07:空腹
「すみません、もう限界です。止めてもらってもいいですか?」
ぬいは腹を押さえ、反対の手で挙手をする。あれから教皇の説法は何時間にもわたった。窓から見える陽はオレンジ色に染まっている。
最初こそは異文化に対し興味津々に聞いてはいたが、何も食べていない状態では限界であった。
「まだ序盤の触りしか語っておらぬ」
「えっと……そうではなくてですね。もうずっと食べてないんです……っう、ほんとに無理なんだよ」
ぬいは両手を腹に当てて、己の状態をアピールする。
「粗食をは推奨される事項である。暴食を抑え、強欲を減らし己を精進することができる」
「いや、そういうことじゃなくてですね。このままだと、生命に終わりを迎えそうな気が」
「そなたの体は病弱ではない。至って健康体である。ゆえに一日食を絶っても、何の問題も生じない」
全く取り付く島もい。ぬいは強烈な空腹感から、意識が遠のき誰かの姿を見た気がした。
「お取込み中しつれ……えっ、ヌイさま?」
部屋に入ってきたミレナを見ると、ぬいは背筋を曲げながら駆け寄った。
「たすけてぇ……ミレナちゃん、もう空腹で死ぬ」
耐えきれず、床に膝をついたぬいにミレナは憐みの視線を向ける。
「教皇さま。まさかこの時間まで説法を行っていたのですか?」
「然り。この世界の常識について異邦者は何も知らぬ。ゆえに、早急に説明すべきと判断した」
「……あ」
当然のように答えるヴァーツラフに、ミレナは目を伏せた。
それに対しぬいは首をかしげる。神話や教訓話が殆どであり、実生活に生かせるような話を聞いた覚えがないからだ。おそらく教皇の考える常識とは、普通の人と異なっているのだろう。
「夕刻からは祈りの場としてここは解放されます。さらに、ヌイさまの精神的疲労も考えると、ここまでにしておいたほうが良いかと」
「ふむ、そなたの意見を理解した。本日はここまでとしよう」
重みのある音をたてて、教典を閉じる。解放感から、ぬいはそっとため息をついた。
「ここまで耐えたそなたに授けるものがある」
ぬいの方に歩みを進める。脱力した状態から立ち上がると、背筋を伸ばして待った。
ヴァーツラフが目の前に来ると、長い袖の中から何かを差し出した。
「教典である。毎日目を通し、祈りを捧げよ」
ぬいはまたしても膝から崩れ落ちた。
◇
ぬいは最初に目が覚めた部屋へ、ミレナと戻ってきていた。目はうつろで背中は曲がっている。
「すみません。教皇さまは食物を必要としないので、いつもあのような感じなんです」
「そう」
ぬいは返事をする気力もなくなってきていた。お腹を押さえて虚空を見つめている。
「ここでも贅沢な食事は推奨されていませんが。お腹は空いてしまいますよね。ちょっと待っていてください」
そう言うとミレナは部屋を出ていった。わずかな間であったが、ぬいにはかなりの待ち時間に感じられた。
何もすることはなく、椅子に座りただ食べ物に思いを寄せるのみであった。
「お待たせいたしました」
戻ってきたミレナは申し訳なさそうな顔をしながら、パンとガラス瓶を手渡した。
最初こそ大きさにぬいは喜んだが、持った感覚がかなり固い。これで釘が打てそうなほどである。
「すみません。焼いてから大分経っていまして、廃棄寸前のものしか余っていなくて」
ぬいは試しに己の腕をパンで叩いてみた。
「……痛い」
「スープもここでは三日に一度しか出なくて。でっ、でもこれはとても栄養価が高いので、体調を崩す心配はありません」
ミレナは励ますように身振り手振りを使って力説する。
「神官服も支給されますし、この部屋も自由に使っていただいて構いませんので」
ぬいは己の未来を想像した。服がこれだけなのは許せる。住居に不満もない。しかし、食事だけがいただけない。
自分で作るにしろ買うにしろ、ぬいに自由に使えるお金はない。
「わたしより前に来た人って、ここに住んでいるんですか?」
「勇者さまのことですかっ!いいえ、残念ながらここにはおりません。本当はここで共に生活できたらと、何度も夢見ましたが偉大なお力で……」
ミレナは恋する乙女に変化すると、目を輝かせながら両手を組んで延々と話し続けた。
何度も落ち着くように口を挟もうとするが、そんな隙はない。
「いただきます」
仕方なくぬいはパンをちぎって口に放り込みながら、話半分に聞くことにした。
おそらくぬいより先に来たであろう、人物像がなんとなく見えてきた。どうやら若い男性で一人だけらしい。
名前はトゥー。うまく発音することができないと、ミレナは悔しそうに言っていた。
名前の響きから同郷ではないだろうと判断し、少しだけ落胆する。
大半がいかに優しく明朗であるかを説明し、合間に容姿の柔和さを語る。そのあたりについての興味は一切なく、ぬいは食べながら襲ってくる睡魔と戦っていた。
どうやらここへ来た瞬間カリスマ性と力を発揮し、かなりの人気者になっているらしい。そのあたりを嬉しそうに、だが悔しそうに語っていた。
若い嫉妬心に当てられ、己の無力さを思い知ったぬいは、ガラス瓶に口をつけそのまま飲み干した。しかし、喉に焼けつくような感覚がはしるとせき込んだ。
「ヌイさま?すみません……つい興奮してしまって。その、大丈夫ですか?」
ミレナが心配そうにぬいの背中に手をあてる。
「ジュースかと思って油断してた。これ……ワインだよね」
「ええ、ブドウ酒です」
帰ってきた答えに若干の違和感を抱きながら、ぬいはガラス瓶を突き返した。
「ごめん。疲れた体にこれはきついや」
ぬいは廃棄を願う罪深さに打ち震えながら、頭を下げる。それを見たミレナはなぜか微笑みガラス瓶を受け取った。
「そうでしたか。ブドウ酒は毎日出されるのですが、次からはやめておきますね」
ぬいはそれを聞いた瞬間、心に決めた。できるだけ早くここを出て自立しようと。