黒理愛の笑う門
現代の医療技術で目が良くならないことは決してない。たとえ失明しても目が壊死しても、必ず治る病気だった。
だが、浮浪鈴にとって目の悪化とは違った。彼の目が見るという役割を失ったとき、彼は見えなくても、まあ、いいかと納得しようとした。しかし、彼の目が壊死したとき、目に穴が空くと知った彼は気づいた。他人から見れば、自分はもう人間という括りから外されてしまう。そんな気がしたのだ。浮浪鈴はほどなくして学生という職業をやめることになってしまった。
父方の叔父さんに養子として引き取られた。数ヶ月後、そこで浮浪鈴が職探しをしていた時、義姉が「とっておきの仕事がある」と持ちかけてきた。
「とっておきの仕事って何ですか?」
義姉は「敬語じゃなくていいって言ってるのになあ...」と語散るように呟いた。
「街の巡査係。ロボットの修理員と一緒に行動して、機械のシステムチェックと治安維持の貢献をする仕事」
「それとっておきですか? 自分も目をつけていたやつですけど。っていうかそれしかなかったです」
「だってロボットがどんなものか見てみたいじゃない」
「まあ、そうですね...じゃあダメ元で応募しようかなあ」
「賛成!」と義姉が言ったことに、浮浪鈴は違和感を覚えた。
「え、義姉さんもやるんですか?」
「知ってると思うけど家、貧乏だし。稼がないと」義姉はあらぬ責任を感じているのだろう。
「すみません」と苦笑しながら謝ると、義姉は「あんたのせいじゃないよ。悪いなんて思わなくていいから。引き取るって言ったのはあたしの父親で、それに賛成したのはあたしなんだし」と励ましてくれた。
こんなに優しい人がクラスの中にいただろうか。彼らはいつも他人の不幸を嘲笑っていた。義姉もそうなのだろうか。義姉はその手にいつも石けんの匂いがするくらい神経質な人だが、同じ繊細さを誰かに要求したところは聞いたことがなかった。きっと義姉は我慢しているのだろう。ある日、義姉は言った。「笑う門には福来たるって言葉が好き」ちょうどそのとき、テレビで貧しい国の子どもたちが井戸をつくってくれた日本の若者たちと集まって水浴びをしていた場面が流れていた。テレビを見ながら、義姉は皿洗いをしていた。義姉が蛇口を捻る音が自分の耳に長く強く響いたのを、浮浪鈴は覚えている。キィィィィィィ。子どもたちが水浴びをして笑っている声が薄くなっていった。あの時、義姉は一体どんな顔をしていたのだろう。浮浪鈴は義姉と会った時には既に目が見えなかったので、外見は一切分からないし、どんな表情をするのかも分からない。しかし、浮浪鈴は義姉の声音のニュアンスで、義姉が彼らを嘲笑っていることは分かった。
義姉はあの時きっと疲れていたんだろう。浮浪鈴を引き取ったことが義姉の重荷になっていた。そう思わざるをえなかった。もし正気で言っているのなら、彼女を人間だとは思えなくなってしまう。何よりも恐ろしい一面を浮浪鈴は知りたくなかった。
次の日の夜、浮浪鈴が学校から帰宅すると、父親と二人で会議をしていた義姉が浮浪鈴に「話がある」と切り出した。「何?」と聞くと義姉は言った。
「あんた、学校は辞めて、働きなさい。お父さんと二人であんたの将来のことを相談して決めたことだから」
「え? ちょっと待って。急に」
「ごめん。本当にごめん。でも、こうするしかない。あんたなら分かるよね。あたしたち強くないから。悪いけど、諦めて」
義姉の言葉に浮浪鈴は何も言わなかった。
浮浪鈴は「今日だけ一緒に寝てくれませんか」と義姉に言った。義姉との微妙な距離を近づけておきたかった。義姉は「...わかった。あと敬語じゃなくていいから」と数秒の間を空けて、言った。言うべきではなかったかもしれないと浮浪鈴は一瞬、後悔した。
床に入ると、ときおりチカチカ光る白い光が気になって、眠ることはできなかった。布団の中で義姉が口を開いた。
「昨日いったことは嘘だから。気にすることない」と義姉のひそめた声音が耳に届いた。
義姉は余計な心配事を抱えていることが多い。
「気にしてないです。あれは義姉さんの優しさなんですよね。先回りして言ってくれたんだと思ってました。どちらかというと自分の台詞です。あれは」
「あんたが言うと自虐ネタになるでしょ」
目が悪くなってクラスのみんなに嘲笑された浮浪鈴は「笑う門には福来たるって言葉が好き」なんて台詞を言いたくても言えなかった。あの出来事を忘れたい一心で、面白おかしく軽い一言で言っていれば、きっともっと楽になっていたかもしれない。でも、浮浪鈴の傷はさらに深くなる。義姉はそれを分かっていたから、先取りして言ってくれたんだと浮浪鈴は思った。
「どうして義姉さんは...ただ自虐ネタを言わせたくないだけで?」
「本心だから。さっき嘘だって言ったのは、あんたが勘違いしてるかもしれないと思ったから。あたしが優しさであんなことを言ったって。それは嘘。仕方なく言ったんじゃなくて本心から好きだって言ったの」
「なんでわざわざそんなこと」
「あんたまだクラスのみんなに嘲笑らわれたこと気にしてるんでしょう? その人たちが笑った理由はきっとあんたが他人だから。あんたが可笑しかったこともあるかもしれないけど、もしその場に今のあたしがいたら絶対笑わない。他人の不幸は好きだけど、知り合いの不幸は好きじゃないから」
浮浪鈴が黙っていると、義姉が囁いた。
「最後に好きな子にでも告白しに行ったら?」「立夏亜土に会っても嫌な顔されたりしないですかね」「友達? 男子かな」「そう。なんで男子って分かったんですか?」「なんとなく聞いたことあるなあって気がして。それに、あんたがあたしに好きな女の子を見せる勇気がないことくらいこの数ヶ月でわかってるし」「なんで義姉さんに見せるって...」「だって嫌な顔してるかどうか聞くなんてあたしに確認してほしいって言ってるようなもんじゃん。あんた目が見えないんだから」「盲目になったこと、これでも一応ショック受けてるんだから、あんまり弄らないでほしいんですけど」浮浪鈴はすまし顔で言った。
義姉は、本当はサバサバした口調と姉御肌な態度で優しい人なのだ。
「あたしもついて行って良いよね。はなからそういうつもりなんでしょ?」
「そうです。だから、もちろんいいですよ。願ったり叶ったりです。こっちから頼む手間が省けました」
浮浪鈴は、二人の間に流れている微妙な距離感をつかみ合っている空気をなんとか打ち壊したかった。だから、義姉と友人に会う約束ができて、ホッとした。
そして、約束をした日から一週間が経った現在、しかしながら未だ果たされていなかった。それよりもまずは仕事だと言うことだ。
「ほら、二人で頑張れば楽勝だって」と義姉が言うと、「そうかな」と浮浪鈴は携帯端末の電源をオンにし、義姉を見上げた。今では携帯端末一つあれば、特定の仕事に関して、面接にエントリーすることは簡単だ。
「名前、なんて言うんですか?」と浮浪鈴はこわばった面持ちで義姉に尋ねた。
エントリーするには多少の個人情報を提供しなくてはならないのだが、義姉の名前を一度も呼んだことがないことを浮浪鈴は今思い出した。
「ああ、そうか。応募するにはその人の個人情報打ち込まないとダメなのか」とぼやきながら、義姉が大学の学生証を浮浪鈴に手渡した。
「名前ではあんまり呼んでほしくないんだけどね。ほとんど本名で名指しされたことないから。呼ばれても気づかないと思うから」
「じゃあなんて呼ばれているんですか?」
「グロリアって。お父さんとお母さんにもそう呼ばれてる」
学生証を見ると、義姉の名前が黒理愛だと分かった。
「そのあだ名、本名と大差ないですね」
でも、案外そう呼ばれるの好きなんだ、と義姉は無邪気に語った。