浮浪鈴の音
浮浪鈴を担ぎ、ホテルに向かうリクと黒理愛。そんな中、浮浪鈴は鈴の音が鳴り響く悪夢を見ていた…。
英雄広場から徒歩約三分のところにあるホソクホテルに、リクと黒理愛は浮浪鈴を担いで行った。
「ずいぶんと都合のいいホテルを予約できたものね」
「ここは殺人事件が起きてから曰く付きのホテルだけど。客室はほとんど埋まっていて、僕一人でプライベートとして来たなら絶対無理だったろうね」とリクは受付を済ませつつ、背中に担いだ浮浪鈴の顔を伺った。フロアにはテラス席付きのカフェがあるいいホテルだ、とリクは付け加えて言った。
「これで雨に濡れた体がやっとすっきりできる…」と安堵の息をついた黒理愛は客室に入り、「へえ~!」と感嘆の息を漏らした。白を基調とした客室はシンプルだったが、二人ほどがくつろぐにはちょうどいい広さだった。 リクは浮浪鈴をベッドに横たえさせ、「部屋は一つしかないけど、君はどうするの?」と肩をほぐしながら言った。
「そんなこと今はどうでもいいから、早く温泉行かない? この辺りって温泉が有名なんでしょう、ガイドさん」と黒理愛は棚に置いてあったパンフレットを手持ち無沙汰にぺらぺらと捲っていく。「市民公園内にあるセーチェニ温泉とかどう? すぐそこじゃない。しかも早朝と夜は安くなるって。もう夜も更けてきたし、ここに決まりだ」
「しかし…」とリク。「なに?」と目をとがらせ、黒理愛はリクを睨んだ。
「水着はどうするんだ?」
「裸でいいじゃない」と黒理愛が言うとリクは「裸でもいいけど、たぶん温泉に入ってる人みんな水着を着てると思うよ。セーチェニ温泉は水着レンタルできると思うけど、サイズが合うかどうか、知らないし」
「もう明日でよくないか」というリクの言葉に黒理愛は、「じゃあわたし一人でいくわ」とさっさと部屋から出て行ってしまった。
「勝手だなあ」と呟くと、リクはベッドに腰を下ろした。しかし、考えてみればもう彼女に付きまとう必要はなくなったわけだ。彼女がアメーバのエイリアンだという確信を得ることはできた。彼女自身それを察して、僕の迷惑にならないように温泉に行くと気を遣って、帰ったのかもしれないし。それとも…そうだ。
僕は人間につくのか、アメーバにつくのかと彼女に聞かれたとき、今は中立だと言った。けれども…上のアンドロイドたちはきっと人間に味方するだろうな。僕だってそうなることを望んでいる。人間にアンドロイドの地位の改善を申し出、協力できれば…これはチャンスなんだ。
リクは苦悶に顔を歪めながら、思った。もし、アメーバに味方し、人間たちを狩れば、より高みに僕たちは登り詰めることができる…チャンスなんだ。
人間の数は残り少ない、と何度も耳にする。アメーバは実は存在しない架空のエイリアン、ただの噂なんじゃないか、と何度も疑った。くそっ! どうしてこんなに頭が痛いんだ? どうしてこんなに汗をかく? どうして人間の優位に立ちたいと思ってしまうのだ! 答えが見つかる日は来るのだろうかとリクは思った。
超小型装置ー《人間を毒殺する機械》を使い、パットに頼まれた作業をしていると、ぼんやりしながら入力したのだろう、ふとギルバートという名前に目が吸い寄せられた。
《人間を毒殺する機械》は直径一ミリメートルの装置で、小さく『G』と刻まれていた。パットはフローベルの上司なのだが、彼女に渡された装置には数百人の死亡履歴がデータとして記録されていたのだ。
フローベルは国立オペラ劇場にて、観劇する客のなかで作業に没頭していた。英雄広場から南西に延びたアンドラーシ通りに建立する国立オペラ劇場は、堅固なレンガ造りの世界有数の劇場である。
フローベルの隣の席で、パットは内心でため息をついた。上演内容は一流もの。にもかかわらず、あたしたちは舞台で咲き誇る華の歌手に激しい情熱を抱かないでいる。今日ほど煩わしい日はないわ! でも、彼女の運命が今日散ることになると分かっていると、同情せざるをえない・・・あまりにも虚しい舞台の結末は、氷のように冷たいものになるでしょうね。心が冷めると分かっているのなら、わざわざ情熱に胸を焦がす必要なんてないもの。
パットは夫のフローベルの肩に手を置いた。もうすぐよ。舞台に咲く彼女の命が散る瞬間、ちゃんと見てあげて。それが、この仕事の重みをもっとも簡単に感じる理由であり、方法なのよ。
舞台に立つ彼女が「うっ・・・」と苦しげに顔を歪め、バタリと倒れた。フローベルがハッと目を見開いたあと、憂鬱そうな顔をしたのをパットは見た。・・・ごめんなさいね。あなたに大変なことを頼んでしまって。あなたが弱い人間だということ、誰よりも妻のあたしが知っているのに。あなたは人の死の重みに耐えられず、きっと自分を追い込んで、最後には「あの彼女のように・・・」
フローベルが「ん・・・どうした? 何か間違っていたのか?」とパットのふと出てしまった呟きに反応した。「いえ。何でもないわ。大丈夫、予定通りよ」
パットは何とか平静を取り繕ったが、フローベルは彼女の顔色がひどいことに気づいていた。ただそのときは、妻の顔色よりも昔の過ちが彼の頭のなかで引っかかり、気がかりだった。《人間を毒殺する機械》の履歴に残されていた『ギルバート』という名前に見覚えがあったのだ。この世は理不尽だとギルバートがよく言っていたな。
銀色の髪を華奢な肩まで伸ばした短髪に、妬ましいほど美しい顔立ちをしていた。だが、毛先が不自然に途切れているのを見ると、いつもどうしたのだろうと思っていた。
それでも、天気の良い日に銀色の髪が日の光で照り返したときにはつい目線が彼女の方へ向かったものだ。くそっ! フローベルは内心自らを罵った。ギルバートという名前を聞くたびにもう記憶から薄れてしまった彼女が本当に銀髪だったのか、それはまた別人なのではないかという記憶齟齬からくる罪悪感がフローベルの心を締め付けていた。
-超小型装置-
人間が開発した特殊装置。直径一センチに満たない代物ばかり。扱う際は落とさないよう注意が必要。強力な装置だが、なくしやすい。