■前編:メガネの和子
それは、初春のこと。
澄んだ空気に月も綺麗に照り映え、清風も穏やかで、ほのかに梅や蘭の香りがするような夜のこと。
「明日からは、もう地味だの根暗だの言わせないわ」
通い慣れた銭湯からの帰り道。
頭にタオルを巻き、腕には石鹸や手拭いを入れた洗面器を抱え、湯冷めしないように小走りに家に向かいつつ、私は心密かに決意していた。
*
話は、土曜日の朝に遡る。
三つ編みでメガネを掛けていた私は、クラスでも影の薄い部類に入る存在だった。
親譲りのド近眼や、雀斑の浮いたバタ臭い顔を恨んだことは、一度や二度ではない。何をするにも、鼈甲フレームの野暮ったいメガネの存在が邪魔になるからだ。
運動も苦手で、なおかつ気の利いた話も出来ない私は、消去法として、窓際の自席で気配を消して読書に勤しむしかなかった。
だったのだが、時季外れな転入生によって、そのルーティンは破られた。
「おい、やめろよ~、あぶねぇだろう。よせよ!」
「キャッ!」
「うわっと。あっ、いけねぇ」
図書館から借りてきた真新しいジュブナイルを読み、私と同じ和子という名前で、時間を跳躍する不思議な能力を持つことになった少女が、実験室でラベンダーの香りを嗅いで意識を失ったあたりだった。
いつものように席についていた私に、クラスのヤンチャ坊主である浅倉くんに押された転入生の星くんが倒れ掛かり、咄嗟に本から手を離して防御しようとした弾みで、うっかりメガネをはじいてしまい、メガネは、そのまま窓の外へ。
教室は校舎の三階にあり、転入生と拾いに行った時には、案の定レンズは割れていた。
*
「メガネを飛ばしたのは、私よ。だから、星くんに責任は無いと思うんだけど……」
「僕がぶつからなかったら、壊さずに済んだんだ。だから、弁償させてくれ。医者には、伝手があるんだ」
半ドンが終わった後のこと。
正直、私と正反対でスポーツ万能なクラスの人気者の星くんと一緒にいるのは、周囲の視線も含めて居たたまれなかったんだけど、善意を断りきる気力は、優柔不断な私には備わっていなかったので、半ば押し切られるかたちで、日曜日に眼科に行くことになった。
そこまでは、まぁ、許容範囲内だったんだけど……。
「コンタクトレンズ?」
「そっ。メガネを掛けるんじゃなくて、眼球の上に直接レンズを置くんだ。僕も今、着けてるんだけど、視界が裸眼と同じだから、とっても楽だよ」
「でも、目の中にプラスチックを入れるのは、抵抗があるわ。うっかり内側に入り込んだらと思うと……」
「大丈夫! もし違和感を感じても、すぐ僕に言えるだろう? 同じクラスなんだからさ」
「えーっと」
星くんの家系が揃ってお医者さんで、診察やその後に掛かる費用を全額負担すると言われ、メガネは安い物では無いことを知っていた私は、図々しくもお言葉に甘えたのだけど、まさか新しい医療品を勧められるとは思わなかった。
返事に窮しているうちに、とりあえず一日試してみることになった。もちろん無料であるが、この時、私は只より高い物はないと実感した。