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フローベルの狂気

 フローベルは目を大きく見開き、口をパクパクと動かしていた。ハッと我に返ったように体をびくつかせ、彼は放たれた電撃のような速さでギルバート病院の扉に飛びついた。そのガラス戸から院内を覗いてみると、惨憺たる有様が彼の目に映り込んだ。本当に腐ってる…中には誰もいないのか? そんな馬鹿な。ついさきほどまで数人の病人にあのハーネットがいたはずじゃないのか? おれが外に出るこの一瞬で、すべてを消し、病院を風化させることなんてできるはずがない! そんな大仰なことは、誰にだってできるはずがない。なぜなら、この地球上に住む人間の生死は、おれが決めているのだから…。

 フローベルは懐に入った《人間を毒殺する機械》を取り出した。まるで米粒をつまむように人差し指と親指でそれをはさむと、彼の視界いっぱいに人名がズラッと表示された。表示された死亡履歴に新たに加えられた死亡者数はたったひとり、『グリア』…ペストの国立オペラ劇場の舞台に立っていた彼女だった。おれは誰も殺してない。考えられるのは何者かが新たな《人間を殺す機械》を開発し、悪用したということだ。ついさっき病院内ですれ違った者、出会った者のうち、機械を操作し、病院内にいた人間を消した奴がいる。きっと密かに練っていた計画だったのだ。だから、誰にも見つかることなく、今日計画は実行されてしまった。しかし、病院を風化させる必要はなかったはずだ。そもそも一体どうやった? 何の目的でやったんだ!

 フローベルは脳震盪を起こす寸前まで、病院の扉に頭を何度も打ち付けた。通行人たちがわざとフローベルを避けて歩いて行く中、一人で歩きながらゲームをしていた少年がふと画面から目を離し、頭を打ち付けている彼を見上げた。

「おじさん、どうしたの? 頭が痛いの? 救急車いるの?」

 少年はフローベルの背中をじっと見つめ、時折ゲーム画面を覗いては、ボタンをポチポチと押していた。

「ねえ。おじさん…」と少年がじれったく声を掛けようとしたところ、フローベルは振り返り、血に染まった顔面を少年に見せた。少年は声をつまらせ、一、二歩後ずさりをすると、吸い付けられるようにフローベルの顔から目が離せなくなった。

「坊やは勇敢だね。おじさんの血を見ても怖くないのかい?」とフローベルが頭の傷を手で押さえながら、少年に近づくと、少年は脱兎のごとくパタパタと来た道を駆けていった。

 

 夜も更け、地の原公園に人影がなくなったところで、フローベルはホテルに泊まることを諦めた。どうせ今から止まる宿を探してもどこも一杯で借りられるところはないだろう、と思ったのだ。フローベルは夜風を凌ぐための古雑誌を漁り、適当なベンチに腰掛けて、ここで夜を明かそうと思った。妻のパットが今の現状を聞いたらなんと言うだろう。まさにホームレスだ。

 六月とは言っても夜はまだ気温が低く、体にこたえる。明日に支障がでなければいいのだが。


 昔、町中で発狂した奴を偶然にも見てしまったことをフローベルは思い出していた。それは世の中に良くあることじゃない。よく言えばそういった輩は希少な存在だ。

 あとでニュースを見ればそいつがヤク中であることが分かった。本当に狂った奴を見たのはそれが初めてだった。

 次の日××高等学校に登校した。おれのクラスの一部のやつらが昨日の狂人を見たとか見なかったとかで騒いでいた。女子は楽しくキャッキャとした様子から一変し、声をひそめだした。男子は冷静にいつもよりハキハキと話していた。その日の教室は静かになることが多かった。終礼の際、先生が昨日の狂人を話題にした。先生は「世の中にはあのような人たちがたくさんいるから・・・」と言った。フローベルは思った。

 先生はおれの住む世界とはまるで違う世界で生きているようだ。おれの住む世界に狂人はいなかった。昨日の発狂した奴を見るまで、おれにとって狂人は透明人間だった。今でもそうだ。一度だけじゃおれは信じられない。何度みれば先生のように知ることができるのだ? この世界は知らないことで溢れている。おれはそういった知らない世界を不条理だ、理不尽だと言ってきた。人が知ることができる世界には限度がある。自分の目で人間が発狂する様を何度見たとしても、決しておれは発狂する世界を知ることはできないだろう。

 先生の言葉が頭にこびりついている。「あのような人はたくさんいるから・・・」

 あのような人とは一体全体どのような人を指しているのだ? それを知るには自分が身をもって発狂しなければならない・・・。最後にたどり着く答えはいつも同じだった。世界は主観でしかなかった。誰も神のような視点に立てず、誰も他人の目で世界を見ることはできない。自分の見ている世界ですべては完結しているんだと、思春期ながらに思っていた。


 あの頃の記憶がどうして今もなお残っているのか。今更、どうして思い出されるのか。そんなこと分かっている。おれは一歩ずつ狂人に近づいているのかもしれない。なぜなら今日は満月の日。夜空に浮かぶ満月がおれを狂わせているのだ。

 フローベルは自分の体を見下ろすと、何も変化がないことに気づいた。夜が深くなると、いつも考えが鈍ってくるのはフローベルの体質のようなものだ。公園の街灯にハエが集っているのが見え、その下で虫網を抱えた年寄りの男性が、ハエを捕らえようと、ブンブン虫網を振り始めた。老人が虫網を地面に置いたときには、街灯に寄っていた虫はいなくなっていた。

 奇怪な行動をする老人がいたものだな、とフローベルは欠伸をし、ベンチに横になった。そうか、彼はあの虫を食べる気なんだろう。上体を少し起こすと、老人はよく見える街灯の下で手に掴んだ虫を口に運んでいた。あの老人を狂人だとは呼べないかもしれない。フローベルが上体を戻し、夜空を見上げると、星々が見えた。

 どこかの星からアメーバ状の生命体が地球にやってきたのだろうが、本当に彼らは宇宙からやってきたのだろうかとフローベルは思った。人間も遺伝子情報にメスをいれることで、アメーバになれるということがギルバートによって証明された。故に彼らアメーバの実態が一層分からなくなった。おれは知らず知らずのうちにアメーバ人間を《人間を毒殺する機械》で殺しているんじゃないかとフローベルは思った。

 彼らに超小型装置が効くことを上の人たちは知っていて、フローベルにアメーバを殺す任務を託したのかもしれない。最もアンドロイドが全くただの一機すらも反抗しないところを見ると、アメーバの敗北は目に見えているだろう。初めてアメーバが侵略したという情報が入ってきたとき、「これは秘密裏に計画されていたアンドロイドは人間に反抗するのか、を確かめる実験じゃないのか」という推測が流行ったのが今では微笑ましい状況ですらある。

 「彼らアンドロイドは決して反抗しない。彼らには人間を超えたいという欲求がないように設計されている」しかし、フローベルは安心・安全を訴える広告を見る度に不安になる。

 

 砂利道を踏みしめる足音が聞こえたので、ふとフローベルが気になって上体を上げると、虫を食べていた老人がベンチの側を歩いているところだった。よれよれのシャツに裾がほつれ、泥まみれに汚れた半ズボンを穿いた彼は、フローベルの顔の横で立ち止まった。

「そこはわしの席じゃねえかあ。まあ…いい。おまえさんにも事情ってもんがあるんだよなあ。今日だけは譲ってやる」

 老人はもごもごと聞き取りにくい声で言うと、その場をあとにのろのろと歩いて行った。

「おじさん! もう大丈夫です。十分に休めたので。先約がいたとは知りませんでした。勝手に使ってすみませんね」

 フローベルは起き上がり、老人に近づくと「おお。あんたあ、優しいお兄ちゃんじゃなあ! 別に遠慮しなくてもいいのになあ。まるで、ロボットのお兄ちゃんとは大違いじゃなあ…」と目も虚ろに言った。

 フローベルは羽織っていた仕事の黒いスーツを老人の背中にかけ、「いえいえ。おじさんも十分優しいですよ」と言い残し、老人の様子をしばらく眺めた後、あてもなく公園を飛び出した。


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