91:特別な聖句
あれからぬいとノルの二人は水晶車内で揺られていた。
行きと違うのは適切な距離がなくなり、密着していることだろう。他に誰もいない状況から、遠慮のない態度である。最初は寒さのためだと納得させられていたが、やはり近すぎる。
「ヌイ」
耳元に囁くような甘い声をかけられる。そのたびに恥ずかしさで体中が熱くなる。
「ねえ、もうこうする必要ないんじゃないかな」
ぬいの背面にかぶさるようにノルは腕を回している。時々顔や頬に手が移動し、撫でまわされる。小さく声を漏らすと、さらに遠慮なく行為を繰り返してくる。
「寒いのはうそではないが、ただの建前だ。ずっと、誰にも邪魔されず。ヌイと二人きりでこうしていたかった」
「えっと……う、うん。確かにそうだろうね。寒いよね。手、すごく冷たいし」
そこでぬいはひらめいた。反対に向き直るとノルの手を掴み、熱を持った頬に当てる。その心地良い冷たさに目を閉じると、顔に暖かい息を感じる。目を開くと案の定ノルの顔がすぐ目の前にあった。
「なぜ目を開ける?」
不満そうに言う。あと少しでも動けばくっついてしまう距離である。ぬいはノルが何をしようとしていたのか、すぐに察した。
「ち、ちがうよ!そういうことじゃないよ!ノルくんの手が冷えてたから、温めようと思っただけで」
ノルの手を離すと、ぬいは座った状態で後ずさりする。あまりにも下がりすぎたため、背後の壁に頭をぶつけた。痛みから顔を膝にうずめていると、ノルに頭を触れられた。
「神々よ、愛おしき我が伴侶に、立ち上がる力をお授けください」
聖句が聞こえると、ぬいの痛みはやわらいでいく。
「……あれ、いつもと違くない?聞いたことないんだけど」
適当な聖句を発し、どうにかなっていたのはぬいとトゥーだけである。それ以外の人たちがそのように言っていた記憶はない。
「当然だ。むしろ知っていたら困る。例え血を分けた子供であっても使うことはない。これは特別な相手だけだ」
そのまま慰めるようにノルは頭を撫でる。ぬいは照れと嬉しさから口元を震わせた。
「それって、なにか効果があったりするの?」
ぬいは顔を伏せたまま言う。
「効果という点では無いが……」
言いづらそうにする声が聞こえ、手が離れる。ぬいは顔を上げた。
「軽率だったかもしれない。ヌイを見ていたら自然とこの聖句を紡いでいた」
自分のことを見捨てないで欲しい。そんな表情だった。ぬいはそんなノルのことを愛おしく感じ、ほほ笑んだ。
「ねえ、前の言葉をそのまま返すよ。わたしがノルくんのことを、嫌なんて一生思うことはないって」
「……っ、ヌイ。好きだ」
熱い視線を向けられ、頬に手を添えられる。
「いや、待ってって。理由聞いてないよ」
両手を突き出し、拒否の姿勢を取る。
「すまなかった。僕はヌイの笑顔に弱いらしい」
「それは……嬉しいことだけど」
相手の微笑みがいいと言ってくれる。そんなことは弟以外言われたことがない。与えられる愛を感じ、ぬいはむず痒さから体をもぞもぞと動かす。
「あの聖句はスヴァトプルク家の当主にとって、少し意味合いが重い。己が伴侶として認めた者に言う。つまり寿命を同じくするということだ」
次々と浴びせられる甘い言葉に、ぬいはどうしていいかわからなかった。
「ヌイ?意味が理解できているか?」
確認するように問われ、ぬいは息を吸い冷静に考えた。
「できてると思うけど、ノルくんの短命は解除されているんだよね?だったら軽率なんて、思う必要ないんじゃないかな?」
「例えされていようとも、嫌ではないか?」
「ううん。だって、これは相手のことを大事に思うがゆえの聖句でしょ。すぐに寿命を迎えるのは悲しいけど、一緒に死ねるってことだよね。ノルくんとなら悪くないって、今なら思えるんだ」
ノルの母もきっとそう思っていたのではないだろうか。過去映しの時の表情から、それはうかがえた。
「好意を伝え続けられるのは慣れてなくて。恥ずかしいから、かわいくない態度を取ってごめんね」
ぬいは思うがまま、素直な気持ちを告げた。
「なっ……」
ノルの顔はたちまち真っ赤になっていく。自分から愛を囁くときは余裕そうに見えるというのに、今はどう見ても照れている。ぬいと同じく言われるのに慣れていないのだろう。
「かわいいに……決まってる」
目をそらし、小さくつぶやく。
「そうだね、ノルくんはかわいいね」
するとノルは不満そうに口を尖らせた。
「それはあまり嬉しくない。こんな容姿の男のどこが、かわいいと言うんだ」
「わたしにとって、最上級の誉め言葉なんだけどね。別の人にとっての欠点だとしても、好きだと思ってしまうってことだから」
さらに照れたノルは、後ずさる。先ほどと立場が逆転し、ぬいは少し楽しく思えてきた。
「ちゃんとかっこいいとも思ってるよ。無傷でわたしを戻してくれた時とか。細かい所に気を使ってくれるところと、あとは……」
次々と出てくる例に、ぬいは改めて好意を自覚する。対してノルは言葉がなにも出てこなくなったらしい。片手で顔を覆っている。その隙間から見える顔はやはり赤い。
「わたしの気持ちが分かった?言われ続けると嬉しいけど、恥ずかしいんだよね」
困ったようにほほ笑むと、ぬいの両手は瞬時に拘束されていた。片手で器用にまとめられ、少し動かそうとしてもびくともしない。おまけに足の間にノルが膝を付き、閉じられない姿勢にさせられている。
「ノルくん?」
名前を呼び、顔を見る。
ノルはどこかぎらついた目をしていた。どことなく悪そうにも見える表情である。なにも言葉を発することなく、顔の距離を縮めていく。ぬいが目を閉じた瞬間。
「いたっ」
小石か何かをひいたのか、揺れを感じると頭に衝撃を受ける。壁にぶつけた時よりも痛く、視界がくらくらする。
「ヌイ!すまなかった。神々よ、愛おしき我が伴侶に、立ち上がる力をお授けください」
ノルはぬいの体を抱きしめると、聖句を唱える。あやす様に撫でられながら、少しずつ痛みが引いていく。
痛みがなくなると、何が起きたのかを考える。おそらく揺れで頭突きをしてしまったのだろう。
「ノルくんの頭って丈夫だね。そっちこそ痛くはなかった?」
「僕はなんともない」
体を離し、前髪をかき上げられると、まじまじと見られる。跡がないのか確認しているのだろう。ホッとした表情をすると、ぬいの額を撫で優しく口付けられる。
「あまりにかわいすぎて、我慢できなくなった。同意無く襲うなど、下劣すぎる」
「前から思ってたけど、ノルくんて結構ロマンチストだよね」
想いを告げようとしていた場所は、毎回よく考えられていることが伺える。
「当たり前だろう。僕はヌイを大事にしたい。特別なはじめては吟味するに決まってる」
そう言うと、ノルはぬいの首筋を撫で口元に視線を向ける。
思わず声をもらしそうになったが、ぐっと我慢する。その行動に込められた意味に気づいてしまい、顔を逸らした。




