浮浪鈴の音 2
二人はそれぞれの想いを胸に目的地を目指していた。
上演が終わり、パットは身にまとっている赤いドレスが着崩れしていないか、と身だしなみを整えつつ、フローベルを見上げた。彼は席を立ち、眼鏡を外し、眉間を手で揉んでいた。
「はい。これ、目薬」と手渡し、パットは温かい目で彼が目薬をさすのを見た。
二人は場内から出ると、明るい日差しに目をすがめた。まだこんな時間だったか、とパットが時計を確認していると、彼が居心地悪そうにせわしなく周囲に目を配っていた。
「どうかしたの?」と聞くと、「少し用事を思い出した。行かないといけない所があるんだ」と言った後、人混みの中に姿を眩ませてしまった。もう、勝手な人! どこに行くかくらい教えてくれてもいいじゃない。さては女じゃないのか? 仕事が終わればすぐにでも会いたくなるほど好きな女なのか? なんてね…そんな訳ないよね。
パットが意識を彼に寄せ、近くのスーパーマーケットに足を運ぼうかと考えていた矢先、けたたましいサイレンが響き渡った。
「ペスト国家警察だ! 殺人があった場所というのはこのオペラ劇場の中か?」
「はい! そうです」と誰かが言った。当然、人が死んだとなれば通報するよね、と薄く笑いながら、そそくさと退散する為にパットは超小型装置を起動しようとした。あ、そうだった。超小型装置はフローベル君に渡したままだった。まさか、彼、人を許可なく殺すつもりじゃないわよね。誰がいつ死ぬかを決めるのは、あたしたち上司にしか許されていないのに・・・まずい。いくら夫婦といえど、彼と連絡を取るには一旦会社に戻るしかないのよね。一人の警官がパットに近づいてきた。「あなたも、さっきここの劇場で観劇していたお客さんの一人ですね」「違います!」
パットは眉尻を下げ、警官の前から逃げだそうと後ろに引きつつ言った。「待ちなさい。その格好を見るに観ていたのは間違いないんですから」
自分の格好を見下ろすと、確かに野次馬の人たちとは比べるべくもなく派手な服装をしていたことに気づいた。なんて厄日だ。パットは天を仰いだ。
「ちょっとあたし急いでいるんです。お願いですから、見逃してください」「ダメです。ちゃんと事情聴取をしてから・・・」「名前と住所だけ言えばいいでしょ?」とパットが引き下がりそうにないのを見て取ると、警官は渋々といった風にため息をつき、「今回だけですよ」と譲った。
「ありがとうございます」会社のあるエゲルの街まで行くにはまずペストの東駅へ向かわないと・・・。そこから鉄道で急いでも、約二時間半はかかるわね。人を毒殺しなければいいのだけど、あの人。杞憂であることを願うしかなかった。
フローベルはペスト東駅発の電車に乗り、携帯端末でニュースヘッドラインをチェックした。「ペストの街でオペラ歌手死亡、場所はあの世界的に有名な国立オペラ劇場」「変幻自在に姿を変えるアメーバ人間、ギルバートが『なる』と宣言」
これだ。人の好奇心というものは怖いな。悪いことをする、その規模が大量殺戮を可能にさせたのは超小型装置だ。人一人に装置が一つあれば、世界を大混乱に陥れることができるようになった時、その臨時対策として、悪い考えを抱いている人間は即刻排除するという過激思想が成り立った。それを提唱したのがギルバートだ。そして最後にはギルバート自身が超小型装置の餌食となることが決定した。しかし、彼女は死ななかった。人間を辞めたのだ。遺伝子をいじり、アメーバとなりやがった!
「今なお彼女は病院で療養中・・・そしておそらくその病院はエギアの街の元軍事病院。セキロク病院だろうな」フローベルが呟いたのを聞きつけ、美人ニュースキャスターがささっと移動し、フローベルの向かいの席に座った。
「なるほどねえ。じゃあわたしのとこの諜報員と同じ見解ということですね!」彼女は胸ポケットから名刺を取り出した。
「ハーネット・・・ペストのテレビ塔の方ですか」
「はい。さっきあなたの言っていたギルバートについて、色々と調査をしていましてね。もともと私、調査を主な仕事としていたのですが、娘が生まれてからキャスターに転職したんです。ですから、調査となれば私に分からないことはないんですよね。というわけなんですけれども、どうやらあなたもなかなかの腕前のようですね」「いえいえ・・・」と謙遜してみるも、会話は続かず、フローベルとハーネットの間に沈黙が流れた。何をしに近づいてきたのかと思えば、ただ自慢したかっただけなのだろうか、とフローベルは内心考えた。しかし、やけにきつそうなスーツを着ているな。特に胸元がパンパンにはち切れんばかりじゃないか。
本当に娘がいるのかと思うほど若い顔つきで、健康的なショートカットに頬は薄紅色に染まっている。フローベルがハーネットをチラチラと観察していると、彼女に近づく小さな影が見えた。
「ハーネット。いつ着くの?」と少女は彼女の腕を揺すった。
「ああ。もうすぐよ。愛しの天使ちゃん」とハーネットは少女の頬にキスをした。すると少女は向こうのもとの席に戻って行った。「もしかして娘さんですか?」とフローベルは無理矢理口元に笑みを浮かべながら、恐る恐る聞いた。「そうよ。かわいいでしょー。もう小学校二年生になって。今は本を読むのが好きみたい」
ハーネットは「娘の名前はハネト。最初は私と同じ名前にしたかったんだけど、おまえそれは辞めとけって夫に言われて」と幸せそうに満面に笑みを浮かべて言った。「そ、そうなんですか。私にも息子がいるんですが、娘のハネトちゃんと同じ小学校二年生ですよ。偶然ですねー」フローベルはこの女と同じ思考を持っていたことをひどく憎々しく思った。