107:もう逃げられない
「おめでとうございます!」
「ようやく幸せになれる……」
「ずっと、待ってた。坊ちゃん、本当によかった」
祝福する声があちこちからかけられ、屋敷の人たちに大事にされているのだと、ぬいは実感した。
「そうとなれば、引っ越しか。今すぐ異邦者の部屋にある荷物を運ぶよう、手配してくれ」
ノルはぬいの肩を抱きながら、てきぱきと指示を出す。その様子にボーっとぬいは見とれていたが、すぐ我に返る。
「えっ、今から?」
「言っただろう、住むと」
やけに含みのある聞き方をしてくる。ぬいが怪訝な顔をするとノルは口を耳元に寄せてきた。
「気づいていなかったとでも?」
顔を離したノルは悪そうな表情を浮かべていた。どう反応していいかわからず、ぬいが愛想笑いを浮かべると腰に手を回された。そのまま横に抱き上げられると、階段を上っていく。
「ノルくん。引っ越しするなら、わたしも一緒に行ったほうがいいんじゃないかな?」
ただ物を移動するだけならいいが、その他の手続きも必要になるだろう。そう思い、ぬいは申し出た。
「あの部屋にはさほど物はないだろう?近いうちに転居すると、既に叔父上へ通達してある。ヌイが心配することは、なに一つない」
ノルの指摘通り、ぬいは物を大して所有していない。あるのはノルから貰った品と最低限の衣服類のみである。稼いだ賃金の使い道はほぼ食事であり、そもそも大した物欲がないからだ。
「あの時、そんなこと話してたの?えっと、そうだ。掃除とか挨拶もしたいし」
「掃除も任せてある、挨拶は明日にでも行けばいい」
「わたしが汚した後始末をさせるのは、ちょっと……」
気づいたときにしているとはいえ、完璧ではない。そんなことを人にさせてしまっていいのかと、ぬいは戸惑う。
「それは慣れてもらうしかない。この先は色々と忙しくなる。今はただ傍にいてほしい」
ぬいは生きてきて、これほどまでに甘やかされたことがない。
両親の愛情は偽物で、弟は互いに敬意と節度を持ったものであった。与えられる愛情は幸せそのものだが、どう対応しするべきか、逡巡する。
「うん、わかった。ノルくんのところに居るよ。それで、これからどこへ行くの?」
「僕たちの部屋だ」
「え」
動揺からぬいは身をよじらせると「危ない」と言われ腕に力を入れられた。
「待たされた間、すべての準備は終えている」
「……もしわたしが、やっぱり嫌だって言ったら、どうするつもりだったの?」
物品ならともかく、部屋までとは。ぬいは予想していなかったことに、目を丸くする。
「言ったとしても待つし、捕まえる。受け入れてくれた相手を逃がすわけない」
向けられるまなざしからは、強い執着心がにじみ出ていた。
「その、部屋に行ってどうするの?」
「君はどうされたい?」
逆に艶っぽい声で問いかけられ、ぬいは困惑した。
「あのね、まだ昼前だよ」
「それがなにか?と言いたいところだが、最後の仕上げがある。そのために、僕たちは部屋に向かっている」
なにを指しているかは不明であるが、ぬいは納得した。
「部屋までまだなら、降ろして大丈夫だよ?」
聖句を唱えていないことから、素の状態であることが察される。
「その必要はない。もう着いた」
ノルはぬいを抱きながら、器用に扉を開く。
「まずここが執務室。その左がヌイだけの部屋で、逆が僕の部屋。どこも好きに使ってくれていい。そして奥が僕たちの寝室だ」
そう言うと、ノルは扉を閉じて鍵をする。その行動を不審に思う余裕などなく、ぬいは内装に目を奪われていた。
横からノルの視線を感じるが、あふれる好奇心から見返す余裕はない。小さな笑い声が聞こえ、ぬいは安心して部屋を見渡す。そもそも執務室に入る機会など滅多にない。以前スヴァトプルク家を訪ねたときはもちろん、見ることはなかった。
はじめて見たのは枢機卿の部屋である。あの時の白く簡素な部屋とは正反対に、落ち着いた色合いの家具が置かれている。目立つものは、休憩と来客のためのソファーがいくつか。そして奥にある大きな二つの机である。おそらく片方はぬいのために用意したものだろう。
ノルはそこまでぬいを抱え歩き、そのまま革張りの椅子に腰を下ろす。引き出しを開くと、数枚の書類とペンを取り出した。
「ここの空白部分にサインをしてほしい」
「わかった。けど、今度こそ降ろしてもいいんじゃないかな?」
今ぬいはノルの膝に腰を下ろしている。その落ち着かない状況に、もぞもぞ体を動かすと肩を掴まれ止められた。
「だめだ」
「意味は?」
「ない」
きっぱりと言い放たれ、ぬいは諦めた。ペンを取ると書類に目を通す。公式なものだからか、書いてある内容が難しい。頭をひねっていると、腰のあたりを撫でられた。
「ノルくん」
「すまない、ただの紙に嫉妬したようだ」
もの言いたげな目でみつめると、全く悪びれずにノルは言った。大きな椅子と相伴って、はたから見れば悪のボスに撫でられる猫のようだと、ぬいは思う。
集中力を何度も乱されながら、読み続ける。正式な住人としての登録書や引っ越しの手続き。納得できるものが大半であった。
横に書いてあるノルのサインはその人を信頼できると、証明するものである。嬉しさから筆跡を手でなぞると、なぜか体を撫でられた。
「集中できないから、ちょっと待って」
あてられた手をそっと押しのけると、ノルは嬉しそうする。
「本当に……ヌイは優しいな。聞き分けのないことをしても、叩かない」
どこかうっとりとした様子で言った。ぬいは適当に相槌をうつと、読解に集中する。
書類をかき分けその中の一枚に、まったく毛色の違うものを見つけた。うまく紛れ込んでいるように見えても、さすがに理解できる。ぬいはそれをつかみ取ると、ノルの目の前にかざした。
「これさ、婚姻を神々に願う記述書?って書いてあるんだけど。間違いじゃないよね?」
「その通り、それは婚姻誓約書だ」
照れもせず、真面目にノルは頷いた。
「あー……うん、そうだよね。これを書いたらどうなるの?」
「ヌイ・スヴァトプルクとなり、僕の伴侶になる。もっとも、その紙自体に効力はない。それを提出した後だが」
ぬいは乾綠という名前があまり好きではなかった。今ならわかるが、ぬいはただのあだ名だ。今まで呼ばれてきた中で、一番気に入っていたため、薄い記憶の中から掘り起こされたのだろう。
「それが、わたしの名前になるんだね」
家名を与えられ、この世界での本当の名を得る。それがただ嬉しくて、震える手でゆっくりとサインした。
「できたよ、ノルくん」
振向きざまに笑顔を見せようとするが、出てきたのは涙であった。
「あれ、やだなあ。まただよ」
ここへ来てから妙に涙腺が緩くなったと、ぬいは思う。すぐに手でぬぐおうとするが、先にノルの手を当てられた。
「この表情は誰にも見せたくない」
そう言うと、まなじりに口付けを落とされた。ぬぐうように何度も押し当てられたあと、背中に腕を回される。
「その、今日からよろしくね」
ぬいもノルの背に腕を回すと、そうつぶやいた。すると、急にノルはぬいを抱き上げ立ち上がる。
「えっ、どうしたの?」
腕を緩めてノルを見ると、どこか切羽詰まった様子である。返事はなく、そのまま歩みを進めると寝室の扉が開かれた。またすぐに施錠すると、ベッドの上にぬいを置いた。
「だめだ、耐えられない」
上着を脱ぎ捨てると、ぬいの上へ覆いかぶさる。
「ノルくん、さっきも言ったけど、今ちょうどお昼くらいだよ?」
窓の方へ視線を向けて、そのことを強調する。するとノルは顔を歪めて立ち上がり、カーテンを全て閉めた。
「もう夜だ」
そう言うと、ノルは再びぬいの上へ馬乗りになる。
「あのー……ここ、ノルくんの家だよね?」
「プロポーズ後、自室で二人きりになり、なにもしない恋人がいるとでも?」
暗くて見え辛いが、確かにノルは悪そうな笑みを浮かべていた。
「そういう事じゃなくて。お家の人、たくさんいるよね?」
最初は想いが通じた高ぶりに費用の節約、旅先の非日常感。様々な理由が積み重なったものからである。次は酔って殆ど記憶がない。それに対し今は平時である。
――つまり、とても恥ずかしい。
なんとか理由をつけて逃げようと、ぬいは赤面しながらあれこれ考える。
「今の僕たちを邪魔するような無粋は、この屋敷にいない」
ノルはぬいしか見えていないのか、うっとりとした表情で頬を撫でた。
「ひゃっ……っと、その。わたし、ノルくんの話を聞きたいなって。今日からここに住むんだし、色々知っておかないと」
目を逸らしながら、ぬいは言うと、頬を両手でつかまれ固定された。
「なぜ拒む?」
射貫くような視線に、ぬいはぎゅっと口を結んだ。
「……恥ずかしいから」
「そうか」
ノルは安堵した表情を浮かべると、頬を優しく撫でてきた。少し前に流れた涙の跡をなぞるように、指を動かしてくる。くすぐったさから目を細め、緊張していた体から力が抜けていく。そのまま顔が寄せられ、ぬいは特に抵抗することなく目を閉じた。




