76:振り回されるこの気持ち
それから数日間、ぬいは誰とも会うことができなかった。偶然の再会を期待して、街中を歩いてみたがそう都合のいいことは起こらない。前のように食べ歩きをするが、人並みの食事量になったぬいはすぐに満腹になってしまう。結局暇を持て余し、自分の部屋に戻ってきた。
教典を読んだり、文字の勉強をする。そんな日々が数日ほど続いた。さすがに延々と一人では息が詰まってしまう。
合間にぬいはアンナとシモンの家へ遊びに行ったり、また偶然会ったアイシェと会話をする。三人が忙しい時はヴァーツラフに会い、教典について質問する。
以前の綠であった時、ここまで人と関りを持つことはできなかった。長い間人と会話をせずとも、何も思うことはない。だというのに、今は強い寂しさを覚えている。三人と話しているときは一時的に紛らわされるが、それでも一人になるとまた元に戻ってしまう。
そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、足がもつれて体がぐらりと傾いた。とっさに手を突き出して横転を防ぐが、それでも膝を打ってしまった。
「痛っ……うううぅ……っく」
ただの打ち身と薄い擦り傷。騒ぎ立てたり、痛みに悶えるようなものではない。だが、この痛みは前に腕を刺したときよりもひどく感じた。脳に直接刺激されるような痛み。うめき声をもらしながら、ぬいは最近の自分を振り返っていた。
異常だった食欲が抑えられ、代わりに鋭敏になった味覚。勉強のし過ぎと思っていたが、明らかに悪くなった視力。日常生活に支障が出るほどではないが、遠い字や人の顔がぼんやりとしている。感情表現が豊かになり、決して表に出ることがなかった照れの多発。
――そして、ぬいという個を求め、甘え、頼らせてくれるノルへの想い。
今までどんな言葉を投げかけられても、ぬいの心は平常心だった。ちょっとした怒りや、穏やかさを感じても、激情にかられることはない。
「なんで、今まで平気だったんだろう」
うずくまりながら、ぬいは過去の思い出を振り返る。痛みと強い想いに胸を引き裂かれそうになり、頭の中はパンク寸前である。
「ヌイさま!?どうなさいましたか?ご気分が優れないのでしょうか」
柔らかく懐かしい声が聞こえる。
「我らが神たちよ、良き隣人に立ち上げる力をお授けください」
あたたかな何かに包まれると、ぬいの痛みは引いていく。
「……ありがとう、ミレナちゃん」
顔を上げて、お礼を言う。少し見ない間に成長し、大人びた表情を見せるミレナが立っていた。
◇
「わたくしもヌイさまにお会いしたかったのですが、何度部屋に向かっても不在だったようで」
全くタイミングが合わず、すれ違っていたのだろう。ぬいはそのことに安堵する。
「よかった。後々になって怒りが湧いてきて、わたしと顔を合わせたくないのかと思ってしまったよ」
最初はそんなことを微塵も考えていなかった。しかし積み重なる日々と孤独が、ぬいを不安にさせていったのである。
「色々と迷惑をかけてごめんなさい。最後まで見放さないでくれて、ありがとう」
ぬいが頭を下げると、ミレナが大きく首を振っているのが見えた。
「ヌイさまが謝る必要はありません。選んだのはわたくしたちですから」
「そっか」
きっぱりと言い切るミレナに対し、これ以上何かを言うのはやめておいた。
「最近忙しそうだけど、大丈夫?トゥーくんに振り回されてない?」
「確かにすべきことは多いです。ですが以前と違って、わたくしのことを頼ってくれるようになりました。それがとても嬉しいのです」
興奮してまくしたてる様子もなく、ミレナは落ち着いている。大人になった証かもしれないが、ぬいは少しだけ寂しく感じた。
「一年です……ようやく希望の兆しが見えてきました」
ここでぬいは、トゥーがどれだけ早くこの国に来たのかを知った。半年ほどの差があるようだ。それだけの時間があれば、勇者として称えられる功績もあげられるだろう。
「その他不特定ではなく、わたくしをわたくしとして見てくれるのです」
普通に話しているように思えるが、ミレナの声が震えているのが分かった。口の端も我慢しているのか、どこか引きつっている。
ついに口角が上がるが、慌てて手で押さえていた。いつも通りの彼女であったことにぬいはホッとする。
「無事でいてくれさえすればいい。生きていてくれれば、そう思っていました。これが愛なのだと。ですが……わたくしはなんて欲張りなのでしょうか」
にやけを落ち着かせるためか、真剣な話題に変えてきた。
「求められるんだったら、別に求めてもいいんじゃないかな?」
ぬいとしては、ただ素直に言っただけである。だが、ミレナはハッとした顔をしてどこか気まずそうだ。
「あっ、えっと。暗い話じゃなくて」
失言だったことにぬいは気づく。ミレナがどこまで過去を聞いたのかは定かではない。だが、鍋島が綠に想いを抱き伝える前に死んでしまったことは理解している。
「ミレナちゃんって、控えめでしょ。そこがいい所でもあるけど、それで今まで周りの女の子たちに押しやられてた」
物陰から悔しそうに見ていたことを、何度聞いたことか。ぬいは過去の話を思い出す。
「でもね、それでもトゥーくんは、そんなミレナちゃんのことに気づいてた。つまり、気にかけてたってこと。もっと、欲張ったっていいんだよ」
「ですが……こんな大変な時期にご迷惑ではないでしょうか」
おずおずとミレナは言う。
「世話をかけられている側だっていうのに、ミレナちゃんは本当に優しいなあ。あのね、正直に言うけどトゥーくんのタイプってさ、ミレナちゃんなんだよ。もうど真ん中」
「えっ、そ、そんなことありえません。好みの方はヌイさまではないのですか?」
「まったくもって、違うよ!」
ぬいは否定しながらブンブンと首を横に振った。このことから、ミレナは過去の話を聞いていないようだ。
「今まで周りにいた女の子でさ、スタイルいい子が近いとちょっとにやけてなかった」
「……確かに」
ミレナは真剣な表情で考えると、思い当たる節があったらしい。
「って、言っててなんだか最低な人間みたいだね。その、トゥーくんって人の良い所を見つけられて、好きになれる人なんだよ。うかうかしてると、横から取られちゃう。だからしっかり捕まえておいて、幸せにしてあげてほしいし。わたしはミレナちゃんにそうしてほしいと思ってる」
「ヌイさま……」
ミレナはこぶしを握り締めると、強く頷いた。
「ありがとうございます。ヌイさまはどんなわたくしも受け止め、心を安らげてくれます。戻ってきてくれて、本当にうれしいです」
「まずそれをトゥーくん言おう!」
ぬいがビシッと指を突きつけると、ミレナは照れだした。
「む、むりです。それにトゥーさまは落ち着くというよりも……胸が高鳴って、フワフワするような」
乙女の表情でトゥーのことを語りだだす。前と同じように、ぬいはミレナの話に相槌を打つ。
「ヌイさまは、そんなことありませんか?」
急に問われ、ぬいは首をかしげる。それよりミレナの話が聞きたいと言っても、無駄であった。一方的にまくしたてることはやめたようである。
「だ、だれのことかな?」
あからさまに誤魔化すと、ミレナはなぜか不思議そうな顔をした。
「ノルベルトさまのことです」
はじめてミレナから彼の名を聞いた。しかも家名ではなく、名前呼びである。無意識にムッとした顔をすると、ミレナがくすくすと笑いをもらす。
「その表情はじめてみました。嫉妬されたんですね。わたくしもよくしますから、わかります」
「ちっ、ちがうよ!」
否定してもさらに笑うだけで、ぬいは恥ずかしくなってきた。表情をどうにかしようと、頬に手を伸ばす。
「とても表情豊かになりましたね。なんだか近しく思えてうれしいです」
ミレナはぬいの手を掴むと、頬から手を離させた。無理に表情を変えるのを止めさせるためだろう。
「ヌイさまは近々スヴァトプルクになるでしょうから、家名呼びでは区別がつかないと思いまして。ただそれだけです」
「待って!なんでまたその話になるかな……」
ミレナはアイシェ以上にそう思われる光景を見られている。致し方ないこととはいえ、指摘されると恥ずかしくなっていく。ぬいは頬が熱くなるの感じた。
「わたくしてっきりそうだと。あれだけ想われていますし、何より異邦者とよそ者扱いされることもなくなります。何かと理由をつけられ、もう囲い込まれているのかと」
とんでもない言い草である。ミレナにとって、ノルはいい印象ではないのか、それとも気を使わない関係なのかは不明だ。
「まだなにも明言されてないし。そもそもあれから、一度も会えてなくて……」
口に出すと、ぬいはどんどん落ち込んでいく。ミレナが励ますように背中を優しく叩いた。
「それはおかしいですね。あんな獲物を狙うような目をしておいて……もしかしたら、神から何かを言われたのかもしれません。わたくしには聞こえませんでしたが」
ぬいが気を失っている間のことだろう。ヴァーツラフが言ったことのあらましでは、どうやら省かれたらしい。
「いずれにせよ、そう長く放っておけるほど辛抱強くないと思います。そのうち嫌でも向こうからやってきますよ」
ミレナにしては少しとげとげしい言い方である。その関係性に見当違いな嫉妬を覚え、ぬいは愕然とする。いったい、なにをしでかしたのか。今度問いただそうと心に決めた。




