドンは苦虫を噛み潰したような顔だったが、普段なら怒鳴り散らすドンが大人しく頷いていたという。ただ、これも単に噂の域を出ない。もし、事故死した男がドンを強請ったのであれば、当然強請るだけの材料を持っていたことになる。しかし、事故死した男やこの男が殺害したとされる女の周辺からは、それらしき物は出てきていない。いくらドンでも物証となるものを隠したとなれば、警察も無視は出来ないだろう。となると、あとは強請られていた原因の究明である。その原因は、あの写真に秘められている可能性が大だと思う。それには、あの写真がどこで撮られたものか調べる必要があるが、どう見ても何の変哲もない川原だ。ここは、大学時代の友人に協力を求めることにした。山男でもある彼は、霞んではいるが何という山か分かるかも知れない。早速、連絡を取って新宿の喫茶店で待ち合わせた。事務所はあくまで仕事の依頼を受ける場所だからだ。
「久し振りに会って、いきなり尋ねるのもなんだが、この写真の場所を知りたいんだが」
男は山男に会うと、すぐに写真を見てもらった。山男は男から写真を受け取ると、しばらく見入っていた。
「いきなりかよ。おまえは相変わらず、愛想がないな。まあ、おまえに愛想を求めるのもなんだが。この山は秩父連山だろうな。ただ、こんな川原はどこでもあるけど、家に帰ってパソコンで調べたら、大体の場所は分かるかもしれないな」
山男はコーヒーを飲みながら言った。
「それにしても、おまえがマジで夢中になるなんて。何かあるのか、この写真に」
男は長年ドンを追う中年男の必死な横顔を思った。仕事ではなく、中年男の意思を受け継がなくてはならないという使命感にも似た強い思いがある。分かったら連絡してくれと山男に頼んで、男は愛想もなく別れた。ただ、手数料はきちんと払った。男は仕事と友人との境界線をきっちり分けている。なあなあみたいな曖昧な友人関係は、男のポリシーに反するのかもしれない。その日の夕方、山男から連絡が入った。小菅村を流れている小菅川の川原だという。白糸の滝などもあるという。男は礼を言って電話を切った。
男は次の日、リュックを背負って小菅村に向かった。あまり汗をかいて仕事をすることは無かったが、今回は仕事では無い。中年男の無念を晴らさなければという使命感に燃えている。いつも冷静沈着な男にしては珍しいと自分自身驚いていた。小菅川から山の連なりはよく見えるが、なにしろ三十年くらい前の写真に手がかりを見つけるのは、砂丘でダイヤモンドを探すようなものだと、思わず苦笑してしまう。でも、奇跡は起きる。男が川原の反対側にある、うっそうとした森に分け入ると、樹木の香りに誘われ、知らずに奥のほうへと歩いていた。都会の無機質なマンション暮らしをしていると、人間も自然の一部だということを忘れてしまう。ここは、そんな自分を包み込んでくれる癒しがある。しかし、歩いているうちに道に迷ってしまった。慌てて今来た道に戻ろうとしたが、森の中では同じような木々に囲まれて方向感覚が失われてしまった。男は焦って足早に道を突き進むと、少し開けた場所にある炭焼き小屋のところに出てきた。しかも、そこに若い女が小さな花束を持って佇んでいた。女は男を見て、警戒するような鋭利な視線を送ってきた。男は柔らかく微笑んで女に言った。
「私は森に入り込んで迷子になったらしい。川原に出る道を教えていただけませんか?ところで、その花束は炭焼き小屋で何かあったのですか?」
男は不思議とその花束が気になった。女は男に対して警戒を解いたのか、花束を炭焼き小屋に置くと、小さい声で言った。
「ここで、母が自殺したんです」
「これは辛いことを聞いてしまいました。申し訳ありません」
男は、そう言うと花束の前にひざまずき、手を合わせた。女は小さく頭を垂れた。それから川原への道を教えてくれたが、間違いやすいからと案内をしてくれた。女について歩きながら、男は持っていた写真を女に見せると小さく震えた。それから、森を抜けるまで一言も発しなかった。川原に着くと男は、この写真について何か知っているのか尋ねた。女は、じっと川の流れに目をやっていた。
「その写真の人達はあなたの知り合いですか?」
男は、写真を見た女の反応に何かあると思った。
「いえ、私の知り合いではありません。むしろ、あなたがこの人達を知っているのでは?」
男は、ひょっとしてダイヤモンドを捜し当てたかもしれないと期待した。女は少し考えるような仕草を見せてから、男に言った。
「私の家は、すぐこの先にあります。もし、よろしければいらしていただけますか?」
男は女の後に付いて行った。確かに歩いて、ものの五分ほどで女の家に着いた。小さな畑の奥に木造の家があり、祖母と一緒に暮らしているという。祖母は畑で何やらしていたらしく、しゃがみこんでいた。男が会釈しても、あまり関心を示さず、また、俯いてしまった。女は男を茶の間に通すと、仏壇に手を合わせた。男も女の後に続いて手を合わせた。女は一旦部屋を出て行くと、お盆にお茶を載せて戻ってきた。それから、仏壇の引き出しから十センチ四方の小さな紙片を取り出した。
「これは、母の遺言のようなものです」
その紙片には、男の顔が丁寧に書かれていた。
「母は絵が好きで、画家になるのが夢だったらしいです。その夢を、その男が奪ったのです」
男は、その絵を見て、それが誰だかすぐに分かりました。若い頃のドンそのものです。男は逸る気持ちを落ち着かせ、静かに息をはいた。
「もう少し、詳しい話を聞かせていただけますか?」
男の頭の中には、すでに悲惨な事柄が描かれていた。そして、それはその事柄をなぞるような出来事だった。ハイキングの当日、道に迷ったドンたちは手分けして道を探すことにして、三人がバラバラになった。その際、ドンは山菜取りにきた地元の女を炭焼き小屋に連れ込み、乱暴した。まだ、十六歳の少女だった。高校卒業後は、都会の美術学校に行く夢を抱いていた。少女は親に言えず、一人で悩んでいた。少女の異変に気がついた時、すでに堕胎の時期は過ぎ、少女は女の子を出産した。そして、その後、あの炭焼き小屋で命を絶った。唯一残されていたのは、机の奥にかくされていた一枚の絵。恨み言は書かれてなかった。ひょっとすると、それはドンに対してではなく、産まれてきた娘への配慮だったかもしれない。
二人はあちこち道を探していた四十分くらいの間に、ドンがしたことに気が付かなかった。それから三十年ちかく経って、三人で飲んだとき、酔いつぶれたドンがポロっと漏らした。ドンの中では遠い過去の話だとの認識だったのかもしれない。しかし、生活に困窮していた二人がこの過去に飛びつき、強請り始めるのは想像に難くない。特にドンはこの頃、青少年の教育について議会でも声を張り上げ、日本の将来を託すべく若者たちを応援しようなどと、ぶち上げている。そんな時に、少女を乱暴したことが公になれば、当然政治生命を失う。男はドンがヒットマンを使ったとは考えられないと思う。強請られる相手が変わっただけになる。パズルの最後のピースは、森で出会った女だった。そして、ドンの娘である女は、ドンの息の根を止めた。若くして死んだ母の復讐だったかもしれない。
ドンは女の殺人さらに中年男の殺人についても自供した。事故死した男は本当に事故だった。ドンは川越のラブホテルで会って、お金を渡すと告げていたらしい。ラブホテルは、秘密裏に会うには格好の場所だと考えたらしい。もちろん、殺すつもりで呼び出したが、ドンにとってはラッキーなことに、本人が事故死したので自分の手を汚す必要が無くなった。ドンの逮捕を受けて、政界の勢力図が大きく変わった。いずれ、別のドンが現れるのは時間の問題であろう。
男が不思議なのは、中年男がドンにいとも簡単に殺されたことである。刑事の彼が六十歳近いドンに負ける訳が無い。ましてや、お酒まで飲んでいる。男は気になって、中年男が話していた事故死した相棒について調べてみた。相棒は女で若かった。もちろん中年男も若かった。ひょっとすると、相棒の女は中年男の恋人ではなかったのではないか。そう考えると、中年男がドンの勧める酒を飲んだのも、ドンに川に突き落とされたのも合点がいく。中年男はドンに自分を殺させたのではないだろうか、ドンのアリバイを崩せず事故死とした恋人への復讐として。そして、ある意味恋人と同じ状況で死ぬ、つまり自殺だったのではないだろうか。中年男の愛と執念を男は少し羨ましい気がしていた。
男は銀座のホテルのベッドで女を抱いている。ある大企業の会長の愛人だ。もちろん仕事。依頼者は会長の妻。男はつくづく女は仕事だけでいいと思う。
いつものようにシャワーを浴び、女に軽くキスをするのも忘れない。
男は、相変わらずマンションのリビングで、伸ばした足で寝転んでいるネコにカメラを向けた。今、ここにいる一瞬が何ものにも代えがたい時間であることを、中年男が教えてくれた気がする。ネコはカメラのファインダーに視線を合わせた。
パチッ❤