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ギルバートの病院

ギルバートの存在を認めたくなかった。フローベルは彼女の姿を見るために、セキロク病院へと向かうのだが…?

 十分ほど経過して、前に座っていたハーネットがいそいそとベージュ色の鞄を手にとると、中から携帯端末を取りだした。彼女は後ろを振り向くと、我が子を手元に呼んだ。

「そろそろ降りるよ。ハネト」

「まだ十分ほどしか経ってませんよ」とフローベルは驚きの声を上げた。

「ええ。なので、そろそろ南駅に着きます。ギルバートが入院している病院はペストの南駅にあるセキロク病院でしたよね?」

 ハーネットが「あれ、違いました?」と言ったのを聞き、フローベルは自分の情報が間違っていたんだと悟った。彼女はキャスターであり、全国の視聴者に情報を伝える役割を担っている。おれみたいなアマチュアじゃないんだ。彼女の後ろにテレビ局員が数人ついていたのを見て、確信した。

 「いえ、どうやら勘違いしていたみたいです。エゲルの街にセキロク病院があると思っていまして、あと一時間半くらい電車に揺られているものだと」

 フローベルはハハハと笑いをこぼし、恥じいるように頭をかいた。

 「エゲルの街に? どうしてそんな勘違いをしたんでしょう? ニュース記事にそう書いてありました?」かわってハーネットは相好をくずさなかった。フローベルは「きっと見間違いですよ」と言った。

 彼女は納得がいかない様子で、うんともすんともつかない反応をした。ずっと考えていたのだ。エゲルの街にセキロク病院という同名の病院はなかったし、あの元軍事病院はペストの街に一つしかない。そしておかしなことに過去に起きた戦争で使われた病院であるセキロク病院は、ハーネットの記憶では、博物館になっていたはずなのだ。過酷な戦禍であったことを克明に残した元軍事病院を博物館として観光客に展示することは珍しいことではない。しかし、調べてみれば、そこは普通の総合病院として機能しているという。

 ハーネットは端末画面に浮かんだ文字を睨みつけたのを覚えている。結局、機械なんて頼りにならない。やっぱり人に聞いてみないと確信できない、と思った。

 しかし、同僚のスタッフに聞いてみても「元軍事病院で、今は博物館になってるって? そんなこと聞いたことないけど」と返してくる。唯一、フローベルだけが元軍事病院だと言った。何かがおかしいのだ。

 ハーネットは南駅に降り立ち、傾く夕日を見て、思った。夫リッカードに遅くなるって返事送らないと。

フローベルとハーネット一行はとりあえず、「日も傾いてきたので」というハーネットの言葉により、それぞれのホテルに泊まることになった。

 しかし、南駅からすぐ出た外の広場で別れを告げた途端、フローベルはセキロク病院に行きたいという突発的衝動に襲われた。ここから歩いて二十分もかからないとハーネットが言っていたのを思い出した。

 南駅からすぐ右に見えるクリスティーナ通りに出ると、車道を挟んで向こう側は木々が生い茂っているのが見える。携帯端末を開き、ルート検索をかけると、目の前の木々の正体が分かった。「血の原公園」と物騒な名前が表示された。フローベルがそのまま青いラインが通った道路に沿って真っ直ぐ歩いて行くと、公園に左斜めに入る道に突き当たった。ずいぶんと綺麗に舗装された道路だ。

 夕方だというのに、公園内には子どもたちの声がこだましていた。鈴君はもう家に帰っているだろう。今頃、キッチンで料理をしているパットの関心を惹こうと、わがままを言っているのかもしれない。

 父親らしき人影が小さな子どもを抱きかかえた後、頭上に高く掲げていた。おれたちもなるべく鈴君に時間を割けるようにしたい。あの子にさみしい思いをさせているんだろうか。あの子は、。

 気づけば木々が開けた場所に出ていた。真っ直ぐ突き進むと、血の原公園の外に出た。

 セキロク病院に入ると、中は人の汗のにおいが充満していた。かの有名な美人ニュースキャスターがカメラの前でマイク片手にしゃべっているのが見えた。フローベルはその美人キャスターの豊満な胸に見向きもせず、ずんずんと奥へ進んでいった。あれ? あのニュースキャスターとついさっき会った気がするのはなぜだ?

 眼の端にチラチラと病人の顔が入り込んだ。フローベルはふいに失笑を漏らした。

人命の限りはおれがきめているんだ。いくら病院に行って薬をもらおうと、おれが死ねと決めた人間はなんの脈絡なく、ご臨終さま。皮肉なもんだな。彼は懐に入った《人間を毒殺する機械》を握りしめた。

 フローベルは個室の扉の前で立ち止まり、一呼吸置いてから勢いよく開けた。中には数人の先客がいた。全員が一斉にフローベルを見た。しかし、彼らのなかで一際異彩を放つ存在があった。病室にある白いベッドにいた奇妙な生命体である。

「強引なスタッフさんって私嫌いじゃないけど、今は出て行ってください。こういう蒸し暑い中、何人もずかずかと入ってこられると汗が止まりません」

 フローベルは息が詰まって動けなくなった。口腔から声にならない嗚咽が漏れる。

「・・・いいから早く出て行って。さあ!!」

 騒がしかった院内が女声の怒号により静かになった。暑苦しかった院内が急激に涼しくなった。フローベルはだしぬけに巨漢に頬を殴られたショックを味わった。ギルバートという名札がかかっていた部屋にいた彼女は、アメーバのような姿をしていた。

 寒気がフローベルを襲った。一息に彼の顔は青白く染まり、全身の力がひどく減退していった。フローベルは嘔吐した。

 フローベルの吐く音を聞きつけ、中にいた人間がギルバートの個室の扉をガラリと音を立てて、開けた。

 シスターの格好に身を包み、金色に流れる美しい髪が特徴的な若い女性が「あのう…」とフローベルに声をかけた。悲しそうに眉尻をさげ、同情の声をあげた彼女に、しかし、フローベルは気づく余裕などなかった。

 頭からギルバートのアメーバの姿が離れない。個室にいたのは全員ギルバートの関係者だろうか? しかしあいつらはまるでギルバートが普通の人間であるかのような眼で彼女を見ていたように思う。それは気のせいだろうか? フローベルには間違いなくギルバートがアメーバに見えた。ドロドロの粘液質の体を持ち、内蔵なんて存在しない不定形な物質だった。透明で中身は汚いジェルが詰まっていた。固体と液体の中間に存在する生命体のそれはアメーバと称するしか他に呼称のしようがない。そういえば彼女は声帯を持っていた。

 フローベルはあの透き通る声を思い出した。フローベルは個室の白い扉を振り返った。ギルバートの名札がかかっている。フローベルはその場を後にした。フロントまで戻ってくるとまだ以前としてニュースキャスターとカメラがわんさとしていた。近づいていくと彼らの中の美人ニュースキャスターが意味ありげな視線をフローベルに瞬間よこしてきた。彼女に妖艶さこそなければ茶髪のショートカットヘアが健康的な顔立ちだと印象づけた。まだ駆け出しなのか目がキョロキョロとしていた。その焦点が定まった線上の先にいたのはフローベルだった。フローベルもまた彼女を意識した。においがきつい香水は彼女が原因か。

「ねえ、あなたさっきあの個室に入っていった?」

 あの個室とはギルバートの個室のことだろうか? 彼女の態度は変だ。声のトーンを落として一体どんな秘密をおれから聞き出そうとしているのだ?

 なんとなく検討はついている故に言ってしまっていいものかどうかフローベルは早くも逡巡していた。

「ええ、入りましたけどそれが何か?」と、何か文句でもあるのかと言いたげな口調でフローベルは聞いた。

「どんな様子だった?」

 ずかずかと踏み込んでくる、キャスターという職業柄か? どんな様子かと聞いてきたこいつは一体どんな答えをおれに期待しているのだろう。

 答えに窮した。フローベルは悩んでいる素振りを見せた。

「くた・・・びれてました」と、言いつつチラチラとキャスターの顔色を伺った。このキャスターはなぜギルバートを訪れたのだ? 

 フローベルの言っている言葉がちゃんと彼女の会話とかみ合っているのか不安になった。こいつはギルバートがアメーバにされることを知って、この病院を訪れたのだろうか? フローベルはその情報をニュースのヘッドラインで見たからこそ、ここに訪れた。じゃあ、ニュースキャスターも知っていて当然か。

「くたびれていた? それはどういう・・・」

「もういいだろう。おれは忙しい。放っといてくれ!」

 口の中がまだ酸っぱかった。フローベルは病院のそとに出ると、開放的な気分に浸った。病院内は蒸し暑くてムカムカする。なぜエアコンをつけていなかったのだろう。電気料金を気にするほどお金に困っていたとでも言うのだろうか。綺麗な病院であるのに。外見だけで判断しえない後ろめたい事情を抱えているのかもしれない。

 からっとした暑さが降りかかった。服が肌に張り付いて気持ち悪いと感じた。曇り一つない天気を振り仰いでみると、嫌な気持ちが吹き飛んだ。どうやらみんなちゃんと仕事をしているようだ。今日も正常に世界は回っている。空は青く雲は白い!

 フローベルは異変に気づいた。道路が舗装されていなかった。砂利道になっていた。車が通る道は消えてしまったのだろうか。人の雑踏がフローベルの元まで響いてくる。砂利道を歩くあまたの足音が聞こえる。

空が青いのも可笑しいじゃないか。ここに来るまでずっと夕日が登っていたはずだ。あれは幻覚だったのか? それに、院内にいた美人のニュースキャスターは南駅までの移動で乗車した電車の中で出会った人物だ。どうして今の今までお互いに気づかなかったのだろう?

 フローベルは重々しい門扉を押し開けた。門扉が耳障りな不快音を立てた。さび付いた門扉・・・こんなものは入ってくる時なかった。

 フローベルは背後にそびえ建つ病院を見た。そこにセキロク病院の頑丈な石の壁はなく、すべてがコンクリートに変わり、全体的に白色の塗装が剥げ落ちていた。それは廃病院だった。錆びが至るところに見える。赤茶色に錆びた壁にくすんで消えかかった『ギルバート』という看板の文字。

 ギルバート病院は既に何年も前に朽ちた風貌だ。さっきまで稼働していたとは到底思えない内装がフローベルの目には映っていた。扉は自動ドアには見えず、あるはずのない取っ手がついていた。ギルバート…その文字を見るだけで、近づき難い瘴気を感じた。ギルバート…そこにすべてが集約されている気がした。

 ギルバート廃病院がフローベルの足下に大きな影を作っていた。

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