アンドロイドの狩人
ギルバートがアメーバになる手術をしたセキロク病院へと向かったフローベル。しかし、彼を待ち受けていたのは、自分の知っている世界とは異なる現実の到来だった。狂気と正気の狭間を放浪するフローベルは、じっと妻や仕事先の指令を待つ。そんな中、病院で出会ったはずのハーネットから連絡がきて・・・。フローベルは自分と他人の『差違』を見る。
平仮名や片仮名、英文字などで『ギルバート』という文字をいくぶんよく見かけることにフローベルは気づいた。昨夜、血の原公園を飛び出して、行く当てのなかったフローベルは南駅の広場に行くと、ゴミ置き場で拾った雑誌を顔にかぶせて、寝転びそのまま寝てしまったのだった。そうして朝起きてみると、すでに南駅周辺は多くの人が行き交う公共の場となっていた。
フローベルは一刻も早く、その場を立ち去ろうと思い、とりあえずハーネットと会う約束をするために彼女にメッセージを送信したところだった。彼は目の端に時たま映る景色に違和感を覚え、ふと眉を持ち上げ、周りに気を配った。通行人が小首を傾げながら、フローベルをちらちらと見ては通り過ぎていく。
変わった格好をしていたのだろうか、と自分の格好を見下ろしても多少は汚れているが、仕事の時、着ていくスーツを着崩さずにまともに着ていた。まさか本当に狼男になっているわけでもないだろう。もちろん手を眺めても少し皺が減ったように思うが、人間の肌と手の形をしている。というか満月になれば狂人になるというのはただのジョークじゃないか。真に受ける必要のないことだ。
だとすればフローベルは予想がついたと、渋面を崩した。彼らはアンドロイドだ。彼らはおそらく新しく最近採用されたアンドロイドだろう。ゆえにフローベルのように駅前で寝ている男性というものに『慣れ』ていないのだ。しかしと、フローベルは眉を顰めた。ちょうどフローベルの前を通った、でっぷりと腹がでた汗っかきの男に「すみません」と声をかけた。
「はい・・・?」と振り向くと、彼は目を大きく見開き、真一文字に口を結び、探るようにフローベルの顔を見つめてきた。
「すみません、変なこと聞きますけど、いつここに搬入されたんですか?」
フローベルは心臓が早鐘を打っている音を聞き、喉の渇きを覚え、返答をしばし待った。汗っかきの男は苦悶したあと、「どういうことか・・・よく分からないんですけど。搬入? 何かの営業の話ですか?」と腰の低い、声音で言った。
彼の言葉にフローベルは大きく息を吐き出す勢いで「いえ! 分からないなら別にいいんです・・・アンケート調査みたいなものをしているだけなので・・・」「そうですか」
そう言い残し、彼はチラチラとフローベルの方を振り返りながら、重い足取りでどこかに歩き去った。彼はアンドロイドではないのか・・・いや、彼がアンドロイドだとしても彼自身自分がアンドロイドであることに、気づいているか分からない。
自分を人間だと思い込まされたアンドロイドが、人間に違和感なく近づき、殺す。そういうことかもしれない、とフローベルは思った。人間に近づけた完璧でないアンドロイドを作った理由はそれかもしれない、と。
フローベルは端末のランプがチカチカと光ったのを確認し、周囲に目を配った。ハーネットから返信がきたという知らせを告げるランプが、静まったと同時、向かい側の道路に彼女がいるのを目視した。そのとき、フローベルの視点が彼女の背後にある建物にスッと吸い寄せられた。その建物に『ギルバート』と彫刻されていた。それだけではなく、他のすべての建物にあらゆる表記で『ギルバート』の文字が刻まれ、『ギルバート』とはまるで一国もしくは街の名称の意味を持っているかのようだった。いや、考えすぎるのはよくない。『ギルバート』という文字は最初からそこにあったし、この街の有名な企業に『ギルバート』なるものがあるのだろう。
駅前の道はコンクリートで綺麗に舗装されていた。あたりに車は一台も見当たらない。どうやらこの世界に車というものは存在しなくなったらしい。信号がなくなっていた。白線もなくなっていた。街にはいつもより歩行者が多く、行き交うバスも見受けられない。賑やかだが、一切、そこに昨日まで確かに存在した機械音が入っていなかった。
フローベルは出歩いている人々を見回した。機械音が聞こえなくなったところ、アンドロイドが増えたという状況はすさまじく気持ちが悪い、とフローベルはしかめっ面をし、ハーネットが行き交う人々を危なっかしく避けているのを見て、思った。
ギルバートは何かの代名詞ではないか? それはたとえば国の名前である。或いはこの町の名前だ。ギルバートの名が刻まれている約九割の店は清潔で整ったたたずまいを見せている。しかしその他一割の店のたたずまいは廃れ、みすぼらしい不格好さだった。
ギルバートとは企業の名前かもしれない。だとすれば独占事業だ。この町の収益はギルバート一者が担っているといってよいだろう。ギルバートは強い権威を持った存在かもしれない。ギルバートはこの社会のトップに君臨する存在かもしれない。
フローベルの背筋がゾクリとした。激しい衝動がフローベルの内にわき起こった。ギルバートと聞いて思い出さずにはいられない姿がフローベルの脳裏をよぎった。アメーバのような姿をした彼女ギルバートがいまこの世界のどこかにいる。
彼女ギルバートが雑踏の中からフローベルを見つけて囁くように。
「見て。ここ私の世界・・・」にっこりと笑い、すてきな仕草で誘惑してくる彼女ギルバートが眼前に現れたようにフローベルは感じた。
しかし、美しく魅力的な光景はアメーバの汚い醜態に上書きされた。フローベルはギルバートのアメーバの姿を一度しか見ていない。故にその現実が信じられない。フローベルはギルバートの人間の姿すら見たことがなかった。フローベルは気づいた。
おれはなぜギルバートを人間だと思っているのだ?彼女の人間らしいところをおれは一度だって見ていない。彼女の声を聞いただけだ! あの病院の個室にいたギルバートの関係者もしくは身内がおれを陥れた? あいつらが寝台にいたアメーバをギルバートに仕立て上げた。そして無意味な突発的衝動に駆られたおれにあらかじめボイスレコーダーで録音した彼女の声を聞かせたんだ。そもそもギルバートという名前すら怪しい。ギルバートなんてありふれた名前ではないか。おそらく偽名だろう。そうして準備を整え、あいつらは罠を張り、おれはまんまとその罠に引っかかったわけだ! どうやったのか皆目見当つかないが、どうにかしてギルバートの世界におれを誘い入れることに彼らは成功したわけだ。よく考えればその考えが一番しっくりくる。恨まれる筋合は職業柄いくらでもある。おおかた身内の死の恨みを買われたのだろう。仕方ないといえば仕方ない。世界を動かす中心に関わっていたのだ。リスクを伴う仕事だと承知の上でやっていたことだった。
フローベルは長いため息をついた。世界は永遠に回り続けない。いつかきっと終わりが来る。その終わりを告げる者にならずに済んでよかったと、フローベルは思った。世界に終わりを告げる者はいったい誰に世界の終わりを告げるのだろう? 目を開けるとおれはベッドに横たわっているのではないか。すべては夢だったのではないか。だが、すべてとはどこからどこまでの範囲に当たるのだろうか? おれはそもそも生まれてすらいない受精卵状態…。
フローベルが上の空だった意識を人が蠢く雑踏の中に戻すと、先ほどまで視認できていたハーネットの姿が消えてなくなっていた。見回して、彼女らしき人影は見えるが、ハーネットはいなかった。一体どこに行ったんだ。あれは絶対に見間違いなんかじゃなかった、とフローベルは不満を募らせ、次第に怒りと悲しみを感じ始めていた。
もう一度、彼女を呼ぶ気にはならない。会社からも妻からも連絡は来ず、何をすればいいのか、フローベルは悲嘆に暮れ、嘆いた。再び彼は地面にくずおれ、気絶しようとしていたとき、端末が震え、メールの受信を知らせてきた。「アンドロイドが人間を殺した。今、ニュースでやっている。信じたくはないが、民間の命を危険にさらさせない為だ。君に仕留めてほしい標的の情報をまとめてすぐに送るつもりだ -所長ガム-」と妻パットの端末から送られてきた。
目に映える長い金髪の女性がフローベルに近づいた。彼女はハーネットではなかった。
「何かお困りですか?」
物腰の柔らかい声が聞こえた。女性は地に膝をついた。フローベルが慈悲を求めているように見えたらしい。
彼女は駆け出しの修道女だと名乗った。フローベルは衰弱した体にかこつけて修道女に手を引かれ、ギルバート教会に導かれた。
眼前に見えるギルバート教会は高い尖塔が遠くからでも望める白く大きな教会だった。昨日訪れたセキロク病院からさらに東に抜けると、赤いレンガの屋根で壮麗な建物群が見られる『王宮の丘』地域に入り、そこから目につくギルバート教会はおそらくこの街随一の誇りだろう。
中に入ると冷えた空気が体にこたえた。フローベルは修道女の背中を見つめた後、灯火へと順繰りに視線を動かした。前をゆく修道女が申し訳なさそうに言った。
「あいにく私たちは相部屋なんです。狭いですがどうかご辛抱ください」
「いえいえお構いなく」
彼女の部屋に通された。内装は女の子らしく小物類などが多い。本棚には英語圏の書物が並んでいた。急に私室へ通され生まれた緊張感とお邪魔している罪悪感からフローベルはその場から一歩も動けなかった。
修道女はそこらに散らばった書類などを片付け始めた。それとは別に視界の端で影が動いた。人の気配がする。そういえば相部屋だと彼女がいっていたことを思い出した。ケタケタと笑い声が聞こえた。フローベルに気づいていない。・・・気まずい。
ちらと笑い声のしたほうを見た。仰向けにベッドに寝転んでいる。フローベルは無駄に床を踏みならした。すると、それまで寝転んでいた修道女が体を起こした。
フローベルをここまで案内してくれた修道女より劣った顔立ち、というのが第一印象だ。
彼女は顔を赤面させ、「失礼」と言うとフローベルの脇を通り抜けそそくさと退室してしまった。あの場面はおれが怒られても何も言えなかったはずなのに。
無礼者はどちらかというとフローベルのほうだ。彼女はわざわざ席をはずした。赤面した彼女の顔が再び浮かんだ。だめだ。感情移入が正常に働かなくなっている。彼女の気持ちが分からない。彼女に内蔵はあるのか、赤い血は流れているのか?
人間の皮を被ったアンドロイドがフローベルの体に近づき誘惑する光景が現実を侵食し、腐敗させていく。これは幻か? 人間が人間であることを手っ取り早く確かめる方法がどうして存在しない。これでは出会っていく人間ひとりひとりの川を順繰りに剥いでいくしか他ないじゃないか! 待て正気を失うなフローベル! 目の前にいる人間がたとえ人間じゃなくてもいいじゃないか。そんなことにこだわる必要はない。彼女がフローベルにほほえみかけてくれた。彼女はフローベルを傷つけなかった。大切なことは今の関係。この絆を大切にするんだ。
修道女はフローベルに木製の椅子に座るように勧めた。
「私はグロリアです。さきほど出て行かれた方が相部屋のフリック。私にとって一番近しい先輩になります」
フローベルは部屋の小物類などに目を向けていたが、すぐにグロリアに据えた。
「僕はフローベルです。ありがとうございます、こんな美しい教会に・・・」
グロリアは「別にいいですよ。困ったときはお互い様ですから。ほら、どうぞ」とフローベルに椅子を差し出した。
「すみません。ありがとうございます」
フローベルは椅子に腰掛けた。
グロリアは火の粉がはぜる暖炉を見つめた。彼女の慈愛に満ちた表情から優しさしか感じられない。居心地が悪かった。
「もっと薪をくべましょうか?」
「いえ! お構いなく・・・」
フローベルは窓から差し込む日差しに目を細めた。くそ暑すぎる。汗が止まらない。できれば暖炉の火を消してほしかった。おなかが痛い。緊張してきた。なぜおれはこの場所に導かれたのだろうか。頭がクラクラする。
「・・・あの!」
「は、はい」
フローベルは肩に力が入った。グロリアは不快そうに顔をしかめた。彼女はフローベルから視線をはずした。
「お悩みを聞かせていただきます」
グロリアは優しすぎるのだ。グロリアは人の目をはっきりと見据え攻撃するように相手の悩み、つまり弱さを聞き出すことに慣れていなかった。彼女もまた緊張していた。彼女は不快感を与えることに自覚がある。顔をしかめることがいつしか癖になっていた。顔をしかめる自分が嫌いだとグロリアは何度も思った。
しかし、フローベルの感情移入能力は壊れていた。グロリアの苦しみに気づくことはなかった。ただただ彼の心を彼女の優しさが満ちていた。その反面、グロリアを疑う自分がいる。
フローベルは自分の直面している事態をすべて伝えることに躊躇いがあった。狂人扱いされる気がした。自分は正常でどこにでもいる一般人のひとりだといつも信じている。狂人だと言われ、おまえは普通の人と違うと言われる恐怖が背中にまとわりついて、どこまでも追いかけてくる。
少ない会話と第一印象がフローベルの中でグロリアの人格像を形成した。
グロリアはきっと悩んだことがない。世界に苦しみで終わる運命なんてない。苦しみの果てに待っているのは救いだとグロリアは信じている。グロリアは人に理解されない苦しみを味わったことがないのだろう。 おれは人の生殺与奪権を握る責任感に押しつぶされそうな気持ちを幾度となく味わった。死んだ者の家族の苦しみに目をつぶった。社会に貢献する為だと自分の行いを正当化した。こいつは死ぬ運命にあうような悪行をしたに違いないと犠牲者の価値を下げた。自分の仕事の残酷さに疑問を抱く余地がないほどに。悩みが生まれれば生まれるほど、人に対する敬意など薄れていった。その果てに優しさを持った人間はいない。
社会のため、金のためなら人間は優しさを簡単に捨てる。優しさを捨てた人間はもはや人間じゃない。ご主人に甘えてくる優しい犬や猫のほうがよほど人間性を持っている。グロリアがたとえアメーバだったとしても、アンドロイドだったとしてもフローベルにとって彼女は人間だ。
フローベルがパットから送られてきた情報に目を通してみると、そこに修道女が入っていた。
-ギルバート教会-
ペスト最大の教会であるはずだが、今は違うのかもしれない、とフローベルは思っている。