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リッカードの血

 ワインセラーの中に入ると、ひんやりとした空気が身体を包み込んだ。外は夕刻にさしかかったところだったので、外気より若干肌寒い気温に鳥肌が立つのを感じた。暗くて落ち着ける雰囲気だ。今の私の精神状態にぴったり適合した環境だとパットは思った。居心地が良かったのだ。中に客はおらず、オーダーをとる女性が一人立っていた。人間ではないと知りつつも、パットは彼女が人間以外の何者でもないと信じた。十代半ばの顔や出立もその域を出ず、年相応すぎた姿に慄然とした。「ご注文は?」パットは何もいらないと言ったのだが、女性はパットがまだ立っているのを見て、椅子を勧めると、テーブルに水の入ったコップを置いた。気が利く人と思いつつもパットはそれを口に運ぶと、知覚過敏に顔を歪めた。彼女と私との間の年の差は若干二三年と思われるゆえに、丁寧な対応をされことに違和感を覚えた。いやもう慣れつつあるのだろうか。慣れてしまっていいのだろうかとパットは思った。

 ここが最後のワインセラーだった。もしあと数秒経ってもリッカードが姿を現さないのであれば、私たちは彼に負けたことになる。リッカードを逃し、仕事に失敗するのだ。だが失敗だけは阻止しなければならない。私たちは重要な根拠もなく、今回与えられた任務に限らず、失敗という二文字を必ず結果として出してはいけないと思っているのだ。それはもちろん私だけでなく、フローベルも同じ気持ちのはずだ。これは使命だ。放棄してはならないことなのだ。これを捨て去ってしまえば私は私でなくなる。リッカードの逃亡を許すということは私が私として積み上げてきた人格をすべて否定することと同義なのだ。リッカードを追う重要性をフローベルも理解しているだろう。ガムが悲しむような結果を残すことを恐れていることも考慮のうちにあるはずだ。パットは思いだしたようにちびちびと水を口に含んだ。《人間を毒殺する機械》を使い、私たちは目的を達成しようとしている。いや、もしかすれば私の知らないところでフローベルは小型携帯銃で殺した標的もあるのかもしれない。《人間を毒殺する機械》はきっとすべての元同胞たちに静かな眠りを与える道具なのだ。ただ単に毒を吐き出す毒ガスマシンではなく、神経の機能を弱める麻酔薬をとりあえず指定した標的に投与していると思われる。神経毒かもしれないが、彼らはきっといい夢を見ていることだろう。しかし、それは幻想とは異なる類いのものだ。幻ではなく、必ず彼らの見る夢は現実を忠実に再現している。必ずしも存在しえない事柄や想像の類いを見せているわけではない。夢を見すぎて現実を忘れてしまうようなことがあれば、対象にとってそれは毒となるのか薬となるのかとても曖昧なことになるだろう。だが、現実を忘れた先に待つ未来はすべて悪夢のような災厄に見舞われるのだと思う。《人間を毒殺する機械》は対象を殺すための道具である以上、なまじ相手にいい気分を味わわせることになろうと結末は必ず死につながるようにしなければならない。

 パットは入り口を注視した。思いの外、軽い足取りに想像した姿は体躯の大きな相手ではなかった。パットの想像通りの男が入ってきた。小柄で身なりの整った、姿勢のいいアンドロイド。パットはすでに彼が小型携帯銃を片手にぶら下げているのを見た。しかし、彼はアンドロイドなので撃てないはずだと思い、心を鎮めようとするが動悸は次第に激しくなっていった。パットは奥歯を噛みしめ、目に力を込めて言った。「リッカードね…会えて嬉しいわ」精一杯の強がりを込めて、パットは眉間に皺を寄せた。懐から小型携帯銃を取り出そうとまさぐったところ、リッカードが銃口を上げた。パットが声を上げる間もなく、リッカードは何と引き金を引いたのだ。一瞬にしてその場に二つ目の太陽が出現したかのような閃光がほとばしり、易々とパットの傍らにいた女性を焼き、貫いた。穿たれたのは心臓。標的を見事なまで正確に破壊したリッカードは休む間なくパットに銃口を向けた。リッカードは彼女が私の仲間だと思ったのだ。そうに違いない。パットは胸に穴の空いた彼女を哀れみのこもった目で見た。ゴムの焼けたような臭いが鼻をついた。哀れんだところで何かできることなどない。最先端技術を用いたところで手遅れだろう。もう彼女が息を吹き返すことは永久にこないのだ。パットがリッカードに視線を移したとき、自分の手が自然と懐にあった小型携帯銃を掴み取り、リッカードに銃口を突きつけていたことに気づいた。無意識だった。

 熱線が発射されたため周囲の温度が上昇していたので、パットは額に浮き出た汗を拭うと、もう一度、焼き切れた女性の死体を見た。無残だ。アンドロイドもアンドロイドを殺せるのだ。しかし、人間はどうだろうか。きっとリッカードであろうと人間に敵意を向けることはできないはずだ。ガムが言っていたではないか。絶対にアンドロイドは人間に危害を加えないと。絶対安全だと言っていたではないか。あの言葉は嘘だったのか。もしや私たちを不安がらせないようにと事前に用意しておいた言い回しだったのか。リッカードを見ると、撃てないような弱々しい意志は感じられなかった。彼はその気になれば撃てる。撃つつもりだ。きっと撃てないように彼に安全装置が取り付けてあったとしても、彼は撃つためにどんな犠牲を払ったのかは分からないが、安全装置をたやすく破壊して見せるのだ。リッカードの目を見ているとそんな気がしてならなかった。リッカードは表情を動かさず、鼻先を先ほど彼が撃ち殺した女性の死体に向けて言った。「あいつは君の仲間ではなかったのか?」パットは動揺を悟られないように手早く言った。「そうよ。殺す必要なんてなかったのに。あなたは殺したのよ」

 リッカードは手近にあった椅子に腰掛けて言った。「必要があろうとなかろうと、生き物を殺してはいけないだろう。違うのか?」パットはつい感情をあらわにして言った。「違うわ! アンドロイドを生き物とは呼べない。心を持たない機械が人間の振りをしているだけよ」パットはリッカードを前にして余裕など持ち合わせていなかったが、無理に笑みを浮かべた。「さんざんな言われようだけど、僕たちにだって心はある。確かに僕たちと君たちの間には埋めようのない大きな溝があるのかもしれないが、それはきっと心のあるなしは関係ない。この話をすると長くなりそうだからやめておこう。ああ、言っておくが、今僕は君にこうして銃口を向けているが絶対に引き金を引くことはできないんだ。なぜだか分かっているんだろ? 安全装置が働き人間に危害を加える行為を禁止しているからさ。でも、君は違う。簡単にトリガーに引っかけた指を手前に引き倒し、僕を撃ち殺すことができる。いや、僕だけに限らない。生きとし生けるものを死に追いやることができる。僕たちは戦う前に負けている。だから戦いにきた訳ではなく勧誘にきたのだ。君はアンドロイドのほうが性に合っているのではないかと思ってね」パットはリッカードが銃口を下ろし、緊張を解いたのを見て警戒心をゆっくりと鎮めていった。「勧誘にきた?」結局どんな結論に至ろうと、二者択一を迫られるのだとパットは諦観の念を抱いた。リッカードは言った。

 「君ほど弱い人間はアメーバには向かないよ。アメーバになったはじめの頃は姿形が定まらないから、非常に不安定な状態になる。その頃はもちろん精神さえも不安定だ。未熟者がたやすくなれる代物ではないことが重々分かるだろう。だから、アンドロイドになるといい。さらに言えば、アメーバは地球を去ることを今し方決断したところらしい。賢明な判断だ。僕たちも彼らとは争いたくないからね。つまり、彼らは暗く冷たい宇宙空間をさまよい続けることになるだろう。それでもいいのなら僕は止めないが。まあ、アメーバは身体の構造上非常に頑丈な生き物だ。短命ではあるものの、分裂し幾世代も生き残り続けることができる。僕は生理的にあんな生き物になるのは御免だけどね。奴らの神経を疑うよ」パットはリッカードが気に入らなかった。「確かに私は弱い人間かもしれない。だけど、それだからってアンドロイドになるように決めつけるのはよくないと思うわ。私はあなたの言うとおりにしない。もう決めたの」パットの興奮は頂点に達していた。動悸が激しくなり、視界が鮮明になった。銃口はずっとリッカードを向いていたのだ。あとは引き金を引くだけでよかった。ようやく私たちの与えられた仕事をすべて達成できる。その喜びでパットは胸がはち切れんばかりだった。引き金を引く感覚は軽かったが、その重みをずっしりと感じた。目映い光がパットの目を焼き、鼓膜を破くほどの轟音と共にエネルギー弾が瞬間に集約されて破裂した。目の前にあったのはリッカードの残骸だ。もはや生きていた痕跡などなく、彼の身体を動かしていた部品はバラバラに散っていた。さきほどまで言葉を紡ぎ出していた機械部品はどれなのだろうか。探してみるが、どれがどの役割を担っていたか、パットには分からなかった。耳に取り付けた端末が今ならまだ完全なる修理が間に合うと言っている。まさか。バラバラになってもまだ再生可能らしい。アメーバとさほど変わらない身体機能にしかしながらパットが唖然とすることはなかった。

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