朽ち行く御手 1
曇天がのしかかる街の中、最新機と触れ込みされた携帯のスイッチを切る。
昔を思えば現代は随分と発達しているもので、携帯でタクシーを呼ぶという当たり前の動作も歴史の積み重ねを想起させる。
馬車の時代では想像もできないだろう。馬無しで動く車を、こんな小さな機器で呼び出せるのだから。
例えこの重苦しい雲を消し飛ばす叡智がなくとも、人は既に生物としては破格の力と権能を備えたと言っていい。
薄闇の中で、誰に許可を得る訳でなく、何に批判されることもなく、我々は星の命運すら握ってしまっているのだから。
……タクシー一つでどれだけ小難しい事を考えているんだ。
と内心の自分が嘲笑った気がしたが、一先ずこれで時間は潰れた。
今日は近くでイベントがあるらしく、タクシーの到着に一時間はかかるとあっては、正直言ってこんなくだらない事を考えないと時間を持て余してしまうのである。
タクシーで星の命運を握る話をするくらい、暇なのだ。
暇ついでに隣の黒づくめの男、エルに何度も確認した情報を再確認する。
「今日の依頼はとある錬金術師の呪い払いだが、他に何か詳しい事は聞いてたか?」
「手が腐りつつある、ということ以外は何も」
この妙に背の高い男と会話する内容は、やはり現代には不適切か。
雑誌に載るほど有名らしいバルの前でする話と言えば『今日はどんな酒を飲みたい』とか、『つまみは何が良い』とかだろう。
だというのに俺がこの陰鬱な優男と話すのは、呪いと腐敗だ。何時代の人間かと思われるに違いない。
未だにトイレの中身を道に投げ捨てているのか、とか。
もしかして今時お風呂入っていないの、とか。
馬鹿言え。国レベルの黒歴史に居合わせた例はないぞ。
それに、だ。よそ様が埃臭く感じるこの文言たちは、俺達にとってはまだ新鮮な言葉だ。
特に呪いは、毎日のように聞く。
「手が腐るか。随分と迂遠な呪いだな。スパッと呪い殺さないのか」
「そのようです」
「はぁ、このねちっこさ。面倒事の匂いがプンプンしてくる」
俺の理想は労働時間一時間だって言うのに。それ以外はベッドの上で読書にふけりたいのに。
「これじゃさっさと解決してティータイムとはいかないかも知れないな」
「はい。それはそうと……何故携帯を私へ渡すのですか? 自分のものですよね」
「この形態はでかい上に重い」
「恐れながら、それは最新機器で軽量化も進んでいるものです。大きいのも画面を広くとったためで、厚さは逆に薄くなっております」
「そうか。科学技術もまだまだ発展の余地があるようだな」
手を伸ばしてノッポの胸ポケットにそれを入れて、疲れた手を振る。
「エフィム様、やはり少しは身体を鍛えた方がよいのでは。電話するだけで腕が疲れていては、いずれステーキも切れなくなりますよ」
「だったらお前に切ってもらおう」
「だとしたら、いずれ私は自分の手を二三本増やさねばなりませんね。スマホを貴方の耳に当てながら、ステーキを切り、このように時間を確認するのですから」
そう言うと、彼は自分の懐中時計を見て、大げさに驚く。
ああ、またか。次にいう言葉は知っている。
「大変です。約束の時間が後少しで過ぎてしまいます」
「お前、蛇の胃袋を股空っぽにしているだろ? 携帯の時計を見てみろ」
エルが蛇の彫り込まれた懐中時計を仕舞って、携帯を見る。
そして、もう一度懐中時計を見て、見比べて、首を傾げた。
「可笑しいですね。先月電池を替えたばかりなのですが」
「もう古すぎるんだよ。買い替えろ。その陰気な傘と一緒にな」
「それはいけません。何方も愛着がありますし、傘は貴方を日差しから守るのに必須ですから」
等と嘯いて、エルが俺の頭上に傘を開く。
「やはり白髪赤目では日光は毒でしょう?」
「先天性のアルビノだったらな」
「では差しておきましょう。一応左目は眼帯で守られていますが、アルビノの子供を日に晒すとなると世間体が悪いので」
その言葉を待っていたように、薄雲から日が差して、街が白日に照らし出される。
眼帯で半分覆われた視界から見る奴の顔は、穏やかに笑う聖人の様なものだった。
が、その陰気さは天からの恵みであるはずの日の元でも、傘と同じく消えやしなかった。