90:夢見心地②
「……少し浮かれすぎていた」
「少しじゃないと思うんだけど」
図星だったのか、ノルは押し黙る。今の二人はかなり浮ついた状態にある。これ以上下手に会話をすれば、また人の目を引いてしまうだろう。第三者の目がある今、うかつな行動はできなかった。
「あいにく今は一人部屋しかありませんので、こちらへどうぞ」
案内された先は簡素な小部屋であった。人ひとりが寝れるベッドがぽつんと置かれているだけである。ぬいだけならば充分であろうが、ノルには少し手狭そうだ。特に不満を言うことはなく、ぬいは扉をくぐろうとしたが、つながれた手は離されず引き留められた。
「もう一つの部屋はどこだ?」
「ここから三部屋隣の場所です」
「もっと近くに空きはないのか?」
「ありません」
バッサリ言い切られ、ノルは大人しく引き下がった。
「他の方々のご迷惑になりますので、くれぐれも静かにお願いいたします」
含みのある、遠回しな言い方だった。それを聞いたノルは意味が分かったのか、鼻で笑う。しかしぬいにたしなめられ、すぐに態度を改めた。
「心配は無用だ。既に宣言しているが、なんなら神々に誓おう。ようやく手に入れた人を雑に扱うものか」
その言い方から神官職に就く者だと察したらしい。信じるに値したのか、それ以上言われる事はない。食事が入ったかごを渡し、建物の説明を軽くすると去って行った。
「これ夕飯だね。はい、ノルくんの分」
ぬいは半分に分けると、差し出した。
「そんなに要らない。なんなら全部食べてくれてもいい」
「えっ、どうしたの?具合が悪かったり、まだどこか痛かったりする?」
周りを気にしながら、声をひそめて言った。
「心配させて悪かった。ただ胸がいっぱいで、なにも入らない気がしただけだ」
未だうかれていたようである。ぬいはそのことを嬉しく感じるが、誤魔化すために口に力を入れた。
「だめだよ、ちゃんと食べないと!ノルくんはわたしより体が大きいんだし」
無理やりかごごと押し付けると、ノルはしぶしぶ受け取った。
「もしなにかあったら、僕をすぐに呼んでくれ。扉が叩かれようとも、きちんと施錠をして一歩も出るんじゃない。いいな?」
そう言うとノルは自然に距離を詰め、交互に頬へと口付けてきた。
「おやすみ、ヌイ」
最後に頭に軽く手を置くと、名残惜しそうに去って行く。ぬいはしばらく唖然としていたが、ふと我に返ると扉を閉じた。
「なにあれ……」
その場から一歩も動かず、扉に背中をもたれかける。そのままずるずると音をたてながら、座り込んだ。上気していく顔をどうにかしようと、両手で押さえるが効果はない。心臓の音も頭の先まで響くように高鳴っている。
深呼吸を繰り返すと、ようやく落ち着きを取り戻してきた。ゆっくり立ち上がると、ベッドに倒れ込むように横になる。いっそこのまま寝てしまおうと目を閉じるが、脳裏に浮かぶのはノルの姿ばかりであった。
初対面時の棘のある態度のノルを思い出して、熱を冷まそうとするが、今となってはあの時の姿でさえ好ましく見えてくる。恋心に翻弄されながらも、冷静になれと何度も言い聞かせる。
このままでは二人とも、周りが全く見えなくなってしまう。それだけは避けたかった。多少接触された程度でさわぐなど、してはいけない。年上として余裕を持ち、例えそれ以上のことをされても受け入れようと、ぬいはそう覚悟を決めた。
◇
就寝の為の準備を終えると、今度こそベッドに横になった。部屋の中は質素な割に空調がきいて暖かい。おそらく部屋の見た目よりも、温度の快適さを選んだのだろう。
これであれば、ノルも寒い思いをしていないはずである。ぬいは安心して目を閉じると、扉が叩かれる音が聞こえた。その音はかなり控えめで、周りを気にしていることが分かる。
「なぜ開けた」
直後に言われる。ノルは嬉しさと困惑が入り混じった顔をしていた。
「叩き方から、誰なのかすぐわかるよ」
ぬいは同じように声を潜めると、ノルの手を引っ張り扉を閉めた。
「なぜ入れた」
またしてもノルは疑問を投げかける。額に手を当てると、眉をひそめている。
「そりゃあ、ノルくんだか……うわっ」
言い終わる前に、ぬいはノルに押し倒されていた。部屋が狭くすぐそこにベッドがあるのが原因だったのだろう。その無理やりな行動に反し、両手は絡めるように繋がれ、向けられる視線は甘く優しい。
「……狭いな。ここではだめだ」
ぬいにはちょうどいいサイズであったが、ノルにはどう見ても窮屈そうだった。体を離すと、ベッドの上に腰掛ける。ぬいも倣うように横に座る。
「様々な言い訳を頭の中であげつらねながら、ここに来ていた。反応がなければすぐに帰るつもりだった」
「その、せっかく来てくれたんだし。なにか話でもしようか。えっと、ノルくんの好きなものってなに?よく考えたら、あんまり知らないなって思って」
気恥ずかしい雰囲気を霧散させようと、ぬいは努めて明るく言った。
「ヌイだ」
しかしそんな気遣いをものともせず、ノルは引き戻してくる。真面目な表情から、それが意図的なものではないと、ぬいは分かってしまう。
「そういうことじゃなくて、色とか食べ物とか他にも色々あるでしょ?」
「色は黒だ」
ノルはぬいの髪の毛を手に取る。
「……あとは全部ヌイだな」
「それ本気で言って……言ってるね」
熱に浮かされているだけではない。そのことに気づいたぬいは困惑する。ノルは横についていた手をずらすと、そっと重ねてきた。いつもと違い、触り方はどこか遠慮気味である。
「両親が死んでからの僕はただがむしゃらに行動し、なにが好きなのかも忘れていった。改めて問われると、僕は空虚だったようだ」
「だったら、これから一緒に思い出していこうよ」
ぬいが笑顔を向けるとノルははじかれたように手を引き抜き、立ち上がる。
「……このままでは君を襲いかねない。約束を反故にすることは決してしない。もう帰ろう」
そう言うとノルは足早に部屋を出て行った。ちらりと見えた顔は赤く、少し前の余裕そうな態度は掻き消えていた。




