勇者と悪魔の戦記
それは、静かにやってくる。
誰にも悟られないよう、音もなく忍び寄る。
それがすぐ近くまで迫った瞬間――
「うあああああああ!!」
人は、この世のものとは思えない悲鳴を上げる。
誰にも奴を倒せない。倒したくても、その先の未来が恐ろしくて手を出せないのだ。
男は無力のあまり膝を折る。
女は恐怖のあまり泣き叫ぶ。
とうとう数を増やし、人の住処を我が物顔で侵略する。
誰にも奴を倒せない。策を、手段さえも講じられない。
思い出が詰まった住処。だが、命には代えられない。
捨てるしかない。人々は、それ以外の道が思いつかなかった。
辟易した人々は諦めかけた。
しかし――神は人々を見捨てなかった。
「待て」
危機に瀕していたその場に、一人の男が現れた。
その男は、この世のものとは思えない出で立ちをしていた。
緑色の服に、半球状の黄色い帽子。手には白い手袋、顔にはマスクと密着性の高い眼鏡をつけていた。
「あ……あなたは……?」
奇妙な姿に、男が困惑の声をかける。
しかし、男は答えない。
代わりに、一歩を踏み出した。
確かな足取りで進む男に、誰もが声をかけることすらできなかった。
男の覇気に、気圧されたせいで。
「もう大丈夫だ」
怯えて泣きじゃくる女の子の頭を、すれ違いざまに撫でる。
ピタリと泣き止んだ女の子は、その後ろ姿の頼もしさに見入る。
「すぐに終わらせる」
男は、ある物を腰につけている図嚢――小型鞄――から取り出した。
それは、筒状の鉄の塊。
見たことのない武器に困惑する人々。
だが、『悪魔』が現れた途端、恐怖で顔を引き攣らせる。
しかし、その恐怖も一瞬で終わった。
シューッ、鉄の塊が聞きなれない音を立てたのだ。
鉄の塊の先端から放射される白い煙。
浴びた『悪魔』は苦しげに蠢き、遂には力尽きた。
「……た、倒した……のか?」
一人が恐る恐る声をかけると、男は首を横に振り、片手にも同じ鉄の塊を持つ。
「まだだ」
その言葉を合図に、『悪魔』が一斉に現れて襲いかかった。
迫りくる黒光りの群れに、男は恐れることなく武器を突き出す。
シューッ、二つの武器から放たれる煙を浴びた途端に、『悪魔』はバタバタと倒れていく。
「……他愛ない」
男は鉄の塊を図嚢にしまう。
決着がついたのだ。
『悪魔』は、地面にたくさん落ちていた。
まさに死屍累々の光景に、誰も声すら出せないくらい呆気にとられた。
「仕上げだ」
そう言って、男は赤い塊を取り出した。
透明の蓋を取り外し、カチッと音を立てて地面に置く
「行くぞ」
男の声で我に返った人々は、慌てて男の後を追う。
住処から離れた次の瞬間、住処から白い煙で溢れ返った。
空いた場所から『悪魔』が飛び去る。それでも煙の影響か、ぽとりと地面に墜落した。
驚異的な威力に震撼する人々は、次々と駆逐される『悪魔』と戦う男を見上げる。
堂々とした佇まいに、誰もが男の正体を悟った。
「勇者……さま……」
――こうして人々は救われた。
住処を捨てなくていいと涙が滂沱として流れる人々に、後始末まで終えた男が何かを差し出す。
それは、男の武器だった。
「これは……?」
「ジェットスプレーだ。これがあれば立ち向かえるだろう。そして奴らが密集する場所には、このバルサンを置けばいい」
その言葉に気付く。
自分たちも『悪魔』と戦える。その力を授けてくれたのだと。
「これで他の者も助けてやれ」
「……はいっ!」
感涙すると、ぽん、と男に肩を叩かれる。
「あのっ……!」
勇気を出した声をかけられる。
視線を下げれば、泣いていた女の子は頬を赤らめ、両手で一輪の花を差し出していた。
「ありがとう……!」
感謝の言葉に、男は眼鏡の奥で微笑ましそうに目を細め、花を受け取る。
そして男は女の子の頭を撫でた後、踵を返し、颯爽と去っていった。
こうして人々の住処――家は守られた。
救われた一家、あの男を『勇者』と称え、彼から授かった武器を家宝として今でも大事に飾っていた。
彼は今でも『黒い悪魔』と戦っているだろう。
多くの人々を――いや、この世界を救済するために。
彼の戦いを見届けられないのは悔しいが、自分達も力の限り戦おう。
救ってくれた勇者の背中を思い出しながら。