01:再誕
彼女はあてもなく人ごみの中を歩いていた。瞳には生気がなく、まるで死んだ魚のようである。
体が疲れているといよりも、精神が摩耗しているのが見て取れる。
生来の癖か、都会生まれであるがゆえか足取りは軽く速い。だが、どことなくふわふわしている。このままどこかへと、飛んで行ってしまいそうだ。
華奢で小柄な体躯のおかげか、誰にもぶつかることもなく、ただあてもなく歩いていた。
やがて開けた広場にたどり着く。色とりどりのイルミネーション。空高くそびえたつツリー。そしてそれらを眺める人たちは、幸せそうに会話を交わしている。
彼女はあまりの眩しさに目を細め、顔をひきつらせた。
「……来る場所を間違えた」
そう小さくつぶやくと、踵を返す。この中を突っ切る勇気はなかった。
来た道をそのまま戻ることはせず、左に曲がる。より狭い道を選んで、歩いていく。ようやく人気が少なくなったころ、ひと際細い路地を見つけた。
彼女がなんとか通れるくらい細い。一体この道は何のために作られたのだろうかと、首をかしげる。
道の奥には小さな茶色の扉。そしてその上にはかろうじて見えるが、ティーカップが描かれた看板が見える。
彼女の良くない視力では眉間にしわを寄せ、目を細めてなんとか見えるくらいに小さい。
ようやく目視できると、そこへ向かって歩きはじめた。奥に見える扉は隠れ家風でこなれている。だが、道は思っていたよりも汚くガタガタで、なんだか湿っていた。
小さなゴミがたくさん散乱しており、彼女は鼻で笑って自嘲する。
「いいね」
彼女は昔両親の支配から解放され、様々な国を旅したことを思い出す。
おんぼろのビルに囲まれた道。中途半端に舗装された汚い地面。古風な扉。今までの記憶がすべて入り混じったような場所であった。
そのまままっすぐ歩いていくと、扉に手をかける。ようやくその位置に立って、扉に細かなツタや花の彫刻が施されていることに気づいた。
それを横目で眺めながら、彼女は重い扉をゆっくりと開けた。
◇
そよそよと頬を撫でる風で目を覚ました。なぜならば、彼女は風があまり好きではないからだ。黒く柔らかい猫っ毛を持っているため、すぐに乱れてもとに戻らないし、細い毛が頬をくすぐり、こそばゆくなる。
外界の眩しさと風に対する不快感で彼女は目を細めながら、体を起こす。
「……え?」
彼女が寝ていた場所は平たい水晶の台座の上であった。そのため寝心地は最悪であり、体からは軋むような音が鳴る。過去良くない寝床で寝る機会は何度かあったが、さすがに水晶の上はない。
「……っく……いったた」
背中をさすりながら、彼女は辺りを見渡した。
「なにこれ」
見渡す限り一面の水晶が生えている。ところどころ緑も生い茂ってはいるが、前者の方が強く飲み込まれている。
目の先には水晶をもとに作られたであろう人工的な街道があり、その先に目を向けると、大きなガラスのような城と街が見えた。
やけにはっきり見えることから違和感を覚え、彼女は様々な場所に視点をうつす。
「……見える、視力が回復してる」
感動した彼女はしばらく景色を眺めていたが、すぐに意識を取り戻すと慌てて荷物の確認をし始めた。
どこにでもある黒くて丈夫なカバンはすぐ手元にあった。中身を確認すると、ガムとスナック菓子に大量の飴。クッキーにマドレーヌと彼女がいつも常備しているものが目に入った。
彼女はその中の一つを手にすると封を切って口にする。甘いものを食べたおかげか、少しだけ心が落ち着いた。
それらに埋もれた財布を取り出すと中身を確認。無事である。
さらに別のものを探して、すぐに手を止めた。いつでも連絡を取らざるを得ない電子機器に嫌気がさし、部屋に投げて出てきたことを思い出したからだ。
次に自分の状態を確認する。適当に買った白のコート。中は黒いジャケットにブラウス。下にはスリットの入った黒いスカートを身にまとっていた。足には編み上げの暖かいブーツを履いている。
冬になると、配色がモノトーンになるのは致し方がないことである。
「衣服の乱れなし」
次に顔を触るが、もちろんそれでわかるはずがない。ちょうどいいところにあると、小さな彼女と同じくらいの水晶に己の姿を映す。
透き通った濁りのないものだからか、よく映った。顔にケガなどはないことが確認できる。下の位置にゆるく二つで結んだ黒髪も、いつも通りである。
――しかし、一つだけ違う点があった。
「目、こんなに黒かったっけ」
元々黒に近いこげ茶であったが、今は深い闇色の目になっている。もしかして、カラコンでも入れられたのだろうか、彼女はそう考えるが目に違和感はない。
寝ている間に手術でもされていたらどうしよう、そう考え目元を触るが何の痛みも違和感すらない。
そんなことをしていたせいで、近くの気配に全く気付かなかった。
「聞いてるのか?」
突如背後から肩を捕まれ、彼女は飛び上がって距離を置いた。鞄を取られないようにしっかりと持ち、手でガードする。その警戒心満載の姿はまるで猫のようである。
「誰?」
そう言って顔を上げる。目の前には赤い髪につり目がちに、緑色の目を持った青年が居た。一見貴族にも見えるが、服装はいたって質素なものである。
顔は整ってはいるが、少し歪んだ表情が小悪党感を醸し出し、台無しにしている。それを見た彼女はより警戒する。
殺されはしないだろうが財布の一つや二つ、持っていかれそうだと彼女は思った。
「は?なにをバ……んんっ……っと、脅かせて悪かったね」
不審げな彼女を見て、彼は低い声色をやわらげた。しかし素であるのか、表情はあまり変わっていない。
「野にある水晶を長時間見ていると危険だから、やめておいたほうがいい」
彼女はそう言われると、慌てて水晶から距離を取った。しかし、地面も周りも囲まれている。
「そんなに慌てなくていい。濁った色合いをしていて、無聖別のものだけで、やたらめったらあるわけではない。あくまで可能性だ」
「そう……ですか」
現地の人がそう言っているのならば、間違えはないだろうと彼女は息を吐く。
「それで、君はいったいこんなところで何をしている。見たところ自国の人間ではないだろうが」
「……えっと」
言おうとして、彼女は妙に記憶が薄らいでいることに気づいた。まるで概要のように覚えてはいるが、詳細が全く思い出せない。
これは一種の防衛本能であろう。ぬいはそう結論づけた。
「意識のないうちにいきなりここに放り出されていて。どうやってここへ来たのか、全く記憶がないんです」
彼女は数舜迷った後、正直に言うことにした。
いくら相手が小悪党風の怪しい風貌だろうと、この場に頼れる人物は彼しかいない。
「そうか、それは大変だったろうに……君、名は?」
ねぎらう言葉の割には感情がこもっていない。しかし、彼女はそんな些末なことなど気に掛ける余裕がなかった。
問われてまたもや頭の中にもやが巣くう。
「………ぬい」
なんとか絞り出したものは、今一つ本物であるという確証がなかった。しかし一部であることは間違いない。
「そうか、僕はノルだ」
ぬいに合わせたのか、愛称を名乗ることにしたらしい。
「ヌイ、この辺りを一人でうろついていては危険だ。街まで送ろう」
そう言うとノルはマントをばさりとはためかせ、先をゆっくりと歩き始めた。
その後ろ姿は幸か不幸を呼び寄せる者なのかは不明である。それでもいつ何が起きるか分からない、見知らぬ土地で頼れるのは彼だけだ。
ぬいは不安から鞄をぎゅっと押さえると、後を追った。