10:どうか、見守りを
それからぬいはアンナの家へと通うことになった。最初は水晶への供給に対し、ごはんの引換だけであったが、それだけでは賃金を得ることができない。
できたら住み込みでと頼んだが、部屋がないと断られた。幸いなことに、ぬいにはかろうじて家と呼べる場所はある。
うなだれながらもあきらめようとしたが、通いであれば雇うと承諾を得た。
その日からぬいの求めた穏やかな生活がはじまった。
アンナは店を経営していたらしく、そこの番をすることになった。最初こそは苦手な接客業に恐れを抱いていたが、やってみれば簡単であった。
つまりほぼお客が来ないのである。たまに来ては、高価なガラクタのようなものを買って去っていく。偶にまともな品もあるが、大半は変わった造形である。
ぬいにいはその価値が全く分からなかったが、その奇妙な品はどうやらアンナの手作りらしい。
それらを制作しながら家事も行い、店番もするというハードワークであったため、手が荒れていたようだ。
店番は暇なため、何をしていてもいいと言われぬいは最初はぼーっとしていた。
日の光を浴びながら「この世の楽園はここだった」とつぶやき幸せをかみしめる。うっすらとした過去であるが、労働にいい感情がないからだ。
しかし、そんなぬいを見るシモンの視線が痛く、暇つぶしに教典を開くことにした。
そこに書かれたものは、都合よく翻訳されたものではなかった。どうやら変換されるのは声だけのようである。
ぬいが嘆いていると、シモンがやってきて幼児用の文字版を貸してくれる。ついでにと、読み方も教えてくれた。基本さえわかれば、あとは勝手に声が翻訳してくれる。
二人は共に教典を使いながら、語学の勉強をはじめることにした。識字ができなければ、この先生きていくのに支障がでるだろうと、判断したからだ。
朝早くない店番、シモンとの勉強。それを終えた後にアンナの家事の手伝い。夕飯と片づけを終えれば宿舎に戻り、御業の鍛錬。
こればかりはあまり成長を感じることができなく、歯がゆい思いをした。
偶にミレナが教えてくれることもあるが、大半は想い人である勇者の話をして帰っていく。これが生活の基本となりつつあった。
このままこんな日々が続けばいい。ぬいはそう思いながら、ベッドに横たわる。
「いや、違うよ!」
勢いよく起き上がる。よく考えればぬいは大事なことを教皇から聞いていない。つまり帰れるか否かである。
その気持ちが湧いてこなかったせいか、すっかり失念していたのである。そもそも他の、同じような存在たちはどうなったのか、全く、何も聞いていないのだ。
ぬいは立ち上がり、教皇の居る礼拝堂へと向かった。
◇
日がとうに暮れた時間だからか、廊下に人はいない。居たとしても神官たちには腫物扱いされ、頑なに避けられる。まともに接してくれるのは、ヴァーツラフとミレナくらいだろう。
街の住民がそのような態度をとることはないが、特別仲良くなるようなこともない。
ぬいは不思議に思いながらも、自然と昼に居ることを避けるようになった。
灯かりが乏しい中、月の光を頼りに礼拝堂までたどり着く。
閉ざされた扉を開けると、ヴァーツラフは大水晶の前に両膝を付き、手を組んでいた。祈祷の最中なのだろう。
ぬいは邪魔しないようにそっと扉を閉じると、近くの長椅子に座る。
月の光に照らされ、ヴァーツラフは輝いていた。彼は派手な容姿ではない、しかしどことなく作り物めいているからか、一種の神秘さを感じる。ぬいはその真摯な姿に目を離せなかった。
「我らが神たちよ、見守っておられますか」
いつも口から発するものは、難しい言い回しか祈りの言葉のみである。
「ほんの僅かだけでも良いのです、どうか啓示を」
だが、これだけは違うように聞こえた。
相変わらず感情は籠っていないが、小さな子供の問いかけのようである。
「何百年時が経とうと構いません」
それは悲痛な叫びのようでもあった。この言葉から返事が返ってきていないことが明らかだからである。
何百年という年数が実際に経っても、望む返答は得られなかったのだろう。
ぬいは今更聞かなかったふりも、こっそり帰ることもできなかった。ただ、教皇という役割を負った、ヴァーツラフという存在から目を離すことができなかった。
しばし沈黙が場を支配する。無言の祈りに変わったのだろう。それが少しだけ続くと、ヴァーツラフは立ち上がる。機械のようにきれいに振り返ると、ぬいの元へとまっすぐ向かってきた。
「あ、えっと……こんばんは?その、答えは返ってきました?または何かお告げとか……」
ぬいは何と言っていいのか迷ったあげく、問いかけてしまう。軽率だったと少し後悔した。
「否。お告げはただ一度だけ、そなたのことのみである」
「え?」
予想外の回答にぬいは動揺した。
「なんで?意味が分からないんだけど……だって、わたしは特に力なんて。いや……そうじゃない」
ずらしそうになった話をなんとか軌道修正する。
「それってごく最近だけはってことでしょう?多分、勇者さんの時とかもっともっと、その前もあったはず」
混乱から敬語が外れているが、ヴァーツラフは気にも留めていない。
「ここ数百年でたった一度のみである」
きっぱりと言い放った。嘘偽りのない言葉である。そもそも彼が余計な誤魔化しをするはずがない。
「わたしは最近の来た人みたいにすごい御業も使えないよ」
どれだけ格差があるかは、ミレナを見ていればわかる。彼女でさえすごいのだから、彼はぬいと比べられる対象にすらならないだろう。
「目に見える力だけがすべてではない」
「わたし大して友達もいないよ?今も過去も」
情けないと自覚したのか、言葉のトーンが少し暗くなる。
「そなたは堕ちた神、堕神であり異邦者だ」
「前から思ってたけど、だしんってなに?どこまでを意味するの?多分周りから、良くない意味で使われてると思うんだけど……」
よく神官たちが、ぬいに対して使っているのを思い出す。
「ただの落ちた神と言う意味が主であるが、錯乱した状態も指す。落神と呼称を変えてもいいと思うが、あまり多く使われない。ゆえにそちらを選んだ」
「なるほど、堕神ってそういう意味か」
ヴァーツラフが言うのはそのままの意味であろう。しかし神官たちはおそらくよくない意味として、使っているに違いない。
「わたしは神でも何でもないよ?」
自嘲するようなその言い方から、強いむなしさを感じたのだろう。目を閉じて、思案し始める。
薄い過去の記憶。小さなぬいは周りからささやかれていた。
「あの子はたぐいまれな才能を持った、神童ね」
「まさに天賦の資質……いや、あの家の子だ。生まれ持った何かがあるんだろう」
「環境に恵まれ、多才……なんて羨ましい」
彼女は幼い頃の賞賛の声を思い出した。だがあまりうれしくないのか、顔をしかめる。現状の自分から、その先がどうなったか予測できるからである。
「そなたはこの者よりも、余程人間に近い」
顔をしかめそうになった時、ヴァーツラフが少しせかすように回答をする。気がそれたぬいはそっと記憶の蓋を閉じた。
「そして神に注視される者である」
ぬいはヴァーツラフのその言葉に含みを感じた。
「それって嫉妬?」
教皇の表情は全く変わっていない。先ほどの祈りと、呼びかけの光景を見たせいもあるだろう。
「この者にそのような感情は持ちえない」
そう言う通り、ヴァーツラフに変化はない。
「ごめんなさい、失言だっ……」
ここでぬいは気づいた。いつの間にか砕けた態度で接することが、当たり前になっていたことに。
「先ほどから失礼な行動と言動、大変申し訳ございません、教皇さま」
深々と頭を下げる。この国の礼儀作法として全くあっていないものである。だが、ヴァーツラフなら意味することが分かるだろうと。確信を持ったゆえの行動だ。
「謝る意味が不明である。言葉も急に変える必要はない」
「でも……」
いくら本人がそう言おうと、彼は教皇。この国の頂点と言ってもいい立場の存在である。
だが前に言った「ヴァーツラフだ」という発言。そしてあの祈りを見たからか、ぬいは変にかしこまるのをやめた。
「わかったよ、ヴァーツラフ」
そう答えると、彼はただ黙ってぬいの瞳を見据える。そこに感情は見えないが、どことなく満足そうに見えた。




