BoS 『短編』〜吟遊詩人のお爺ちゃん〜
まったく、こうも悪路が続くとは。だが、ゆっくりと馬車を走らせている御者に文句も言えまい。
湯気立つ紅茶を注がれるカップが皿とぶつかりカタカタと音を立てる。眉をひそめカップを手に取った。注がれる紅茶が手にかかり、思わず声を出し目の前の王女をみる。
「あ、これは失礼しましたわ。うふふ。 それにしても、旅とは面白いものですわね」
手にかかった紅茶を拭く手は優しいが面白そうに話す王女をよそ目に窓の外をみる。
「こうも悪路が続いては気が滅入る。女王陛下の勅命とあらば致し方ないが、ここまでの旅となるとは」
「わたくしは大切な事だとおもいますわ。男の約束。わたくしにはわかりませんが、大切な事だとお父様は言っていましたの」
「殿下の願いを渋ったわけではない。だが女王陛下自ら殿下の願いを叶えてくれとはな」
「うふふ。わたくしは楽しみでしかたありませんの」
炉端の語り草とは人の心を楽しませる。それが真実にしろ少しばかりの嘘の毛を生やしたにしろ。特に子供の心にはよく届くようで、ふかふかとした絨毯の上で膝を抱えて座る五人の少年少女達は、暖炉の灯か好奇の光か目を輝かせている。
長い歳月をともにした革張りの椅子に深く腰掛けた老人は子供達に目を向けてから、暖炉に薪をくべる。
「少し冷えてきたな。紅茶でも入れようかの」
「えー、はやく続きが聞きたい!」
「お茶なんかいらないよ」
「お菓子が食べたいー」
子供達はそれぞれに口を開く。その中でも年長の青い目をした少年ルーベだけがすくっと立ち上がると、重い腰をあげようとしていた老人に向かって手を伸ばす。
「いいよ、僕が淹れてくる。お爺ちゃんは続きを聴かせてあげて」
老人は慈しむ静かな笑みで頷いた。
紅茶を入れたカップとポットを盆にのせてやってきたのを見て、老人は絃管楽器のハプートを膝に立てると静かに続けた。
「そうして、吟遊奏院を修了し吟遊詩人となった私は、霞かかるネブリーナの大地を出て未だ見ぬ大地を目指す。旅の友には絃管器のハプート一つ。マントを翻し羽根つき帽子をかぶると門番に最後の別れの挨拶をした」
老人は椅子に座ったまま優雅で慇懃な礼をしてみせる。暖炉の火が爆ぜるように子供達の小さな笑いが静かに老人へ向けられる。
「美しい仕立てで貴族にも劣らぬ天鵞絨の服に身を包んだ私は、街を目指して陽の光も朧げな森の街道を歩いていた。だがその時、風がやんだのだ。森が、大地が、息をひそめた」
老人はハプートを低い旋律でひっそりと奏でる。
「その時! わずかに風を切る音とともに矢が鞄に突き立つ! 私は驚きと恐怖を感じながらもとっさに――」老人はハプートの音を止めた。子供達は期待の目を輝かせて口が半分おるすだ。
「――ハプートを構える。私は自分が何をしているのかもわからなかった。戦うという意志のままに歌った。猛牛の如く戦い、百の切り傷を一日で受けたのにもかかわらず生き延びた戦士、『爆乳のディア』の物語を」
「バクニュウのディア……」子供達は恐ろしげにその名を記憶に刻むかのように呟いた。
「私は五人の盗賊の攻撃をマントを翻し宙を回り翻弄した。だが私には吟遊詩人の殺さずの誓いがあった。短剣の一つも持ち合わせていない私はどうすることもできなかった」
老人の奏でるハプートは低く楽音は悲壮の影をおとしてゆく。
「だが、盗賊の攻撃が少なくなってゆくのに気づいた私は辺りを見回した。胸に矢が突き立ち崩れゆく盗賊達の姿。あぁ、次の狙いは私か。そう思った私は最後くらいはと勇ましく巨木のように悠悠と立ち歌って見せた」
子供達が口を覆う。
「飛んできたのは矢ではなく声だった。男の声。明日の天気はなにかと聞くようなその声に私は何も答えることはできなかった。俺はこいつを運ぶから、あんたはこいつを運んでくれ。頭だけでいい。男はそういった。当たり前のように」
ルーベは自らが入れた紅茶を啜りながら、ぶるりと体を震わせた。頭だけを持っていくのは賞金首だからだ。ここからのお話は知っている、『賞金首の王女様』だ。
ある日、一人の賞金稼ぎの元に使者がくる。翼と薔薇模様の封蝋、女王の印が押された手紙を持った使者。手紙の中の金額だけを見て抹殺対象の第一王女という文字を見ても驚かない、そんな男。
その王女は城下町におりては人気のないところに夜な夜な足を運ぶ。たしかに、これは怪しいやつだ。男は王女を追いかけた。もうすぐ大金が手に入る。そう思った賞金稼ぎは、襲撃したその家の中で見つけた王女を見て固まる。王女は助かりそうもない病人を看病していた。
数百の喉を切り裂いて生きてきた男は、短刀握る己の動かぬ腕に驚いた。
襤褸のフードを下ろした王女は言う。
「ついにこの時がきたのですね」
男は問うた。何をしているのか。
王女は微笑みこう言った。
「病を治しています」
「そいつはどう見ても助からん」
「それでも。誰かが手を握っていれば、こころは助かります」
ぎらつく短刀と死んだ護衛を目の前にしても、王女は微笑みそう言った。
男は信じられなかった。殺されるとわかっていながらも、助からぬ病人を看るその女性の存在を。この女性が殺されなければならない理由があることを。
賞金稼ぎの男はその理由を探して見つけた。女王はお気に入りの欲深い第二王女を世継ぎにしたかったために、第一王女を消そうとしたかったのだ。その証拠を男は王配に伝えた。愛娘を殺そうとした女王への怒りで、王配は貴族と共に女王を処刑しようとする。
それでも、わたくしは母上と妹を愛しています。どうか命だけはお助けを。
王女の涙とその言葉に、王配と貴族のみならず民さえも心を打たれ、女王と第二王女を追放し、王女は女王になった。賞金稼ぎは爵位を与えられ、後に女王と結婚して元気な女の子が一人産まれ、民と貴族に愛されながら三人は幸せに暮らす。
こういう話のはずなのに、このお話好きなお爺ちゃんはあたかもそこに自分が一緒にいるかのように話す。面白いけれど、僕のおばあちゃんが言った言葉で心にちくちくとした何かを感じる。
——あの人は嘘つきだからねぇ。
それでも、お爺ちゃんの話を聞き終わると満たされる。なんだか今すぐ駆け出したくなるような……胸がどきどきしてきて不思議と笑顔が溢れ出る。
「お爺ちゃん、そのバラって花はどこにあるの?」
「野薔薇もあるが、火の期の少し前に咲くのが多くてな。今は見れないだろうな。このお話に出てくる薔薇は普通の薔薇ではなくて、クレノバラといって火の期が終わり土の期の初めに咲く種類なんじゃ。さぁもう陽が沈んだ、お家に帰りなさい。こら、前たちそんなにクッキーを食べなさんな、夕飯が入らなくなるだろうに」
土の期に咲くバラもあるんだ、まだ見れるかもしれない。ルーベは雲の厚い見えない夜空を見上げた。
一日中雨が降り、ようやく止んで薄くも強い木漏れ日の落ちる雨上がりの森の中を、子供たちはこころを膨らませて歩いていた。
「ルーベにいちゃん。本当にあるの?」
「あるさ。この時期はまだ咲いてるって言ってたじゃないか」
お爺ちゃんは嘘つきなんかじゃない、きっとどこかに咲いてるさ。ルーベは後ろを歩く年下の子供たちをふりかえる。
「お爺ちゃんが言ってたものは本当に存在するんだよ」
「本の中のお話だから信じちゃいけないってお母さんは言ってたよ?」
ルーベ以外の子供たちはそろってそう口にした。
「あるって」
昨晩の雨はひどいものだった。外の植木鉢は大丈夫だろうか。
椅子に深く腰掛けていた老人は立ち上がり扉に手をかけようとした時、扉が急に開き老人は危うく尻餅をつくところだった。
開け放たれた扉の前には半べその顔と、ろくに話せもしなさそうなほどに肩を上下させた教え子である子供達がいた。
「おじいちゃん! ルーベにいちゃんが!」
老人は泥濘む森の中を走った。雨の露にまみれた草がいたずらに足を止めてくる。いかねばならないのだ。崖に落ちそうになって助けを待っているルーベを。
肩に食い込む縄が重く感じられた。木々の根元は脆く土が崩れ落ち足をすくう。焦りと怒りが森の雨上がりの静かで濃厚な匂いを忘れさせる。
「ルーベ!」
崖の少し落ちた淵に必死にしがみつき、今にも力尽きてしまうと青い目と蒼白な顔が物語っている。
老人は手近な木に縄を結びつけて自分の体に巻きつけると、崖を慎重に降りてゆく。危なげにルーベを掴むと、体にしがみつかせて崖を登る。自分の非力な老体を呪うことになるとは——老人は思わず笑いをこぼした。
「もう大丈夫だルーベ。私がついている。いつも話しているだろう? こんなこと冒険ではしょっちゅうだからの。平気だ」
「そ、そんなの本の話じゃないか。僕にだってそれくらいわかるよ」
老人は足を滑らせ濡れた岩肌に体を打ちつけた。ルーベは恐怖から泣き声を洩らし、無理だよと呟く。
「怖いなら下をみなさんな、上だけみてなされ。私も、もう少し若ければなぁ。そうすればこんな崖」
「嘘だ……」
老人はルーベの顔を見て眉を上げた。そんな老人の目をまっすぐとルーベは見つめ返す。非難と願いの交わる、少しの怒りを湛えた目。
「僕たちにだってわかるよ。おじいちゃんが話してくれた物語は全部本で知ってるよ。本の中の話じゃないか。僕のおばあちゃんだってお爺ちゃんのこと嘘つきだって言ってる!」
老人は静かに言った。
「そう。確かに本のお話だよ。本のお話にお話をつけ加えておるんだよ」
「それが嘘つきだって言ってるんだよ!」
「だけど私の中では本当の話なんだ。いいかいルーベ。人はね、信じたいと思うものほど傷つけようとしてしまうときがあるんだよ。だけどね、信じればそこにあり、信じなければそこには何もないんじゃ」
老人は崖の上を指差した。
「もうここからなら縄を登っていけるだろう? お前はしっかり者だ。あとは自分の力で登っておいき」
ルーベは何度も足を滑らせながら崖を登ってゆく。崖を登りきりようやく老人を振り返る。
「お爺ちゃん! おとな呼んでくる!」
「待ちなさい。お前さんのことを知らせてくれた子供達に頼んである。それよりもルーベ。自分の信じたいものを信じなさい。あ、それと暖炉の上の本棚にある紫色で金色の装飾が施された綺麗な本がある。私の一番の気に入りの本だ。それを君のおばあさんにあげなさい。きっと喜ぶから」
ルーベは静かに頷く。
「そうだ。こんな状況だが、ぶら下がっているだけもなんだな。お話をしてあげよう」
縄に結ばれてぶら下がる老人を見下ろしながら涙を拭うと、笑いながら頷いた。
「そうだな、あれは確か私が——」
老人の体がガクンと弾んだ。凄まじい速さで滑る縄、結びつけられていた若木が根に土を残したまま老人と一緒に崖の下に消えてゆく。
ルーベはただ、見ることしかできなかった。
ルーベと子供達は老人の入った棺の周りで、静かに老人の白い顔を見下ろしていた。誰も一言も話さなければ涙もない。老人と最後の別れに来ているのは子供達だけだ。
死んだ。人が死ぬということが目の前にあってもどういうことかわからない。でも、話せない。もう、話せない?
そう思うと胸が、なんだろう。
「お爺ちゃんの話。面白かったね」
ルーベの言葉を聞いた子供達がポツポツと好きだった話を互いに話し始める。一人がポツリと言った。嘘の話でも面白かったな……。
「嘘じゃない!」
ルーベの大声に子供達はぎょっとした後、ルーベを見た後に老人の顔を見る。お爺ちゃんが生き返るとでも思ったんだろうか?
「信じればある、信じなければ何もないってお爺ちゃんは言ってた。お爺ちゃんは物語を話してくれてたとおりの、お話にでてくるネブリーナから来た吟遊詩人のお爺ちゃんだ!」
ルーベは老人の家の暖炉の上にある本棚を見上げた。紫色の装丁で、金色の装飾が施された綺麗な本。踏み台を持ってくると、つま先立って本を取る。布張りの表紙に手を滑らせる。お爺ちゃんの大切な本。『アルムシア伝記』。どんな本なんだろう?
家に帰ると、揺り椅子におばあちゃんが座っていた。
「おばあちゃん。この本ね、あのお爺ちゃんがおばあちゃんに渡してって。きっと喜ぶって」
「あらあら、あの嘘つき爺さんかね。どれどれ」
お婆ちゃんはなぜかしみじみと、本の装丁を撫でた後にゆっくりと本を開く。
「うふふ。あの嘘つき爺さん。嘘つきじゃなくなっちゃったわね。この本はね、小さい頃、私が欲しかった本なのよ。いつかくれるって約束してたの。やっとくれた」
「お爺ちゃんが嘘つきって、そういうことだったの?」
「そうよ?」
心の中に、何か明るくて暖かいものが鼓動する。お爺ちゃんは、嘘つきじゃないのかな。
そのうち座っている柔らかい椅子と同化してしまうのではないかと思わせる程に長い、本当に長い悪路が途切れたのか、はたまた盗賊とでも出くわしたか、どうでもよいがようやく馬車がとまった。御者の恭しい到着の言葉にため息が洩れる。
「外に出るとしましょう。旅の目的地への到着、フレルの加護に感謝ですわね」
フレルの加護か、それならば先日の大雨はもう少し先延ばしにしてほしいくらいだ。そんな不満を表には出さずに同意を表す。
馬車の扉が開かれ、王女の手をとって先導する。良い天気だ。ぬかるんだ村の地面さえなければ少しは落ち着くのに。
「なんて素朴で美しい村なのでしょう。あなたも剣だけではなくてこういった場所にも目を向けてもらいたいものですわ」
同意の意を作った笑顔で返す。
老人の家は村の丘の上にある小さな家だった。棺に入った老人の顔は白く、弱く、どこにでもいそうな老人だ。王女が棺の中の老人の額に手を置く。
「あなたがお父様の友人だったのですね。まさか、こんなふうに出会うとは思いもしませんでした。残念です。お父様から言伝があります。あれから数十年、一度も会いに行けなくてすまなかった、戦友であり親友の君に会えなくて残念だ。もう少し若ければよかったのだが。そう言ってましたわ。わたくしのお母様とお父様を守り、繋げてくださったあなたには感謝しております」
老人の家の窓から覗き込む子供達の顔を見て、王女は淑やかに微笑む。
「あなたは好かれていたのですね、吟遊詩人のお方」
王女はそっと老人の棺の中にメダルを置いた。翼と薔薇の意匠のメダルを。