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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

断罪されたい悪役令嬢は、自分の罪を盛りに盛る

作者: 天ノ瀬

「セルマよ! お前との婚約は破棄させてもらう!」

「な……え? はぁ……っ!?」


 国の中央にある貴族高等学院――その卒業パーティーの真ん中で、セルマの婚約相手の男は高らかに言い放った。


 セルマは華やかに結い上げた赤毛と、ワインレッドのドレスを大きく揺らし、目をむいて婚約者を見た。


 突然宣告を下してきたこの婚約者は、名をジョナスという。茶髪に茶色の目をした優男だ。


 ジョナスの片腕には別の令嬢が絡みついていた。ふわふわとしたウェーブの金髪が可愛らしい、小柄な娘――ドロシーだ。


 ドロシーは伯爵家の娘で、ジョナスも伯爵家の子息。対するセルマは二人より身分が低い、小さな子爵家の娘……揉め事では不利な立場だ。


 セルマの劣勢を見透かしたように、ジョナスとドロシーは涼しい笑みを浮かべている。


 ジョナスはドロシーと身を寄せたまま、続く言葉を言い放った。


「僕は今この時をもってセルマとの婚約を白紙に戻し、真に愛する相手、ドロシーと、新たに婚約を取り結ぶ!」

「嬉しいわ……! 私も真実の愛のお相手として、ジョナス様だけを一途に想うことを誓います!」


 イチャイチャと盛り上がっている二人を前にして、セルマはこめかみに青筋を立てた。


「そんな……こんな場所で決める話じゃないでしょう!? お家とのお話は済んでおられるのですか!?」

「家への相談など不要だ! お前のようなろくでもない女を、我が家に迎え入れるわけにはいかない! お前は学院に入学してから今日までの四年間、ドロシーをいじめていたそうではないか!」

「どこに証拠があるというのですか!」

「ドロシーがそう言っていたのだ! なぁ、そうだろう? ドロシー」

「はい……私、なぜだかセルマ様に酷く嫌われているようでして……。すごく苦しく辛い四年間でした……!」

「なっ……!? この……っ」


(事実無根もいいところだわ……!)


 会場内に響き渡った婚約破棄宣言の大声と、真実の愛を誓う大声。そしていじめの暴露に、食ってかかるセルマの声――。


 歴史ある学院の卒業パーティーという、格式高い祝いの場だというのに……なんともしょうもない揉め事が始まってしまった。


 ――まぁ、大なり小なり、こういう馬鹿馬鹿しい騒動は毎年起こるそうだが。


 卒業パーティーは同窓同士が一堂に会する最後の場なので、毎年数人ほどは、羽目を外してしまう生徒が出るのだとか。


 煌びやかなパーティーの雰囲気と、振る舞われた酒による酔い、そして『最後』という高揚感。――これらの要素にあてられた人々が、大胆なことをしでかすそうで。


 たとえば、叶わぬ恋の相手に思い切って告白をしたり。嫌いな相手に最後に喧嘩を吹っ掛けたり。などなど。


 対外的には『格式高い卒業パーティー』ということになってはいるが……その実は、諸々の『最後のやけくそ』が横行しがちなパーティーなのであった。


 ……ジョナスとドロシーも、そういう思い切った行動に手を出すタイプの人間だったようだ。


 スカートを握りしめて唖然としているセルマを見て、ジョナスは胸を張って言う。


「セルマ、お前は女子生徒の間で『非道の悪役令嬢』と呼ばれていたそうではないか! ドロシーからすべて聞いたぞ! 言い逃れできると思うなよ! お前のドロシーへの陰湿な嫌がらせの数々、今日この場で暴いてくれよう!」


 彼は得意げに言い放ったが、セルマは嫌がらせなんてしたことがない。というか逆である。チクチクとした嫌がらせを受け続けてきたのは、セルマのほうだ。


 だというのに、ジョナスはもうすっかりドロシーに騙され切っている様子……。この男はどうしようもないほどに阿呆(あほう)なのだ。


(うぅ……なんてこと……。こんな阿呆と婚約を結んでしまったわたくしが馬鹿だったわ……! まぁ、仕方がなかったのだけれど……)


 セルマとて、わざわざ阿呆と縁を結びたくなどなかったが、婚約を焦ったのには理由がある。


 動揺と困惑と苛立ちがうずまくセルマの頭の中に、事の経緯が走馬灯のように駆け巡った――……





 思えば、セルマの人生は何かとついていないことばかりであった。


 幼い頃に実母を亡くし、のん気な父親が連れてきた後妻は若いだけのチャラけた女。実母に容姿が似ていたセルマは、この継母の不興を買ったようで嫌われていた。


 父は若い女をめとって調子に乗ったのか、無駄に金を使って家を傾けて――……その末に、あっけなく死んでしまったのだった。


 セルマが十三歳の頃のことだ。学院に入る一年前の事件である。

 父は遠方の領地を訪れた時に、魔族に襲撃されて命を落とした。


 人間領の隣には魔族領があり、不可侵の条約が結ばれているのだが……愚かな下等魔族たちは、なんのこっちゃとホイホイと、人間領への侵入を繰り返している。


 父は運悪く、そういう不届き魔族に遭遇してしまったようだ。


 人間領に入った魔族は、苛烈な拷問刑を受けた後に魔族領へと強制送還される。その執行は、魔族領との境にある辺境伯――通称『無慈悲の拷問伯』と呼ばれている家が請け負っている。


 父を殺した魔族も、拷問伯によって凄まじい責め苦を負ったそうだ。――が、殺人を犯した魔族はそれで終わらずに、その後特別な刑に処される。


 与えられる刑罰は、『滅却刑』と呼ばれる魔法の罰だ。

 

 強大な魔法を受けて、肉体と共に魂までもを消し飛ばされるらしい。輪廻転生すらも許さないという、極刑の中の極刑である。


 セルマの父を殺した魔族も、その刑によって速やかに消し飛ばされた。これで事件は一件落着――……


 ――と、なればよかったのだけれど。父も魔族も死んだが、残された者たちの人生は続いていく。

 当然、セルマの鬱屈とした人生にも続きがある。


 夫を亡くして家の実権を握った継母は、早々と新しい男を連れ込んだ。

 そうして彼女は新生活の資金を得るために、あろうことかセルマを売り飛ばす計画を立て始めたのだった。

 

 『婚姻可能年齢である十八歳を迎えたら、セルマを色好みの金持ち老人のもとへ嫁がせよう』という計画を。


 ……絶対に嫌だ、と、十三歳のセルマは奥歯を噛んだ。


(冗談じゃないわ! これまでだってそこそこ暗い人生を歩んできたっていうのに……! 結婚後の第二の人生まで真っ暗なんて!)


 そして心に誓ったのだった。


(貴族学院に入ったら、自力で良縁を見つけてやるわ……!)


 この誓いを胸に、セルマは進学をしたのだった。


 中央貴族高等学院は国内の貴族家の子息令嬢たちが集まる学院だ。十四歳から十八歳までの四年間、勉学に励む場所である。


 良い成績を収めれば、たとえ身分が低くても良縁に恵まれる――なんて噂が囁かれている。セルマはそれに賭けることにした。


 明るい未来を手に入れるために、入学早々からガリガリと勉学に励んだ。


 そうして上位の成績を維持しながら婚活に励み、三年目にしてついに縁を手に入れた。セルマの家よりも高位の家の子息、ジョナスとの縁を。


(これで未来は安泰だわ。お相手は伯爵家のご子息だから、お金に困ることもなし! 実家からの口出しもなし! 第二の人生は心安く過ごせるはず)


 セルマはホッと胸をなでおろした。


 ――の、だが。

 縁を結んで交流を深めていくうちに、おや……? と思うところが出てきた。


 というのも、婚約者がいる身だというのに、ジョナスはドロシーに鼻の下を伸ばしているように見えることが度々あって……。


(でもまぁ、卒業してしまえば、ジョナス様とドロシー様の縁も途絶えるわよね。……今更手に入れた縁を手放して、ゼロから婚活をするのはリスクがあるし……様子を見ながら、卒業を待ちましょう)


 そう思って多少のことには目をつぶってきたのだが、どうやら自分の選択は間違っていたらしい。


 最後の最後、パーティーの大舞台で阿呆が暴走するに至ってしまった。

 ジョナスは甘え上手な可憐な娘、ドロシーに、すっかり魅了されてしまっていたようだ。



 

 意識を現実へと戻し、セルマは遠い目で息を吐く。


(高位のジョナス様とドロシー様が手を組んでしまったら、もうわたくしが口をはさむことなんてできないわ……)


 きっとジョナスはこの強引な婚約破棄と新たなドロシーとの婚約を、実家にも難なく通すことだろう。セルマの不名誉な『非道の悪役令嬢』のあだ名を上手く使って。


 ……この妙なあだ名を広めた人物こそ、そこにいるドロシーなのだけれど。


 彼女は睦まじい仲を見せつけるように、ジョナスの腕を胸元に抱いてクスリと笑った。


(四年間、ドロシー様をいじめ抜いた『非道の悪役令嬢』、ね……。否定したところで、もうこのあだ名を(はら)うことなんてできないのでしょうね……。ジョナス様は阿呆だし、ドロシー様は性根がひん曲がっておられるようですし)


 自分の学院での四年間の努力は、今この場で、しょうもない二人によって消し飛ばされてしまった。

 実家に帰ったら、きっと即座に金持ち老人との縁談が進められることだろう。


 縁探しを焦り、失敗をした悔しさと、夢見ていた明るい第二の人生が消し飛んだ失望感。そして残された暗いだけの未来――……。


 セルマは誰にも聞こえないような、ボソリとした小声で吐き捨てた。


「もう……わたくし、疲れたわ……。消えてしまいたい…………」


 いっそ婚約の消滅と同時に、自分という存在もパッと消え去ってしまったらよかったのに。……つい、そんなことを思ってしまった。


(…………わたくしも滅却刑を食らいたい気分だわ……)


 十三歳の頃、父を殺した魔族が受けた刑罰が胸をよぎった。大魔法によって一瞬のうちに、この宇宙から存在を消し去られる刑……。


 もはやその魔法で消え去ってしまいたいと思うほどに、セルマは人生に疲れ果ててしまった。


 この魔法刑は魔族だけに適用されるものではない。人間族であっても、情状酌量の余地がない非道な罪を起こした者に執行される――。


 そこまで思い至ったところで、セルマの中で、何かがプツンと切れた。


(……滅却刑、か……。……――そうね、いいじゃない。悪役の令嬢らしく、断罪されてやろうじゃないの……。わたくしの人生、もうどうにでもなってしまいなさい……! クソくらえだわ!!)


 セルマは近くにいた給仕のトレイから、ワインのグラスをひったくった。グイと一気に飲み干し、続けて五つもグラスを空にした。


 体に酒を投入したところで、改めて、ジョナスとドロシーの正面に立つ。


 ドロシーが嘘をついてジョナスを騙し、愛ある未来を手に入れたのならば……こっちだって大嘘をついて、破滅の未来を手に入れてやろうじゃないか。


(いじめ疑惑でもなんでも受け入れてやろうじゃないの! 罪を盛って滅却刑を目指してやるわ!!)


 セルマは酔いがまわって据わり切った目で、二人に向かって言い放った。


「わたくし『非道の悪役令嬢セルマ』が行ってきたという、ドロシー様への陰惨な嫌がらせの数々とやら、どうぞご自由に、暴いてくださいませ!」


 今宵、卒業パーティーの真ん中で。ジョナスとドロシーに加えてもう一人、思い切ったことをしでかす『やけくそ女』が誕生したのだった。



 先ほどとは一転して異様な雰囲気をまとったセルマを見て、ジョナスとドロシーはわずかに身じろいだ。


 が、構わずにセルマは大声で言う。


「さぁ、さぁ! 四年間の思い出を語り合いましょう! 皆様方もお付き合いくださいませね!」


 取り囲んで様子を見ていた周囲の人々にも声をかけておく。同窓たちの証言も、刑を重くするには重要な要素だ。


 ざわざわとした見物人たちの真ん中で、ジョナスはドロシーに声をかけた。


「あ、あぁ……! 暴いてやるとも! ええと、ドロシー、確か君は入学初日から、セルマに目を付けられてしまっていたと言っていたね?」

「そ、そうです……! 入学式を終えて、教室の席についた時に……。お友達とお喋りをしていた私の声を聞いて、セルマ様は『なんて汚いお声でしょう』って、悪口をおっしゃって……」


 おずおずと訴えたドロシーを睨みつけて、セルマは、ふむと考える。


(入学式の後……? あぁ、わたくしがドロシー様に目を付けられてしまった時のことね)


 入学早々に目を付けられてしまったのは、セルマのほうである。このドロシーという娘は、やはりとんでもない嘘つきのようだ。


 セルマは入学初日へと想いを馳せた――。



 入学式を終えて、振り分けられたクラスの教室へと入った後のこと。

 

 席は自由とのことで、セルマは適当に中央あたりに座ったのだった。


 『学院で良い成績を収めて良縁を狙う』という心積もりでいたセルマは、初っ端のホームルームの時間から、ビシリとした真面目な態度で過ごしていた。

 

 の、だが。近くではぺちゃくちゃと喋り続けている女子生徒たちがいた。ちょっと気になったので、セルマは女子たちにコソリと声をかけたのだった。


「あの、申し訳ございませんが、もう少しお喋りのお声を落としてくださいませんか? 先生のお話が聞こえないので」


 その言葉に答えたのがドロシーだった。彼女は馬鹿にするように、クスリと笑い返してきたのだった。


「まぁ、知らぬ他人のお喋りに割って入ってきた挙句、お説教を寄越すだなんて。気の強いお方ですこと。――あなたのその性格、なんだか流行りの劇の、悪役の令嬢みたいですねぇ」

「え? はぁ……」 


 そんな失礼なことを言われるとは思わずに、ついじとりとした目で見てしまったのだけれど……これがよくなかったらしい。


 その日から、セルマはドロシーの嫌がらせ遊びのターゲットにされてしまったのだった。


 なるべく関わりたくなかったので、翌日からは彼女から遠い席を選ぶようになった。一番前の隅っこの席を。


「お隣いいですか?」


 セルマは隣の男子に一声かけて席に着いた。


 静かそうな男子――初日から孤立している男子の隣に座ることにした。ここならば、授業に集中できるだろうと思って。


 こうしてセルマの学院生活が始まったのだった。

 ドロシーとその取り巻きを避けて席を選び、朝一で隣の男子にうかがいを立てるのが日課となった。

 

 

 ――そんな入学当初を思い返しながらも、セルマはドロシーの嘘に乗ってやった。


「えぇ、そうでしたわね。おっしゃる通り、入学初日から、わたくしはドロシー様のことを気に食わない娘だと思っておりましたわ。そういうわけで、ちょっといじめてやろうと思いましたの。もちろん、『お声が汚い』と悪口を言ったことも覚えています」

 

 ドロシーの嘘の訴えを、セルマはまるっと認めてやった。言った本人であるドロシーが怪訝な表情を浮かべていたが、構わずに話を続ける。


 罪を重くするような、やけくその嘘をついてやった。


「ドロシー様のお声があまりにも耳障りだったので、わたくし放課後にあなたを呼び出して、縛り上げて舌をナイフで削いでやったのでしたっけ? 痛みに呻き転げまわるドロシー様のお姿、未だに覚えていますわ。口からダラダラと血を流して、まぁ、汚らしかったこと」

「え、えっ……!? っと、あの……っ」


 当然ながら、セルマはそんなことをしていない。大嘘もいいところである。


 妙なことを言い出したセルマに、ドロシーは困惑してオロオロとしていた。そんな彼女を睨みつけて、セルマは圧をかけた声で言う。


「あら、まさかご本人がお忘れになられているなんてことはないでしょう? わたくし、あなたの舌を削ぎましたよね?」

「……ええと、は、はい……。そう、です。私はセルマ様に舌を削がれるという、酷い暴力を受けたんです……!」


 セルマの嘘いじめを否定すれば、ドロシーの言い分にもほころびが出てきてしまう。彼女は動揺しながらも、架空の暴力沙汰を認めた。


 やり取りを聞いた周囲は大いにざわついた。


『舌を削ぐだなんて……!』

『入学初日にそんな酷い事件が起きていたのか……』


(ふっふっふ! さぁ、その調子でドロシー様に同情しなさい! そしてわたくしのことを思い切り糾弾(きゅうだん)するといいわ!)


 さぁ、どんどん罪を重くしていくわよ! と、胸の内でガッツポーズを決めてやった。


 信じ切っている様子の阿呆――ジョナスは、顔を青ざめながらドロシーの肩を抱いた。


「セルマ、貴様……! そんなに酷いことをしていたとは……! 許されないことだぞ!」

「おっほっほ、些細なことでございましょう? さぁ、どんどん振り返っていきましょう。他には何かありましたっけ?」

「とぼけるな! 貴様の罪はそれだけではないぞ! 一年目の夏には、ドロシーに紅茶をかけたことがあっただろう? ――ね、そう言っていたよね? ドロシー」


 ジョナスに肩を抱かれたドロシーは、問われるままにアワアワと頷いた。


「そ、そうです……っ! セルマ様に、熱い紅茶をかけられて……私、火傷をしてしまったんです。もう、すごく痛くて……」

「あぁ、そんなこともありましたわね」


 クスリと笑って肯定したセルマに、ドロシーは身をすくめた。

 肯定したけれど、もちろんこれもドロシーの嘘だ。紅茶をかけられたのはセルマのほうである。


 セルマは学院生活一年目の夏へと思いを馳せた――。



 確か、お昼休みのことだったと思う。学院の食堂の端っこで一人食事をとっていたら、ドロシーが隣に座ってきた。


 そうして彼女はわざとらしく、ティーカップをこちらに傾けてきたのだった。


「あぁっと、ごめんなさい! 手が滑ってしまいました!」

「熱っ……! あつつつっ、ちょっと……!」


 淹れたての紅茶はセルマの肘をびっしょりと濡らした。熱さに呻き、慌ててハンカチで拭ったが……そうしている間に、ドロシーはさっさと別の席へと移動していた。


 午後の授業が始まった時に、制服を濡らしているセルマを見かねたのか、隣の席の男子もハンカチを貸してくれた。


 ありがたくハンカチを借りて、翌日手洗いをして返しておいた。



 ――そんな夏の一場面を思い返しつつ、セルマは微笑む。ドロシーの嘘をさらなる大嘘で盛ってやった。


「わたくし、ランチタイムにドロシー様に紅茶をかけたのでしたね。熱さに悲鳴を上げたあなたの姿が、たまらなく面白くて……後日お茶会にお招きして、何度も何度も、ポットの熱湯をかけて差し上げたのは良い思い出ですわ」

「お、お茶会……!? ええと……それは……」

「ほら、あの日のお茶会でございますよ。わたくしがドロシー様の頭から熱湯をかけて差し上げた、あのお茶会。お顔の火傷が酷いご様子でしたが、その後良くなりまして?」

「……ええと、は、はい、ほぼ治りましたわ……。ほ、本当に、酷いお茶会でございました……! 人に熱湯をかけるだなんて……セルマ様の神経を疑います……っ」


 ドロシーはちゃんと話に乗ってきた。よしよし、と内心でほくそ笑みつつ、話を続ける。


「そうだ。二年目の冬にはこんなこともありましたねぇ。人気のない学院の裏庭で、冷たい池にドロシー様を突き落として沈めた、な~んてことが。覚えていらっしゃいますか?」

「……も、もちろん、覚えています……!」

 

 もちろん大嘘である。池に沈んだのはドロシーではなく、セルマの教科書とノートだ。


 セルマは二年目の冬へと思いを馳せた――。


 

 ロッカーに預けていた教科書やノートがなくなっている、と思ったら、池に捨てられていたことがあった。


 その後の授業は隣の席の男子に教科書やらを見せてもらって事なきを得たが……未だに根に持っている出来事だ。


 唯一、不幸中の幸いだったと言えることは、その男子が成績優秀者だったことだ。

 見せてもらったノートは素晴らしく整っていて、セルマのその後の成績まで伸びることになったのだった。


 ノートを見て、思わず男子の背中をポンと叩いて称賛してしまったことはよく覚えている。



 そんな細々としたところまで思い返しつつ、セルマは大嘘をしみじみと連ねる。


「真冬の池に落ちてしまって、ドロシー様はブルブルと震えていらっしゃいましたねぇ。お顔なんてもう、どこぞの魔族の肌色のように真っ青で」

「と、とんでもなく、酷い仕打ちを受けました……制服がびしょびしょで……ええと、すごく寒くって……今でも、よく……覚えています……」


 少々声の勢いをなくしながらも、ドロシーは話を合わせてきた。そんな彼女の隣では、ジョナスが怒りに戦慄いている。


 彼は声を震わせて、三年目の出来事とやらを問い詰めてきた。


「セルマめ……なんと非道な……っ! 貴様っ、三年目の秋には、女子の刺繍の授業中に、ドロシーの糸玉に針を仕込んだそうだな!」

「えぇ、仕込みましたが、何か?」

「こいつ……! 平気な顔をしやがって!」

「針くらい、どうということないでしょう。おっほっほ」


 段々、話の傾向がわかってきた。ドロシーは自分がセルマにしてきた嫌がらせの数々を、さも自分が被害者であるかのように、ジョナスへと吹き込んでいるようだ。


 言うまでもないが、針を仕込まれて怪我をしたのはセルマのほうだ。


 三年目の秋へと思いを馳せる――。



 ちょうどジョナスと婚約を結んだ頃のことだ。

 女子は刺繍の授業があって、皆せっせとハンカチやスカーフに花のモチーフを刺していた。


 お相手のいる女子生徒は、その課題作品を贈り物とする人が多いらしい。というわけで、縁を結んだばかりのセルマも、刺繍の課題作品をジョナスへのプレゼントにすることにしたのだった。


 購入した上等な水色のスカーフに、一生懸命に刺繍をほどこし――という作業をしていた、授業中のこと。

 刺繍糸玉を手に取った時に、セルマの指にチクッとした痛みが走った。


「痛っ……え? 針……?」


 確認すると、糸玉の中には数本の針が仕込まれていた。


 先ほど先生に確認したいことがあって、少しの間席を外していたのだけれど……その間に仕込まれたのだろう。


 こういうことをする人物はもうわかっている。ドロシーのほうを見ると、彼女は素知らぬ顔で刺繍を続けていた。口元に笑みを浮かべながら。


 相手にはせずに、セルマは針で突いた指先の血を手早く止めた。


 学院内では一応、身分の高低は無しとされているけれど……表面ばかりの規則だ。結局揉め事が起きたら話は家へと伝わるし、家の位によって生徒の力の強弱が決まる。


 伯爵家のドロシーは、セルマにとって喧嘩を売れる相手ではない。なので、事を大きくせずに、さっさと流してしまうのが吉である。


 セルマは何事もなかったかのように、また刺繍を再開した。

 そうして無事にジョナスへの贈り物を完成させたのだけれど……結局受け取ってはもらえなかった。


 ジョナスに渡そうとしたら、こんなことを言われた。


「それ、血が付いているんだろう? 汚らしいスカーフなどいらないよ」

「え? 血など付けていませんけれど。どうしてそんなことをおっしゃるのですか?」

「ドロシーが言っていたぞ。授業中に針で指を刺して、血を流しているところを見た、と。人の血が付いたスカーフなんて御免だ。悪いが、僕は受け取れない」


 どうやらドロシーが、あることないこと彼に吹き込んだようだ。


 ジョナスはさっさと歩いていってしまった。セルマはぐぬぬ……と呻きながら、ため息をついた。


(血はすぐに止めたし、スカーフには付けていないわよ……まったく)


 せっかく贈り物用に上等なスカーフを用意したというのに、もったいない。紳士物のスカーフなので、自分で使うのも微妙である。

 

 仕方ないので隣の席の男子にあげた。ちょうど木枯らしの強い日だったので、風除けにどうぞ、なんて冗談を言って。



 ――そんなこともあったなぁ、なんて思い返しつつ、セルマは愉快そうに笑い飛ばしてやった。


「わたくしが糸玉に仕込んだ針で、ドロシー様は見事にお怪我をされていましたねぇ。でも、地味なお怪我でしたから、つまらなかったことを覚えていますわ。それでわたくし、もっと酷いことをしてやろうと思って、放課後のお裁縫教室にドロシー様をお呼びしたのでしたね?」

「なっ!? そうなのか、ドロシー!? 裁縫教室でこの女に一体何をされたんだ!?」

「えっ……!? ええと、その……な、なんでしたっけ……!?」

「あらまぁ、ドロシー様ったら。あまりに辛い責め苦に、記憶を飛ばしてしまわれましたか?」


 笑いながら、セルマは今思いついた大嘘で思い出を改ざんした。


「思い出してくださいませ。わたくし、お裁縫の鋭い針を十本束ねて、あなたの目に刺してやったのですわ。それはもう力一杯、グッサグッサと」

「そ、そうでしたわ……思い、出しました……! えっと、そうです……グサグサと……やられまして……」


 ドロシーは話を合わせようと、今更ながら目をシパシパとまたたかせ始めた。即興のしょうもない芝居だが、隣の阿呆には有効だったようだ。


 ジョナスは思い切り顔をしかめて、彼女を守るように抱きしめている。


 セルマは二人の茶番のようなやり取りを楽しみながら、ポカンとしている給仕のトレイへと手を伸ばした。


 ワイングラスを手に取ってのどを潤す。追加の酒を投入して、さらに興が乗ってきた。


 弾んだ声で、四年目の春――今年の春のことを話してみた。もちろん、嘘で盛った思い出話を。


「今年の春先のことは、さすがに覚えていらっしゃるでしょう? ドロシー様の制服のドレスを切り刻んでズタボロにしてやったことを。それから髪の毛もザックザックと切り落として、殿方の御髪のようにしてやりましたよね」

「……そう、ですね……ドレスは、ええと、ボロボロで……すごく恥ずかしかったです……。それで……その、この髪は……えっと……」


 セルマのやけくそについてこれなくなってきたのか、ドロシーは揺れた小声を寄越した。


 これもセルマが実際に受けた嫌がらせをもとにした嘘である――。



 今年の春先のことだが、制服の裾にインクをこぼされた。その汚れを取り除く、という口実で、裾をハサミでザックリと切り取られてしまったのだった。


(まぁ、どうせ今年で終わりだし。裾は適当に丈を上げてしまって、誤魔化せばいいわね)


 そんなことを考えながら教室の席に着き、セルマはため息と共に、愚痴めいた独り言をこぼした。


「はぁ……やれやれ。あと一年かぁ……早く卒業したいわ。あの娘……卒業パーティーで最後に一言くらいは言ってやろうかしら」


 あまりに大きな独り言だったので、隣の席の男子に話しかけるような形になってしまったが。まぁ、気にしないでおく。


 

 ――と、そんなこともあったけれど。結局一言言うどころか、大舞台のど真ん中で真正面からバトルをすることになってしまった。


 またワインのグラスに口を付けて、一息つく。


(さて、次はどんな大嘘をついてやろうかしら。滅却刑に至るほどの、とんでもない大嘘を――)


 もはや自暴自棄が極まって、吹っ切れた楽しさすら感じ始めていた。


 ――の、だが。


 そんなセルマの耳に、ふいに思いがけない声が届いたのだった。

 セルマたちを取り囲んでいた見物人の中から、何者かの大きな声が上がったのだ。


「四年もの間、さながら拷問のような責め苦を負っていたというのに、ドロシー嬢はずいぶんと元気が良いな。心身に不調をきたすのが普通だろうに、彼女は先ほどまで平気な顔をしてジョナス殿と歓談していたようだが?」


 人垣の中から、そんな言葉が飛んできた。その言葉を受けて、周囲の人々は大きくざわついた。


『確かに……ドロシー様、すごく楽しげなご様子でワインを飲んでいらっしゃったわ』

『学院の中でも、普通に過ごしてたよな?』

『私、同じクラスだったけど、お一人で苦しんでいるところなんて見たことがないような……』

『もしかして嘘なんじゃないか? ……だとしたら、とんだ茶番だなぁ』


 ざわざわと揺らぎ始めた場に、ドロシーは目をむいて言い訳を始めた。


「わ、私がセルマ様にいじめられていたのは本当です……! クラスメイトに変な気を遣わせてしまわぬようにと、努めていたんです! 本当は一人で悩んで、すごく苦しんでいて……っ」

 

 ドロシーが言い放つと、またどこからか声が上がった。


「もし事実だとしたら、これは大変なことだ。ドロシー嬢は舌を削がれたというのに、ハッキリと言葉を発しておられる。舌の傷が後遺症もなく治癒したというのか? それに頭から何度も熱湯をかけられたというのに、火傷跡もまるで見当たらない。この傷も完全に癒えた、ということで相違ないか?」


 その声に、また周囲の人々は反応した。皆ドロシーへと視線を向けて、まじまじと観察している。


 声は畳みかけるように続いた。


「真冬に学院の池に落ちたというのに、ケロリとした姿でいることも疑わしい。あの池は男の背丈よりも深い。寒さの中で、制服のドレスをまとった娘が這い上がることは困難だ。普通ならば死んでいる」


 ジョナスはポカンとした顔でドロシーを見て、当のドロシーはアワアワと周囲を見まわし、声の主の姿を探している。


 セルマはというと、据わった目をキッと細めていた。『誰だ、せっかく盛り上がってきた場を邪魔する奴は』という腹立たしさを込めて、あたりを睨む。


 場を乱す男の声はなおも続いた。


「針で目を刺されたというのに、彼女は周囲が見えている様子だ。これも不可思議なことだ。それに春先に短く切り落とされたという髪だって、一年でその長さまで伸びるものだろうか。人の身では到底生じ得ない現象が、彼女の身には多々起きているように見受けられる」


 話を締めくくるように、男はひと際強く低い声を発した。


「人の身ではありえないことではあるが、世にはそういう恐るべき能力を有した生き物もいる。――魔族だ」


 その言葉を聞いて、周囲はドッと騒ぎ始めた。


『魔族だってよ……!』

『まさかセルマ様は、ドロシー様が魔族だとお気付きになられたから苛烈な行いを!?』

『衛兵を呼んだほうがいいんじゃないか?』

『ドロシー様が魔族だとしたら、庇っていらしたジョナス様も怪しいのでは……』


 見物人たちの声を聞いてドロシーとジョナスは顔色を青くした。そしてセルマもまた、予期せぬ事態に慌ててしまった。


(ちょっと……! ドロシー様が悪者になってしまったら、わたくしが無罪放免になってしまうじゃない! 滅却刑が遠のいてしまうわ……!!)


 せっかく良い雰囲気だったのに……場をぶち壊されてしまっては困る。


(ドロシー様を人間だと証明しないと……!)


 セルマはワインを一気に飲み干すと、グラスを床に叩きつけた。ガシャンと大きな音を立てることで、騒ぐ周囲の意識を自分へと向ける。


 皆の視線を一身に浴びながら、セルマはドロシーへと大股で歩み寄った。


「皆様、お静かに! ご覧くださいませ! ほら、このように! ドロシー様は殴れば血を流す人間でございますので!」

「へっ!? ギャアッ……!!」


 セルマは躊躇もなく、ドロシーをぶん殴った。


 ボコボコに殴って人間らしい怪我を負わせれば、彼女が魔族ではない、という証明になるだろう。

 すっかり酔いのまわりきった頭でどうにかひねり出した、人間証明方法である。


「ほら! ほら! ご覧くださいませ! ほらっ!」

「おやめ……っ、おやめくださ……うぐっ……おやめくださいませ……あがっ!!」


 顔面を数回殴りつけた後、足を払って引き倒した。背中を踏みつけ、靴のかかとをグリッと食い込ませながら、髪を引っ掴んで顔を上げさせた。


「ご覧ください、この酷いお顔! ね、人間でございましょう?」


 一瞬で酷い有様となったドロシーを見て、ジョナスは唖然として固まっていた。


 が、しばしの間をおいてから、彼は我に返って怒鳴り声を寄越した。


「なっ、なんてことを……っ!! セルマ貴様――オフッ!?」


 腕を振り上げて向かってきたジョナスの股間に、セルマの膝蹴りがドスンと入った。


 貴族学院では授業の中で護身術を習う。セルマはもちろん真面目に取り組んでいたので、優秀な成績を収めていた。

 こういう場で使うことになるとは思わなかったけれど、まぁ、良しとしておく。


 ジョナスが床に突っ伏した直後、ついにドロシーが泣き声を上げた。


「ど、どうか、もう……おやめくださいませっ……セルマ様……。私が……私が悪かったです……! あなたに四年間も、酷いことをして……婚約者まで、盗ってしまって……どうか、お許しを……っ! もう暴力は……おやめになって……っ」


 ボコボコの顔で涙を流しながら訴えるドロシーに、周囲が哀れみの目を向け始めた。


(よしよし……! みんな、ドロシー様に同情しなさい! そして暴力女のわたくしを通報してくださいまし! そろそろ衛兵を呼んでもよろしくてよ!)


 滅却刑の足がかりとなる雰囲気が戻ってきた。――が、ホッとしたのも束の間だった。


 また余計な声が割り込んできた。


「窮地で涙を見せ、コロッと態度を変えてしおらしく命乞いをするのも魔族の典型だ。魔族の嘘と真を見極めるには、最低でも三日は拷問にかける必要がある」


(な……!? また余計なことを言って! どこのどいつよ、もう!)


 どうやら声はセルマの後ろのほうから上がっているようだ。振り返り、睨むようにしてその人物の姿を探した。


 すると、人垣の一角が揺らいだ。ざわめきの中から一人の男が歩き出てきた。


「え……、あなた様は……」


 その姿を見てセルマは目をパチクリさせた。場の真ん中に出てきた男は、思いもよらぬ人物だった。


 セルマの前に立ったのは、なんと、魔族領との境を治める辺境伯――『無慈悲の拷問伯』の通り名を持つ家の子息だった。


 黒髪に黒い目、高い背丈。国境を守る辺境伯という、強大な力を持つ家の嫡男。そしてなかなかの男前。


 女子が大騒ぎをするであろうプロフィール――……の、はずなのに、『拷問伯』という恐ろしい肩書きと、血生臭い家業のせいで、クラス内で孤立していた男子である。



 ……――隣の席の男子だ。名前はヴァレット。



 セルマはポカンとして、彼を見た。


 ヴァレットは給仕からワインのグラスをひったくって、一気に飲み干した。


 そうしてあろうことか、セルマの前で跪いたのだった。片膝をついて胸に手を当てるこの姿勢は――プロポーズをする時の体勢だ。


 今宵、卒業パーティーの場にて。もう一人、思い切ったことをしでかす『やけくそ男』が出てきてしまったらしい。


 ヴァレットはセルマを見上げて、意を決したような面持ちで声をかけてきた。


「セルマ様! 揉め事の場に乗じてしまう形になってしまいましたが……あなたにお伝えしたいことがございます! あなたは、その……俺の、学院生活のすべてでございました……!」

「…………は?」


 思わず呆けた声を返してしまった。セルマの手から力が抜けた隙に、ドロシーは這いつくばって逃げ出した。


 が、誰かが呼んだらしい衛兵に捕まり、そのまま連行されていった。魔族疑惑はまだ晴れていないようだ。この後、鞭にでも打たれるのだろうか。


 セルマは乱入してきたやけくそ男のせいで、もはやドロシーに構っている暇などなくなってしまったが……。横目でチラリと彼女の背中を見送っておいた。


 その乱入やけくそ男――ヴァレットは顔を真っ赤にして語りだした。その赤みは酒のせいか、はたまた照れのせいか。


「俺は家の仰々しい肩書きのせいで、幼少の頃より親しくしてくれる友人が一人もおらず……高等学院での青春なども、はなから諦めておりました。だというのに! 入学してからというもの、麗しい女子生徒が毎日決まって自分の隣に座ってくるなんて……! これは日陰のぼっち男子にとって、とんでもなく大きな事件でございました!」


 彼は力を込めて言い切った。


「ええと、はぁ……」


 セルマはまたぼんやりとした返事をしてしまった。


 隣の席の男子――ヴァレットの拷問伯家嫡男という身分は、ばっちり認識していた。が、セルマにとっては、それ以上でも以下でもない、単なる情報でしかなかった。


 というのも、セルマは学業に並行して婚活に励んでおり、男子学生を『縁結び守備範囲』でより分けていたのだが……ヴァレットの家――辺境伯は、家格が高すぎるので守備範囲外だったのだ。


 つまりは、彼はセルマの意識の外側の人間――群衆(モブ)の一人に過ぎなかったわけである。


 ヴァレットにとっても、セルマは取るに足らない一クラスメイトだろう、と思っていたのだけれど……思いがけず、彼にとっては違ったらしい、と知ることになってしまった。


 ヴァレットは思い出に浸るようにしみじみと、それでいて力強く語る。


「セルマ様のおかげで、俺の学院生活は未だかつてないほどに素晴らしいものとなりました。お貸ししたハンカチは女子の香り――とんでもなく良い香りをまとって返ってきて、あれはもう、夢かと思いましたし、」

「あぁ……手持ちの石鹸で洗ったので、ちょっと香りが強かったかもしれませんね」


 そうだったなぁ、と思い返しつつ、彼の言葉の続きを聞く。


「ノートを褒められて背を叩かれた時には、もうすっかり調子に乗ってしまい……次の試験では、頑張りすぎて学年一位の成績を取ることができました」

「ええと、ノートと教科書の件は、本当にありがとうございました」


 そんなに浮かれていたとは、まったく気が付かなかった。軽々しく叩いてしまって申し訳ない。……いや、良いことをしたのかもしれないが。


「それに、忘れもしないあの刺繍入りのスカーフ……! 女子手製の刺繍スカーフなんてものは、物語の中のアイテムだと思っていましたのに……現物を手に入れることができるなんて。妄想と現実の境がわからなくなる心地がしました」

「そんなに!?」


 日陰のぼっち男子とやらは、そこまで女子との交流に夢を見ているものなのか。目をまるくして、目の前の男に見入ってしまった。


 教室の隅っこにいる大人しい男子、という印象だったが……存外、彼は賑やかな人なのかもしれない。


 ヴァレットは素敵な日々の思い出とやらをひとしきり語り切ると、声音を静かなものへと変えた。


 セルマにだけ届くような抑えた声で、言葉を続ける。


「……でも、俺は一人で浮かれるばかりで、あなたの苦境に気が付くのが遅くなってしまいました。情けないやら、申し訳ないやら……。セルマ様はずっと、ドロシー嬢の嫌がらせに耐えておられたのですね」

「まぁ、ええと、そうですねぇ」

「だというのに、なぜ今さっきあのような嘘をついたのですか? もしかして脅されて強いられていたとか?」


 どうやら、ヴァレットにはセルマの嘘がバレていたようだ。嘘だとわかった上でドロシーを魔族呼ばわりしたこの男も、とんだ大嘘つきである。


 今この場で嘘をついていない正直者は、そこに転がっているジョナスだけかもしれない。……阿呆を褒めたくはないが。


 セルマとヴァレットは周囲に聞こえないよう、ヒソヒソと小声を交わした。


 ――彼とのこういうお喋りは、授業中にちょっとした会話をする時を思い出して、なんだか懐かしい心地だ。


 隣の席のモブ男子とのなんてことない会話、という感覚そのままに、セルマはペラッと胸の内を話してしまった。


「いえ、まったくそういうわけではなく……さっきのは、わたくしが勝手についた嘘です。……酷い嘘をつけば滅却刑に届くのでは、と」

「なぜ滅却刑など!?」

「もう人生に疲れ果ててしまったので……消えてしまいたく」


 そう素直に伝えると、ヴァレットは考え込むような顔をした。


 そうして少しの間をおいて言葉を紡ぎ出した。


「何か、あなたを深く悩ませるご事情がおありなのですね。……こう言ってはなんですが、ジョナスのような阿呆と婚約を結ぶなんて、何かあるのだろうとは思っていましたが」

(わ、阿呆ってキッパリ言ってしまったわ)

「阿呆とご婚約される前に、勇気を出してあなたと縁を持っていたら……と、俺はずっと悔やみ続けておりました」

(二度も言った)


 セルマも心の中では何度も阿呆と言っているけれど、直接口に出したことはない。が、ヴァレットは構わずペラリと発していた。


 そうして彼は三度目の悪口を口にした。


「しかしながら、今宵、阿呆のおかげでチャンスを得ました。――セルマ様、」


 片膝をついたまま、ヴァレットは姿勢を正した。セルマへと右手を差し出して、まっすぐに見つめて言う。


「あなたにとっては、俺との交流など些末な思い出に過ぎないでしょう。ですが、俺にとってはちょっとした会話の一つですら、とんでもなく楽しいものでありました。俺の家の肩書きに怯むことなく軽やかに話しかけてくるあなたのことを……密かに、好いておりました……! どうか、俺と縁を繋いでくださいませんか!」


 四年間、自分の中でモブ男子の位置にいた人物が、ここにきて突然主役の位置に躍り出てきた。


 セルマは動揺してしまって、どうしたものかとオロオロしてしまった。


 モブが告白してきたということにも大いに驚いたが……もう一つ、困惑していることがある。


 すっかり自暴自棄になって人生を投げ出すことを決めた後だというのに、今になって第二の人生――結婚の話を持ち出されても……などと、ごちゃごちゃと考え込んで困ってしまっていた。


 迷うセルマの目の前に、ヴァレットは再度、ズイと力強く手を差し出した。

 やけくそ男は体裁も何もない、やけくそらしいプロポーズを寄越した。


「セルマ様! 俺の家は滅却刑で使用される魔法を継いでおります! もし今後、また人生がお嫌になることがありましたら、俺がこの手で、あなたの魂を宇宙から消し飛ばして差し上げます……! ですから、どうか……!!」


 ムードも何もない求婚セリフをもらったが――……


 ……――結局、セルマは彼の手を取ってしまった。


 それはもう、やけくそめいた力強い動作で、ガシリと。



 毎年、何かしら騒ぎが起きる貴族学院の卒業パーティーだが……今年もやけくそたちが起こした騒動が、語り継がれるべき珍事件として、学院の歴史に刻み込まれてしまった。





 その後、ヴァレットは拷問伯家の正装で身を固めて、セルマの実家へと挨拶に来た。

 鋭い棘の付いた拷問鞭を腰に携え、背中にはものものしいノコギリ刃の凶器――大剣を背負って。


 出で立ちに仰天した継母は言われるがままにセルマの結婚を認めて、彼女が家に連れ込んでいた男は逃げ出した。


 こうして実家とのやり取りは難なく済んだ。



 そして相手方の拷問伯家にも、セルマは思いがけない歓迎を受けたのだった。


 聞くところによると、ヴァレットの縁探しが難航していたそうで。


 拷問伯家はその肩書きの通り、不届き魔族に拷問刑を与えることを職務としている。だというのに、血を見るだけで倒れる令嬢たちが多くて、花嫁選びに頭を抱えていたそう。


 そんな中、才色兼備――いや、才色流血沙汰耐性を兼備したセルマが現れたので、大きく歓迎された。


 ヴァレットの実家は、セルマの卒業パーティーでの立ち回りを知るや、盛大な拍手を送ってきたのだった。

 

 


 そうして無事に縁が結ばれて、セルマの第二の人生が幕を開けた。


 隣の席のモブ男子は、今では隣で寝起きをする最愛の男子となった。


 愛する夫と共に、セルマはビシバシと不届き魔族をしばく日々を送っている。これまでのついていなかった人生の鬱憤を晴らすかのように、それはもう力一杯、容赦なく、鞭を振るう毎日だ。


 ストレスも発散されて、心身共に快調である。――対する魔族は瀕死だが。


 拷問伯の家に誕生した若夫婦の苛烈な刑によって、魔族の人間領への侵入件数は大きく減った。近く、王家から褒賞を授与されるとか。


 滅却刑の大魔法は、未だセルマに執行されていないし、この分だと今後もその予定はなさそうだ。


 第二の人生の供として、やけくそで握りしめたヴァレットの手と、トゲトゲの拷問鞭が、すっかりこの手に馴染んでしまったので――。


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